「人間、生きていればいろいろと衝撃的なことに遭遇します。無二の友人が錯乱して人殺しを犯したり、奇病で村の人間が半分死んだり、洪水や地震といった天災に見舞われたり……しかし、自分が住んでいる場所からほど近いところに化物の巣窟があると知ることほど、衝撃的なことはないでしょう。そうですよ、私は実際にそれに遭遇したのです」
「ええ、遭遇したはずです。間違いなく遭遇したはずなのです。私がなぜこのようにいちいち自分の記憶を確かめるように言葉を発するのか疑問に思われるかもしれませんが、これには理由があるのです。一つずつ、順を追って説明いたします」
「私は福建省の住民でございます。住んでいる村はなんていうこともない普通の村で……山間の小さな村です。平和な村です。村で起こる不幸なできごとも、おおむね普通の不幸でしかありません。村民たちは主に農業をして生計を立てております。育てているのは主に陸稲ですね。野菜と豆も育てています。付近の山々には綺麗な水が流れておりまして、そこには小魚やら貝やらがたくさんおりますから、村民たちは農業のかたわら、こういったものを獲って食事の足しにしているのです」
「特に、川では『蚌』と呼ばれる貝がよく獲れます。ええ、別名ではイシガイとかカラスガイとか、ドブガイとかと呼ばれる、あの『蚌』でございます。蚌は大きなものでは手のひらくらいにもなる黒い二枚貝で、大蒜と焼酎と共に煮て食べるとなかなか美味い。他の地方ではこの貝を使って真珠を養殖するなんていうこともするそうです。また、よく乾燥させてほぐした身は薬にもなるのだとか……私の村では、食べてばかりでそういったことはしませんが。私はこの蚌が大好物でした。今では、ある理由から食べていませんが……」
「ある日のことです。私は薪を取りに海口方面の山に出かけたのでございます。そこは村からはさほど離れたところではありません。せいぜい十里くらいのところで……行って帰ってくるだけなら一刻もあれば足ります。ただ薪を取るだけならばわざわざそんな山にまで行く必要はないのですが、私は子どもの頃から山歩きが大好きなもので、その日も遊びと気分転換を兼ねてそこへ行くことにしたのです」
「まだ寝床の中でゴロゴロしている家族に行ってくると小声で告げて、私は朝早くに家を出発しました。その山に行くのはもちろんその日が初めてでしたが、道中には特に変わったところもなく順調に先へと進むことができました。予定していた通り、半刻後には山に着きました」
「さっさと薪を取り終えてしまうと、私は早めの昼食を食べて、それから山を探検することにしました。小さい頃から好んで山歩きをしていたので遭難の心配はありません。私は自由な気持ちで山の中を歩き続けました。私は川を見つけるつもりでした。村の近くの山々と同じようにこの山にも川が流れているのならば、魚や貝、それに大好物の蚌を獲ることができるだろうと、そのように思ったのです。私はしばらく山を下って谷の方へ行くことにしました。川は大抵、山と山の合間、谷の底を流れていますからね」
「思った通り、ほどなくして私は一つの渓流に行き当たりました。渓流といっても穏やかなものではありません。川の両側は切り立った岩の崖になっていて、流れも小さな滝のようになっています。ただし水はとても綺麗で、小さな魚たちが躍るように泳ぎ回っていました。私は蚌がいないものかと思って辺りを探したのですが、そこにはいませんでした。なんとなくこのまま帰るのも癪だったので、私は渓流を遡るか、それともちょっと下るか、思案しました」
「山歩きに慣れていない人間が遭難をするのは、大抵の場合渓流においてです。想像以上に渓流というのは怖ろしい場所でして、ちょっと下ろうと思って滝の流れている崖を下りると、もう登り返すことはできない。傾斜はほぼ垂直で、壁面はじめじめしていて手がかりがありませんからね。それに足を踏み外したら岩場へ一直線に落下することになります。頭から落ちれば、頭蓋骨が砕けてそのままあの世行きです。そうやって命の危険を冒して滝を下ったとしても、その先に待っているのはまた同じような下り……そして、もうやめようと思って引き返しても、登ることはできないのです。山で遭難した時は渓流を探せ、などという人がいますが、私からするとそれは考えものです。むしろ渓流は命を奪う危険な場所だと認識しておいた方が良いでしょう」
