「掌掴」
その頃の于成龍は毎日のように苛立っていた。于はまだ若く、才気に溢れ、肉体にも気力が充溢していた。しかしまったく仕官の道が立たない。いろいろと各方面へ金銭を絡めた運動をするのだが効果はなかった。その力を存分に発揮してやろうと思っているのに、それに相応しい場が与えられない。自分の力を尽くして社会と文明のために仕事をしようとしているのに、肝心の社会と文明の方は自分を全然必要としていない……そのことを考えれば考えるほど、于の苛立ちは募った。
于は直情径行型の人間である。怒る時にはすぐに怒り、泣く時にはすぐに泣く。笑みはいつも満面の笑みである。大変な感激屋で、しかも感激屋であることを恥じていない。それでいてある程度の礼というものも弁えている。だから、「于はその凶暴な本性を礼によって糊塗しているのだ」と陰口を叩かれることもしばしばあった。実のところは凶暴なのではなく感激しやすいだけであり、糊塗しているのではなく実際にちゃんと礼を身につけているのだが、そのような陰口を叩かれるような人格的な隙が于にあるのもまた事実だった。とにかく于はまだ若かった。そうであるからまだ仕官の道が立たないのかもしれなかった。
仕事もなく、やることもない。だからといって于は酒を飲んだり博打をしたりということはしなかった。もちろん女と遊ぶこともなかった。それは于の価値観がそうであったからというより、なんとなく彼はそのような遊びをする気が起きなかったからという方が正しかった。とにかく若い于は無気力だった。彼は寝て過ごすことが多かった。夜にどれだけ眠っていても、朝起きると頭がぼんやりしてすっきりしない。仕方がないので朝も昼も眠る。昼寝は長い時で二刻にも及んだ。
ある日のことだった。その日の午後も于は昼寝をしていた。于はいつしか夢を見ていた。
桃色の空には穏やかな形をした白い雲が漂っていて、周りには鮮やかな緑の草木が生えている。遠くに見える山並みも優しい曲線を描いていて、綺麗に区切られた田園には米麦や豆、野菜などの作物が豊かに実っていた。しかし、道をゆく者は于だけである。そのことをちょっと寂しく思わなくもなかったが、夢の中の風景自体は実に興趣に富んでいるので、于は次第にうきうきとした気分になって道をさらに進んでいった。
歩いているうちに、于はある宮殿に至った。見上げるばかりの大きな宮殿だった。しかし、大きくはあるが華美ではない。より正確に言うならば、宮殿は大きいというより荘厳だった。壁面にはびっしりと細かく何かの彫刻が施してあるが、よく見えない。
立派な屋根のついた門の向こうからは鼻腔をくすぐる香の良い香りが漂ってくる。門には扁額が掲げられていて、「地蔵王府」の四文字が美しい流麗な書体で書かれていた。于は門をくぐって宮殿の敷地を進んでいった。石造りの階段があり、それをのぼった先には本殿があった。
殿上には、一人の少年が瞑目して趺坐していた。とても可愛らしい顔つきで、一見すると女の子のように見えなくもない。ほっそりとした体には乾いた色の質素な衣を纏っている。赤みの差した頬はちょっとふっくらとしていて、ごく柔和な雰囲気を漂わせていた。于はすぐに、ああこれが地蔵王様なんだなと直感した。于は地蔵王の前にしずしずと進んでいった。それでも少年のような姿をした地蔵王は目を閉じたまま座っていた。
見れば見るほど、それは地蔵王で間違いなかった。于はじっと地蔵王を見つめた。すでにして彼は感激の頂点に達していた。ありがたいという気持ちが彼の中で渦を巻いていた。こんなに可愛らしくて美しい方が地蔵王であることがほとんど信じられなかった。自分の目に薄く涙が浮かぶのを彼は感じた。そして、こんなに感激しているのに地蔵王の方は何も反応を示してくれないのを、彼はちょっと残念に思った。
