「誰だい、アンタは? このあたりじゃ見ねぇ顔だな。どこから来た?……なるほど、
「で、アンタは何の仕事をしてるんだ? なんだって?
「で、俺みたいな炭鉱夫にいったい何の用事で会いに来たんだい? 学も教養もねぇ、文も書けねぇ、論語すら知らねぇ、できることと言ったら穴を掘ることと岩を砕くこと、石炭を運び出すこと、それから酒を飲むだけ……いや、たまに女も買うな。そんな俺に何の用事なんだい?」
「なんだって? 『天空の
「なに?
「これはなんだい? この
「俺だってそんなに頭が悪く生まれたわけじゃねえ。これでもけっこう頭は良かったんだ。ここ
「で、学問をやめちまったら親父が怒ってな。お前とは縁を切ると言うんだ。当然のことながら親父は絶対だったから、もうこうなったら仕方ねえ、俺は家を出て知人、友人、親戚のところを渡り歩いた。だから二十歳になるまではしっかりとした仕事をしていたわけじゃねえ。だが殺しだけはしてねえよ、それは確かだ……もう少し酒はねえのか? おお、ありがとよ」
「そんで二十歳になってから、まとまった金が必要になった。理由? 金がいるのに理由なんてあるもんか。金は金だから必要なんだよ。とにかく金が必要だった。俺はその時の仲間たちにいろいろと尋ねて回った。楽して稼げる方法はねえのかってな。そしたら、俺の仲間の中でも特にひねくれていて口の悪い奴が俺に言ったんだ。『楽して稼げる仕事で金を稼いでいてもクズはクズのままだぜ』ってな。『だから苦労しても全然稼げねぇ仕事をして金を稼げよ、おめえはクズなんだから』って言う。いつもは奴が何かを言うたびに俺は奴をぶん殴っていたんだが、その時ばかりはなんとなく腑に落ちるものがあった。だから、苦労しても全然稼げねえ仕事を選ぼうと決心した」
「で、調べてみたら
「炭鉱夫の仕事はやっぱりきつかった。周りの奴らは逃げ出すか、死ぬか、行方不明になるか、どれかだった。俺と一緒に仕事を始めた連中で、一年後も残っていたのは誰もいなかった。俺だけさ。なぜか俺だけが生き残った。仕事としてはあまり大したことはねえ。とにかく掘り進めていくだけさ。俺のいた鉱山は大きなところでな、でっかい坑道が掘ってあって、そこから小さい坑道がいくつも枝分かれしている。でっかい坑道は人間が何人も並んで立って歩けるほどだが、小さい坑道は這って進んで、這いながら掘らないといけねえ。みんなでっかい坑道で働きたがったが、でも小さい坑道じゃないと石炭が手に入らない。小さい坑道にはな、竹で出来たつっかえ棒を何本も持っていって、掘り進めるとそれを立てて上が崩れてきそうになるのを防ぐ。掘る道具は
「だんだん酔いが回ってきちまったし、あんたも随分と待たされたような顔をしているから、そろそろ『天空の牡鹿』について話してやろうか」
「働き始めた頃から、上長だの年上の炭鉱夫だのから『天空の牡鹿には気を付けろ』と何度も言われた。天空の牡鹿っていうのは、やっぱり牡鹿なのさ。鹿なんだよ。真っ白な角が生えていて、毛皮も真っ白なのさ。空に浮かぶ雲のような白さなんだよ。でも天空の牡鹿は地下にいる。山の中、地面の下で奴らはずっと眠っている。奴らは人が来るのを待っているのさ。で、俺たち炭鉱夫が仕事をしていると、たまに眠っている奴らに行き当たってしまう。掘り抜いちまうのさ。そしたら奴らは目を覚ますのさ。それで、俺たちに向かって話しかけてくる」