「そういうわけでしたので、たかが蚌を探すくらいでこれ以上危ないことをする必要はない、今日はここで切り上げて帰ろうと思ったのです。薪を載せた背負子が置いてある場所までの道はしっかりと把握していました」
「しかし、私が渓流から離れようとしたその時でした。何やら奇妙な声が聞こえてくるのです。気になって、私はしばらく耳を澄ませました。鳥か、獣の声だろうか? 最初はそう思いました。あるいは気のせいか、それとも聞き間違いか……聞き間違いではありませんでした。確かに聞こえてきます。どうもそれは人間の声のようなのです。男のものとも女のものともつかない声……それが、渓流のどこか向こうの方から聞こえてくるようでした」
「聞こえてしまうと、もう無視することはできません。すでに立ち去りかけていた私は体の向きを変えて、もう一度渓流の方へ戻りました。歩いていくうちに声はますます大きくなります。それはどうやら『剥剥』と言っているように聞こえるのです。聞けば聞くほど不気味な声でした。しばらく声の在処を探っていると、側面の崖に少しだけ切れ目があるのに気づきました。切れ目には人一人が通れるくらいの細い道があります。先ほどまでは角度の関係で気づかなかったようです。声はその先から聞こえていました。私は声に導かれるように細い道へと進んでいきました」
「崖の間の道は、太った人間ならば途中で腹が閊えてしまうほどの幅しかありませんでした。苦労して私は先へ進み、ほどなくして抜けました。道の先には大きな池がありました。細長い形をしていて、ずっと向こうまで広がっています。しかし、向こう側は森の木陰に隠れていて見えないのです。水面は深い青色を湛えています。てっきり水深は深いのかと思ったのですが、足をちょっと踏み入れてみるとくるぶしの上が濡れるほどの深さしかありません。『剥剥』という声はまだ聞こえていましたが、やはり姿は見当たりませんでした。私は、こうなったらなんとしてでも声の正体を確かめてやろうと決心して、さらに向こう側へと行くことにしました」
「向こうへ行くにつれて水深はどんどん深くなっていました。不気味な声はどんどん大きくなっています。途中で何回か、ここで引き返すべきではないかと私は思いました。何か、とんでもないところへ自分は足を踏み入れつつあるのではないか? そんな気がしてならなかったのです。しかし、これこそがまさに山歩きだ、これこそまさに探検だ、こういう探検をしなければ気分転換にも遊びにもならない。そのように思いもするのです」
「何度か同じような思考を繰り返しているうちに、突然、視界が開けました。そこは日光が燦燦と降り注いでいました。淡い光の粒子が珠のように丸くまとまって水面の上を漂っています。水の色は碧色で半透明でした。先ほどまでとは空気の味も変わったようで、どこか肺の奥にじんと沁みるような重さも感じます」
「私はしばらくその幻想的な光景に見入っていたのですが、やがてあることに気づきました。何やら異様なものがたくさん、おびただしいほどに転がっているのです。それは池の水面を覆い尽くしていました。それはあたかも、ふと地面を見ると蟻が一匹走っていて、しばらくそれを見ているうちに付近の地面一帯に大量の蟻が走り回っているのに気づいた時のような……そういう感じでした」
「それは大きなものでは一丈ほど、小さなものでも数尺ほどの大きさがあります。四角い形をしていて、よく焼いた黒炭のような色合いをしているのです。どこかで見たことがあるような気がしなくもないのですが、思い出せません。もっと近寄って私はよく観察することにしました」
「ようやく、それの正体が分かりました。それは、なんと蚌だったのです」