その時ふと、于は、地蔵王といえば人間界の生死を司っている存在であることを思い出した。そして同時に、于は家の老僕について思い出していた。その老僕は于の祖父の代から家に仕えていて、非常に誠実で勤勉な男だった。于のことを自分の孫のように可愛がっており、なかなか仕官の道が立たなくてとかく燻りがちの于に対しても、「いつか坊ちゃまには相応しい道が拓けますよ」と言ってくれるのだった。于の家族と使用人たち全員がこの老僕のことを深く愛していたが、残念ながら老僕は少し前に重い病にかかり、動けない状態が続いていた。もう長くはないというのが医師の見立てだった。
于は、地蔵王にあの老僕の生死についてお願いできないだろうかと考えた。
そこで于は地蔵王に向かってしばらく揖礼をし、それから恭しい口調で名乗りを上げた。「地蔵王様、私は山西省永寧に住まう于成龍と申します。今日は地蔵王様にひとつお願いがございます」 それは礼にかなった立派な仕草と口調だった。しかし地蔵王はまったく動かない。目も開かないし、口も開かなかった。
こっちが礼を尽くしているのに、なんだその態度は。于は少しだけ心の中で苛立つものを感じたが、ここで怒っては元も子もないと思い、さっそく老僕のことについて話を切り出した。
「我が于家には長年誠実に仕えている老僕の某がおりますが、この者は久しく病で寝付いております。このままでは死ぬまでさほど時間はないものと思われます。どうか地蔵王様、この老僕の某の寿命を延ばしていただけませんか?」
しかし地蔵王は答えない。目は閉ざされたままで、ちょっとだけ微笑のようなものを浮かべているが、口を開いて言葉を発することはない。于は、流石にちょっと図々しい願いだったかなと思いつつ、こういう機会でもなければ直接地蔵王様にお頼みすることなどできないのだから、今はもっと頑張るべきだと思い直し、再度言葉を尽くして老僕の寿命を延ばしてくれるように頼んだ。「地蔵王様、地蔵王様、私の于家に長年仕えております老僕の某でございますが……」 しかし地蔵王はまったく反応を見せない。
于が頼む。地蔵王は微動だにしない。こんなことが六回も繰り返された。ついに于は激怒した。この地蔵野郎、こっちがこんなにも礼を尽くして言っているのに、完全に無視しやがるのか! 寿命が延ばせないならそれはそれで構わない。多少無茶な要求をしているのはこちらだってよく分かっているのだ。だが、最初から最後まで無視を決め込まれるというのは非常にこちらの癇に障る。
地蔵王だからって舐めんなよ、コラ! それまでの礼に則った恭しい態度は瞬時にして消え去り、于は憤怒の表情を浮かべて足音も荒々しく地蔵王に近寄ると、そのふっくらとして赤みの差している上品な頬へ向かって鋭く一発の掌掴を放った。それは手首のスナップをよく効かせた見事な掌掴だった。
地蔵王の頬はその見かけに違わず、非常に掌掴のし甲斐のある素晴らしい頬だった。目の覚めるような良い音が殿上に響いた。于は、さらにもう何発か掌掴したくなるのを必死になって堪えた。
だが、于から掌掴を食らっても地蔵王は動じなかった。崩れることもなく倒れることもない。しかし、ついに、やっとのことで、地蔵王は両目を開いた。頬に一発もらったというのに至極優しい目と口元をしている。地蔵王は仕方ないなぁというような笑みを浮かべて、于に対して右手の人差し指を一本、ゆっくりと伸ばして、それからちょっと曲げてみせた。良いですか、これっきりですよ。そう言っているようにも見えた。
そこではっとして于は夢から覚めた。久しぶりの快眠だった。それでも地蔵王がなぜあの時に指を一本だけ曲げたのかが気になって、于は家族や知人、寺の僧侶に尋ねて回った。話を聞いた家族も知人も首を傾げるばかりだったが、僧侶だけはなるほどというように頷いて、于に対して言った。
「地蔵王の一指は一紀を意味する。一紀とはつまり十二年のことだ。おそらく、寿命が十二年延びることを意味するのではないか」
この期に及んで指と紀の駄洒落かよ! 于はそう思ったが、不思議なことに老僕の病はみるみるうちに癒えて、さらにその後もきっかり十二年間生きた。