「その時俺は三十歳だったな。もう働き始めてから十年が経っていた。事故で死ぬことはなかったが、だいぶ肺が弱っていて、一日が終わる頃には息が切れて立てなくなるなんてこともしょっちゅうだった。だからそろそろ死ぬだろうと思っていたし、その日に天空の牡鹿を掘り抜いちまった時には『ああ、これが俺の最後の仕事になるんだろうな』と思ったさ。天空の牡鹿は大きかった。真っ白な毛皮でな。表面にびっしりと細かな毛を生やしていて、それが俺たちの持っている小さな灯の光を浴びて薄く輝いている」
「ぞっとしたぜ。天空の牡鹿の顔は人間の顔とまったく同じだったのさ。傷一つない、染みひとつない、真っ白な綺麗な顔でな。目も澄んでいる。だが、どこか遠くを見てるのさ。まったくの無表情でな。いけすかねえ顔だった。坑道の闇の中で、顔と角だけが俺たちの灯に照らされてぼうっと浮かんでいる。ぞっとするぜ。ぞっとする。酒をくれよ。で、天空の牡鹿は俺たちに向かって、口を開いたのさ。ああ? その時俺たちは何人いたのかって? 十人くらいはいたかな。大きな坑道を掘っていたところだったんでね」
「奴の声は澄んでいて、美しかった。でもぞっとしたね。人間の声じゃねえ。でも人間の顔と人間の口から声が出てるんだぜ。奴はこう言った。『私は空が見たいのです。私をここから出してください。お礼に金と銀が出るところを教えて差し上げます。あなた方は大金持ちになれます。私は空が見たいのです。私をここから出してください』 おい、酒をくれよ」
「俺は言ってやった。『お前を外には出さねえ。お前はここでずっと暮らすんだ。永遠にな』 残酷なことを言うって? 仕方がねえ。天空の牡鹿にはそう言葉を返すことになっているんだ。奴らの言うことを聞いて外に出したらどうなるか。天空の牡鹿が太陽の光を浴びたら……いや、その話は最後にしてやるよ。おい、酒をもっとくれよ」
「俺の言葉を聞いて、天空の牡鹿は泣き始めた。赤ん坊のように顔をくしゃくしゃにしてな。赤ん坊とまったく同じ声で泣き始めた。坑道の中で奴の泣き声が反響すると、耐えがたいほどに耳に響いた。しばらく泣き声は続いた。泣き声はどんどん大きくなって、坑道全体が振動していた。俺たちのうちの何人かは、耳から血を噴き出していた。俺も途中から何もものが聞こえなくなった。無音になっちまった中で、いきなり天空の牡鹿の表情が元に戻った。それで、走り始めた。坑道を上に向かってな」
「俺たちは天空の牡鹿を取り押さえようとした。取り押さえて、奥に押し込んで、その後は岩石を置いて奴を封印する。それが決まりだったのさ。だからそのようにしようとしたんだが、やっぱり鹿とはいえ天空の牡鹿だ。奴の力は強かった。それに奴は、邪魔をするものに一切の容赦をしなかった。何人もの奴が牡鹿に踏まれて、角で突かれた。それに奴は、口から変な空気を出すのさ。それを吸っているとだんだん息が詰まってくる。俺の仲間はバタバタ倒れた。最後は俺だけが奴を抑えていた。いや、もう抑えられていなかったな。俺は走っていく奴にしがみついていただけだ。奴のケツにしがみついていた」
「奴は物凄い速さで坑道を駆け上っていった。他の炭鉱夫たちも俺たちに気づいて、道具を放り出して取り押さえようとするんだが、もうすでにすごい勢いがついているから止まらねえ。ついに牡鹿は、鉱山の入口に辿り着いちまった。まだ太陽は中天から少し逸れたところにいた。未の刻だったんじゃねえかな。おい、酒だよ。酒をくれ。ここからが大切なところなんだから」
「で、だ。ついに坑道を抜け出て、外の世界に出て、日の光を浴びた天空の牡鹿はどうなったと思う?」