「巨大な蚌がゴロゴロと何個も池の中に転がっていて……累々と折り重なっているのです。どの蚌もぴったりと口を閉じていました」
「それは壮観というよりも、ただただ不気味な光景でした。私は、やはり自分は来てはいけない場所に来てしまったのだと思いました。ここは人間が足を踏み入れてはならないところなのだ。それを心のどこかで予感していたのに、私はそれを無視してここに来てしまった……ここの大きな蚌を持ち帰ろうとか、あるいは獲ってここで食べてみようとか、そういう気にはまったくなりませんでした。実際にあの光景を目にすれば私と同じ気持ちになるでしょう。私はすぐに踵を返して帰ろうとしました」
「その時、突然、その場に大きな声が響きました。あの『剥剥』という声です。それは殺される直前の牛が後ろ脚で踏ん張って進むまいとしている時に口から漏らす唸り声にも似ていました。はっとして私は池の蚌を見ました。それはひと際大きな蚌でした。大きさは二丈近くあります。それが少しだけ隙間を開けていて、そこから低い声が漏れているのです。息を呑んで私が見ていると、蚌はさらに隙間を広げました」
「口の中には女がいました。肌も髪の毛も爪もすべて藍色の女です。若くて豊かな体つきをしていますが、顔は巷間に伝えられる夜叉そっくりで、裂けた口からは逆さに鋭い牙が何本も飛び出しています。夜叉は蚌の中で寝そべっていましたが、私に気づくと身を起こしました。よく見ると、その手足からは平べったい腱のようなものが伸びていて、貝殻の裏側に完全にくっついているんです」
「私と夜叉の目が合いました。夜叉の目は細く、瞼の間から爛々と赤く燃える瞳が光っています。夜叉は私のことをじっと見つめながらしばらく物憂げに手足を動かしていましたが、やがて口を開いて声を発しました。それがあの『剥剥』なのです。すると、それに触発されたかのように、その場にいる大小すべての蚌が口を大きく開きました。どの蚌の中にも女の夜叉たちが入っています。そして、同じような声で『剥剥』と言うのです」
「この時になって、ようやく私は足を動かすことができました。腰を抜かさなかったのは奇跡的でした。走って元来た道を辿り、池を出てあの崖の間の小さな道を目指すのですが、なんと後ろから蚌が追いかけてくるのです。蚌たちは転がるようにして走ってきました。激しい水音と、岩と岩が擦れるような音が響いてきます。山中に『剥剥』という声が響いていました」
「私は振り返らずに走り続けました。蚌はとても足が速く、あと少しで追いつかれるというところまで来ましたが、その時すでに私は崖の間の細い道に入っていました。私がそこを通り抜けると、蚌はもう追ってきませんでした」
「私は大急ぎで薪を置いてあるところまで戻ると、一目散に村に帰りました。そして村人たちに自分の見聞きしたことを語りました。しかし、当然のことながら誰も私の話を信じてくれません。私もそれ以上あえて語ろうとはしませんでした。その後、私はその山に行くことはありませんでした。あそこに蚌の住処があると思うと落ち着かないのですが、確かめに戻る勇気もありません。何度か悪夢を見ました。蚌の大群が山から転がるようにして下りてきて、村を襲うのです。蚌は口を開いて、その中にいる夜叉も口を開いて、私たちを生きたまま食らう……そういう悪夢でした」
「それから数年が経って、私は用事があって海口方面にある大きな市に向かいました。用事というのは、豆を売る商人と商談をすることだったのですが、用件が一段落してふと見ると、部屋の奥に非常に大きな二枚貝の貝殻があるのです。殻の大きさは一丈ほどはあったでしょうか……大きさといい、その黒炭のような色合いといい、四角い形といい、私があの時あの山奥で見た蚌とそっくりです」
「どこでその貝殻を手に入れたのだと商人に尋ねると、商人は答えました。『この近くの山の麓には某村があって、その村は山の渓流で蚌を獲ることで生計を立てています。蚌を食べるだけでなく、貝殻の中で真珠を育てさせたり、あるいは身を乾燥させて薬にしたりと色々な使い方をしていて、それが結構な金になります。この貝殻は、ある時その村が私に対して『いつも誠実な商売をしてくれる』感謝と記念の品として贈ってくれたものです』」