その十二年の間に于は仕官の道を得て順当に出世した。最終的に于成龍は両江総督にまで官を進めた。彼は生涯地蔵王を尊崇することが篤く、部下に対しても使用人に対しても仁慈のこもった振る舞いを為したが、ただ、血色の良いふっくらとした頬を見ると思わず掌掴を放ってしまうという奇癖だけは終生消えなかった。
(「掌掴」おわり)
「天箭」
江蘇省蘇州の淘夔典の弟はかなりの乱暴者だった。年齢は十六歳で、しかし十六歳にしては言動が幼く、ものの考え方も未熟そのもので、困ったことがあるとすぐに腕力に頼ろうとする。日々喧嘩に明け暮れ、書も読まず、学問もしない。
唯一得意なのは弓矢だった。それとて狩りや競技でその腕前を発揮するのではない。ただ空に向かって矢を放つだけである。弟はこれを「天箭」と冗談めかして称していた。矢にはしっかりとした鏃がついていて、離れたところに勢いをつけて落ちてくるのだから危ないことこの上ない。
弟は父母も含めて誰の言うことも聞かなかったが、兄の淘夔典の言うことだけは比較的よく聞いた。淘夔典は何度も弟に向かって天箭をやめるように言った。今は誰も怪我をしていないが、そのうち流れ矢に当たって怪我をしたり死ぬ者が出たらどうする。弓矢の腕を磨くのだったら、狩りをするか、それとも的を狙うかしろ。弟はその場では殊勝な顔をして「分かりました、兄さん。もうしません」と答える。だが、数日も経つともう天箭を再開しているのだった。
ある日、弟はまた天箭をした。そこは太湖の畔だった。ちょうど淘夔典は近くにいてそれを目撃したので、弟を諫めようと近寄りかけた。弟め、普段あれだけ言っているのに、また天箭をしている。今度ばかりはきつく言っておかねば……兄が近寄るその間にも、弟は次の矢を弓に番えていた。
その次の瞬間だった。弟は突然次の矢を射る手を止めて、弓を地面に投げ出し、仰向けに地面に倒れてしまった。驚いて淘夔典が駆け寄って抱き起こすと、弟は顔面蒼白で目を限界まで見開いており、口からは小蟹のように泡を噴き出している。そして、普段とはまったく違うおどろおどろしい声を弟は発した。
「我は太湖に住まう水神なるぞ。我が天に向かってここを過るに汝の矢が当たり、臀に負傷した。水神を傷つけた罪は万死に値するぞ」
淘夔典は仰天して、弟をすぐに家に運び込んだ。家に帰っても弟は痙攣を続けたままで、口からは同じ言葉を繰り返す。淘家の者はみな泣いて、跪いて水神に「どうか命だけはお許しください」と哀願をしたが、ついに弟を救うことはできなかった。弟は病むこと一日にして死んでしまった。
葬儀の時、淘夔典は弟の遺体の収まった棺桶の蓋を撫でながら心の中でこう思った。確かに弟は腕白で手が付けられないやつだった。しかし、仮にも水神という鬼神に属する存在が、子どもの放った箭の一本も避けられないとは、どういうことだろうか。
あるいは家族が気づかなかっただけで、弟の弓矢の腕はいつの間にか鬼神をも傷つけるほどに上達していたのかもしれない。淘夔典はそのように考え直した。弟の弓矢の腕前を認めてやって、それをもっと別な方向で活かせるようにこちらが配慮してやれば、こんなことにはならなかったのではないか……そう思うと、淘夔典は弟が哀れでならなくなった。
淘夔典の弟が天箭をする時に用いていた弓は、今も家に保管されている。あえてそれを手に取る者もいない。
(「天箭」おわり)
「巨獣」
福建商人の陳某はそれまで陸上で商いをしていた。誠実に商売に励んだところ数年後にはちょうど資金も貯まったので、今度は船を用いて大規模に商いをすることにした。
地元の商人仲間数人と金を出し合い、新しい船を購入し、腕利きの水夫を雇い、船腹に商品をたくさん詰め込んだ。初めての航海だったので、陳は人任せにすることはせず自分も船に乗り込んだ。他の商人も同じく船に乗った。