「私は商人に自分が体験したことを話しました。商人は真剣な顔をして聞いてくれましたが、あまり驚いた様子もありませんでした。彼は言いました。『生まれてからあまりにも歳をとり過ぎた蚌は姿が変化して夜叉のようになるといいます。これを『五酉』というのですが、あなたは偶然、そういう蚌がたくさん棲息している池に入ってしまったのでしょう』」
「さらに商人は言いました。『某村の人々は蚌を獲る時は、口の中で『剥剥』と唱えることにしているそうです。要するにそれは蚌の声の鳴き真似なのですが、これを口にしていると、向こうはこちらのことを仲間だと思って攻撃しなくなる。唱えている限りはまったく安全で、蚌の間を歩き回ることも可能になるとか。ただし、某村の人間は、それほどまでに大きくなってしまった蚌を獲ることはしないそうです。夜叉の肉は食べることもできないし、薬にもできないからだとのこと。ただし、何かの折に悪さをすると困るので、見つけ次第殺すようにはしていると言っていました……』」
「商人は私に、『その村にあなたの見た蚌の池について伝えておきますか?』と言いました。『私が伝えれば、村の人間はすぐにでも蚌を駆除してくれるでしょう』 私は少し迷いました。こうして商人から話を聞いてみると、あの蚌たちは姿こそ奇怪ですが、実のところは単なる蚌でしかありません。人間が偶然足を踏み入れない限りは、あの蚌たちが池から出てくることもないでしょう。生き物を必要以上に殺すことは、紛れもなく罪に当たることです」
「しかし、私の村からたったの十里ほどしか離れていない場所に、あのような池があるのもまた不気味です。あの化物の巣窟に、将来、私の子どもや孫が迷い込んでしまったとしたら……しきりに、私がそれまで何度も見た悪夢が脳裏をよぎりました。大きな蚌がゴロゴロと転がって村に乱入し、子どもたちに襲い掛かって、貝殻を使って肉を剥ぎ取っていく……みんな走って逃げるのですが、誰も逃れることはできません。蚌はすさまじい速さで走り、捕え、肉を削ぎ取っていく……」
「ややあって、私は決断しました。私は商人に、その場所に関する情報を伝えました。それでも案外、その時のことを思い出すのには苦労しました。自分が思っているよりも、記憶というものは当てにならないのだということを私はその時知りました。道、距離、山の形、渓流の流れる方向、崖の位置……どれもがぼんやりとしていてはっきりしません。それでも商人は細部のぼやけている私の話を辛抱強く聞き取って筆を動かし、文章にして紙に書き残しました。簡単な絵図も描き添えています。『あなたは正しい選択をしましたよ』と最後に商人は言いました。『化物なんてものはこの世から消滅した方が良いのですからね』」
「話を終えた時にはもう二刻近くが経過していました。私が商人の家を出ようとした、その時でした。商人がちょっと首を傾げながら私に言ったのです。『しかし、あなたの話の中では一つ辻褄の合わない点があります。辻褄が合わないというか、少し違和感があるというか……』 いかにも不思議そうな顔をしているので、私としても『それは何ですか?』と尋ねないわけにはいきません」
「すると商人は答えました。『確かに大きくなり過ぎた蚌は夜叉の姿になります。近寄ってくる動物を貝殻に挟んで食べることもあるそうです。それを避けるために某村の村人は『剥剥』と唱えるのです。しかし、いくら大きくても所詮は蚌でしかありません。地面を転がって走って、逃げていく人を追いかけるということはできないはずなのです』 商人は言葉を切ってから、私に言いました。『もしかすると蚌は、さらに歳を重ねて大きくなると人間を追いかけるようになるのかもしれませんね。村人たちには特に注意するように伝えておきます……人間を積極的に襲って食べるほど危険な蚌でしたら、なおさら駆除する必要がありますからね』」
「その時は長い話を終えて疲れていたこともあってか、あまりその商人の言葉を気にしなかったのですが……次の日になって村への帰り道を辿っている最中に、だんだん私は疑念に囚われ始めました。あの時、私は本当に蚌に追いかけられたのか? 確かに私は追いかけられたはずです。確かにその記憶があります。ですが、思ったよりも記憶というものは当てにならないものだということは実感したばかりです。私は本当に蚌に追いかけられたのか? あの時、私は振り向きもせずに走って逃げました。振り向いたら追いつかれると思ったからです。しかし振り向いてもいないのに、どうして私は蚌が転がって追いかけてくるのが分かったのでしょう? 本当は私は追いかけられてなどおらず、実のところは、あれは恐怖の感情が生み出した幻覚に過ぎなかったのではないか……? そう思うと、疑念はますます強くなりました」
「そうだとしたら、私は偽りの記憶に基づいて、蚌が駆除されるのを選んだことになります。私は、実際にはそんな事実などないのにも拘わらず、誤った記憶に基づいて、蚌の危険性を過大に伝えてしまったのかもしれないのです。そのことに思い至った時、私は市に引き返して商人に話そうかと思いました。あれは私の思い違いだったかもしれない。本当は蚌に追われてなどいなかったかもしれない。だから蚌を駆除するのは少し待ってくれ……そのように言うべきか? 私は迷いました。すでに道は半ばまで過ぎていました。引き返すなら今のうちでした」
「それでも、私は結局、市には引き返さなかったのです。自分でもその理由は分かりませんでした。商人にそのことを言うべきだと強く感じていたのに、なぜか私は市に戻ることができなかったのです。その日のうちに私は村に戻りました」
「その後、あの池がどうなったのかは分かりません。その商人にもう一度会うこともありませんでした。しかし、たぶん池の蚌は全滅したのだろうと思います。私が商人に話したのは不確かな情報だったかもしれませんが、それでもその気になればあの池を探し出すことはそれほど難しくないはずです」
「今でも私は、後悔に似た気分に襲われます。私は平和なうちに暮らしていた蚌たちとその住処を台無しにしたのではないかと思って……一方で、あのような蚌はこの世から消えてなくなった方が良いのだと強いて思い込もうともしています。それが未来の子孫たちのためにもなると……そのようなことをまったく信じていないのに、そのように思い込もうとしているのです」
「なぜあの時、市に引き返すことができなかったのか、今では分かるような気がします。結局のところ、私は蚌の命よりも、自分のことが大切だったのでしょう。自分の記憶があやふやであること、また自分は普段そのあやふやな記憶に基づいて生きていること、そして、もしそのことを自覚できたとしても、結局のところ自分はそのようなあやふやな記憶に基づいた生き方をするしかないということ……これまで気づかなかっただけで、私は勘違いで蚌を駆除するようなことを無数に犯してきたのかもしれない。偽りの記憶に基づいて、取り返しのつかない過ちを数えきれないほど犯してきたのかもしれない。もしかすると人を傷つけたり、殺したりしたかもしれない……そのことを認めるのが怖かったのでしょう。市に引き返して商人に話せば、それを認めたことになります。そして一度認めてしまえば、もう二度と普通に生きていくことができなくなるのです……」
「私は初めに、『自分が住んでいる場所からほど近いところに化物の巣窟があると知ることほど衝撃的なことはない』と言いました。しかし、そんなことは全然大したことではなかったのです。本当に衝撃的なことというのは……改めて繰り返すまでもありませんね。私はそれ以来、胸を張って生きるということができなくなりました」
「私はもう山歩きをしていません。蚌を食べることもやめました。子どもや孫たちには念のため、大きな蚌に遭遇したら『剥剥』と唱えるように教えていますが、これもたぶん意味のないことでしょう。今ではもはや、あの時嫌になるほど聞いたはずの『剥剥』という鳴き声すらも、あまり鮮明に思い出せなくなっているのですから」
(「剥剥」おわり)