折悪しく、海上に船が出てからは猛烈な嵐になった。颶風は一昼夜荒れ狂い、船は揉みに揉まれてすぐさま沈没寸前になった。舵は破壊されており、甲板も剥がれて浸水が著しい。
陳たちは船が転覆するのを防ぐために、やむを得ず貴重な積み荷を捨てた。それでも船は安定しない。最終手段として、陳たちは船の主檣も斧で切り倒すことにした。主檣を切り倒せば安定性は回復するが、船は自力で航行する能力を失う。しかしありがたいことに、斧の最初の一撃を加えるその直前になって、風雨が一目瞭然に弱くなった。結局、主檣は失わずに済んだ。
そのまま陳たちの船は流れに流されて、南海のどこかに浮かぶ島に辿り着いた。見たこともないほど奇怪な形をした樹木の群れが森をなしていて、浜辺には椰子の木が生えている。毒々しい色をした蟹やヤドカリがあたりを這いまわっていた。森の中は蛇や虫が充満している。島の前面には大きな山が聳え立っていた。山の上の崖は平坦で歩きやすそうだった。気温は高く、湿度も高い。それでも陳たちは陸地に辿り着いたことを天に感謝した。
陳は仲間と水夫と共に上陸することにした。彼らは一緒に山を登り、薪をとって野草を摘んだ。野草は食糧の足しにするつもりだった。さらに先へと陳たちは進んでいった。初めはごく狭かった山道も、一、二里ほど進むとだんだん広くなって、二人並んで歩けるほどになった。しかし、ここで日没が来てしまった。崖の上にはものすごい海風が吹きすさび、眼下の樹々の間では怪鳥が鳴き騒ぐ声が聞こえる。あまり深入りせずにその日は帰ることになった。
次の日、陳たちは道具を持ち出して船の修理に励んだ。幸いなことに、島には利用できる木材が豊富にあった。食糧も水も数日分ならばある。船の損傷も思ったよりも深刻ではなかった。老朽船ではなく、進水したばかりの新造船だったことが幸いしたようだった。その日の昼の間、陳たちは順調に作業を進め、一応は出帆できるというところまで船の状態を元通りにすることができた。
島に漂着してから三日目、この日は海風が凄まじく、とても出帆などできそうになかった。丸一日を無為に過ごすわけにはいかなかったため、陳たちは初日に引き返したあの地点よりもさらに先へと行ってみることにした。その先には水や食糧があるかもしれなかった。崖の上でも海風は激しかったが、仲間同士で手を取って支え合うと、問題なく進むことができた。
初日の道を辿ってさらに八、九里ほど進んでいくと山道が終わり、さらに道を下った先は平滑地になっていた。どこまでも森と平原が続いている。海は見えなかった。ほどなくして小さな川に出た。川の水は澄んでいて綺麗な碧色をしている。陳たちは歓喜して水を飲み、持ってきた容器に水を詰め始めた。
川の傍らにはさほど高くない、土ばかりの茶色い小山があった。作業を終えた陳たちはその小山に登って、日光浴をして休息することにした。だが、小山に近づくと、何かがぜいぜいという荒い息をしているのが聞こえてくる。どうやら大きな獣が小山のどこかに潜んでいるようだった。仲間たちはそれを聞くなり不気味に思って、その場から逃げ出した。
だが、元から肝の太いことを自慢していた陳は、いったいどんな獣がこの小山に棲息しているのか確かめたくなった。彼は小山の近くに生えている大樹に登って身を隠し、そっと様子を窺った。
すぐに陳は、一つの大きな穴が小山の西側に開いているのに気が付いた。しばらくすると、その穴の中から獣がのっそりと姿を現した。大きさは水牛の三倍ほどもある。全体的に見て形も色も象に似ているが、額の真ん中には一本の白くて鋭い角が生えていて、それが日光を浴びると刃物のようにキラキラと光る。樹上の陳は、その巨獣の発する凄まじい獣臭を嗅ぎ取ることができた。あまりにも臭いので陳は布切れで鼻と口を覆った。そのまま臭いを嗅いでいたら気絶して樹から落ちそうだった。
巨獣はしばらく小山の周りを重い足音を立てて歩き回った。巨獣の口からはしきりに半透明の涎がだらだらと流れ落ちている。その涎がまた悪臭を放っている。やがて巨獣は舞台のように平たい石の近くまで行くと、その上にどっかりと腰をおろし、長く大きな鳴き声を発した。鳴き声は凄まじいものだった。竹木を裂くかと思われるほどである。危うく陳は樹上から落ちるところだった。
なんとか堪えて陳が樹上に留まっていると、あたかも巨獣の鳴き声に応えたように島中の獣たちがやって来た。虎、豹、猿、鹿など、合わせて千頭以上にもなる獣たちが集まると、類別ごとに整然とした列を成し、巨獣の前に恭しく跪く。それは天子や王の拝謁を賜る臣下たちの様子とそっくりだった。
巨獣はしばらく頭を動かして、獣たちを吟味するようだった。巨獣の目は濁っていた。そして巨獣はよく肥えた獲物を選び出すと、自ら体を動かして、それを踏み潰した。
踏み殺された獣は体が破裂して外に内臓を飛び散らせたが、巨獣はその内臓を舐めとるようにして食し、さらに血を啜り取った。他の動物たちはぶるぶると震えるだけで動こうとしない。さらに巨獣は四頭の獲物を同じようにして殺し、同じようにして食した。満腹になると、巨獣はまたあの大きな鳴き声を発し、それから長い尾を引きずって小山の穴へと帰っていった。
巨獣が姿を消すと、動物たちも呪縛から解き放たれたように体を動かし始め、四方へ逃げ散っていった。すべての動物がその場から姿を消したのを確認してから、陳は樹から下りて船へと向かって駆け戻った。
陳は仲間たちに目撃したことを話した。全員が可能な限りすぐに出帆することに同意した。幸いなことに、次の日の朝になると海風は穏やかになっていた。再び海に出た船は無事に航海を続け、数日後には福建の港に辿り着くことができた。
帰国してから、陳は学者たちにあの島で見た巨獣について尋ねて回った。だが、誰もその正体について明らかにすることはできなかった。「犀牛の一種ではないか」という者もいた。
その後、陳はさらに二回、船での商売を試みたが、いずれも嵐のために上手くいかなかった。損失を出して無一文になった彼はまた陸上での商売に戻り、ほどほどに成功して、老齢に達してからこの世を去った。同じ船に乗った他の商人たちはその後も船での商売を続けたが、いずれも嵐に遭って行方不明になった。
(「巨獣」おわり)
「海和尚」
「ええ、そりゃ、あの潘の旦那は非常に激しい方でしたよ。まったく容赦のない性格で……こちらが怠業しているのを見つけると、怒鳴りつけて鞭を振るうんです。その鞭の使い方にもまた容赦がなくて……びしっと音を立てて、肉が裂けるんです。ほら、これを見てください。これは私が、網を引き上げる時に力を抜いているのを潘の旦那に見咎められて、一発もらった時の傷跡です。真っ赤な血が噴き出して、それが海水に沁みて……しかし私も含めて、誰も潘の旦那を怨んではいませんよ。旦那は激しくて怒りっぽくて厳しい人でしたが、儲けはちゃんと私たち漁夫に還元しましたし、それに理不尽な理由では鞭は振るいませんでしたからね」
「潘の旦那は地元の網元の中では一番の金持ちでした。生涯漁業一筋でしたね。他のことには目もくれません。金があるからといって他の事業に手を出すこともなく……海を知り尽くしていました。面白いことも変わったこともすべて知っているんです。そう、海の妖怪や怪異、化け物についても知っていましたね」
「私たちもまた潘の旦那にくっついて毎日のように網を打っていたので、実際に変わったものを引き揚げることがありましたよ。そう、世間の人々が想像もしないような変わったものを……」
「その日は潘の旦那が先頭に立って、浜で網を打っていたんです」
「一回目と二回目は、特に大した成果はありませんでした。諦めずに三回目を打って網を曳いてみると、いつもよりも倍以上の手応えがある。いえ、倍どころではありません。とにかく重いんです。これは鱶でも入ったのかもしれないと汗をかきつつ格闘していました。潘の旦那も私たちが苦戦しているのを見て、自ら網を曳くのに加わりました。全員で力を合わせて、やっとの思いで、肩の上に担ぐようにして網を浜に揚げました」
「すると……網の中には鱶なんていませんでした。それでは何がいたのかというと……」
「小人がいたんですよ。六、七人……いや、八人でしたね。八人もの小人がいたんです。身の丈はだいたい三尺くらいから五尺だったでしょうか……姿形は普通の人間とさほど違いはありませんが、真っ黒に日焼けした体は痩せ細っていて肋骨が浮いています。よくよく見ると、耳の先が尖っているんです」
「小人たちは網の中で行儀よく一列になって趺坐しておりました。目をじっと閉じていて、手には印を結んでいて、一様に穏やかな表情を浮かべています。しかしやがて自分たちが網の中にいることに気づくと、小人たちは目を開けて立ち上がり、周りにいる私たちに向かってしきりに合掌をし、最敬礼の仕草をするのです」
「小人たちの頭頂部はつるりと禿げていました。剃髪した僧侶とそっくりです。彼らは私たちに向かって盛んに何か話しかけてくるのですが、何を言っているのか、それがどういう言葉なのか、こちらにはまったく分かりません。やがて、小人たちはどうやら私たちに『海に帰してほしい』と言っているようだと分かりました」
「私たちは潘の旦那を見ました。これだけ変わったものを網で揚げたのだから、儲けに厳しい潘の旦那は絶対に逃さないだろう。きっと捕まえて檻にでも入れて売り飛ばすに違いない。私たちはそう思ったんです。ですが、潘の旦那は私たちに『早く網を開いてやれ』と言いました。そして、ぞろぞろと網から出てきた八人の小人たち一人ずつに対して、潘の旦那は深々と頭を下げて謝罪をするのです。『お騒がせして申し訳なかった』とも言います。とても心のこもった振る舞いと言葉遣いでした」
「小人たちもまた私たちに対して合掌をし、さらに最敬礼をしてから、海に向かって去っていきました。波の立っている海面へまっすぐ歩いていき、海に数十歩くらい入ると、小人たちはすぐに水中に没して姿を消してしまいました。網を引き揚げてからそこまで四半刻も経っていなかったと思います。あっという間の出来事でした」
「まだ呆気に取られている私たちに対して、潘の旦那は言いました。『あの小人たちは海和尚というのだ。海和尚たちは、海中で生活をする敬虔な仏教徒でな、ひたすら瞑想と祈りをして暮らしている。その性情はきわめて慈悲に富んでいて善良なのだ。飢渇に対して非常に優れた耐性を有していて、一年間食い物をやらなくても餓死することはない』」
「そしてまた、潘の旦那は、どこか緊張を秘めた声で言いました。『海和尚は魚でもなければ貝でもない。だから売りものにはならない。売りものにならないものを抱えていても意味がない。だから俺は放したのだ。それに海においては、ああいう一見無害そうな存在こそ、実は大いなる祟りをなさないとも限らない。それが海というものの底知れなさなのだ。おい、分かったら仕事に戻れ。今日の儲けはまだ出ていないぞ……』」
「私はその後、市の方で見世物小屋が海和尚を展示しているのを見たことがあります。ですが、それは本物とは似ても似つかないもので……山で捕まえてきた子猿の全身を紺色に染めて、頭頂部だけをツルツルに剃り上げているんです。子猿はきいきいと母親恋しさに鳴いていて……見物人たちはそれを見て、阿呆のようにぽかんと口を開けているんです。馬鹿馬鹿しいのといたたまれないのとで、私はすぐに見世物小屋を出ました」
「それ以外にも変わったものが網にかかったことはありますが、海和尚ほどに変わったものはありませんでしたね。彼らが合掌と最敬礼をする姿は今でも脳裏に焼き付いています」
「潘の旦那は死ぬ直前まで自分で網を曳いていましたよ。今では息子が二代目として後を継いでいます。この息子がまた父親そっくりで……また海和尚を揚げることがあったら、二代目はどういう対応をするのでしょうね」
(「海和尚」おわり)