「溶けちまったのさ。一瞬にして溶けた。熱湯を注がれた雪が溶けるように……いや、小便をかけられた雪のように、奴は溶けちまったのさ。奴の体は角から尻尾の先に至るまで、一瞬にして溶けて真っ黒なドロドロの汁になっちまった。臭い汁だった。腐った魚よりもひでえ臭いさ。俺はそれを全身に浴びた。それで、『ああ、俺もこれで死ぬんだな』って思った。なんで、だって? その天空の牡鹿が溶けた液体っていうのは、ありとあらゆる疫病と死の元だからさ。だから、俺たち炭鉱夫は天空の牡鹿を地上にやっちゃいけないことになっていたのさ。奴が地上に逃げたら、地上の世界では病気と死が蔓延するからな」
「でも、不思議なことに、俺は死ななかったのさ。俺は病気にもならなかったし、むしろどんどん元気になっていった。その日から
「今日に至るまで俺は元気なままさ。なに? 運が良かったですね、だって? アンタは文人のくせに想像力が乏しいな。いいか? 俺は死ぬより酷い目に遭ってるのさ、今もな」
「俺が天空の牡鹿を取り押さえられなかったから大勢の人間が死んだ。まあそれは良いのさ。俺以外の奴でもたぶん奴を押さえることはできなかっただろうからな。病気で大勢が死のうが、炭鉱では毎年同じくらいの奴が事故で死んでる。病気で死んだ大勢の奴らだって、俺たちが命懸けで掘った石炭を使って安逸に暮らしていたんだ。俺の知ったことではない」
「だがな、俺はこれから先も、たぶん、ずっと、生き続けるんだぜ。なにせ、歳をとるごとに俺はどんどん健康になってるんだからな。この肌艶を見ろよ。六十を前にした炭鉱夫の肌か? 女の肌と同じだぜ。たぶん、俺は軽く百歳は生きると思う。二百歳まで生きるかもな」
「その割には、俺はもういろんなことに興味をなくしちまってる。今では酒しか飲めねえし、実を言うと味もよく分からねえんだ。あの後、俺は若い頃にやったいろいろな遊びをもう一度やってみたりした。でも、全然面白くねえんだ。そうさ。今も俺は何も面白くねえし、何も楽しいと思わねえ。それでもこの後もずっと生き続けるんだ。何も面白くねえと感じながら、ずっと……あの天空の牡鹿の汁は、たぶんだが、直接身に浴びた者をそういうふうにする呪いでもあったんだろう」
「今では、天空の牡鹿がなんであれほどまでに外に出たがったのか分かる気がするぜ。奴らだって馬鹿じゃねえ、きっと自分が太陽の光を浴びたら溶けてしまうことくらいは知っていたはずさ。それなのになぜ、奴は外に出たがったのか……酒だよ、酒をくれ」
「快楽だよ! 絶対的な快楽を得るためさ。俺は見たんだ。天空の牡鹿が日の光を浴びた瞬間を……」
「奴の顔は、快楽に歪んでいた」
「人間の男が女と交わって、精を吐き出すのと同じ顔をして、奴は快楽に顔を歪めていた。目から涙をこぼして、舌を捩れさせて、表情を歪ませて……今でも俺の瞼に焼き付いている。奴の性器は赤黒く勃起していた」
「天空の牡鹿は、最初で最後の絶頂を覚えながら溶けていったのさ。自分の命と引き換えにしてな」
「俺も、できるなら天空の牡鹿と同じように死にたい。最後にどでかい快楽を得て、それを感じたまま、溶けるようにして死にてぇよ。でも、たぶん無理なんだろうな。俺は生き続ける。この後も、ずっと……いつまで? 最近じゃ、俺も地下に潜ろうかと思っている。生き埋めにしてもらうのさ。なんで、だって? そりゃお前、分かるだろ」
「おい、酒だよ。酒をもっとくれ。こんなに薄い酒じゃ全然酔えねえよ」
(「鹿」おわり)
今回の話の元ネタは『ボルヘス怪奇譚集』において紹介されているウィラビー・ミード『中国の妖怪と鬼』(1928年)の「天空の雄鹿」です。ウィラビー・ミード自身は話の出典を清朝中国で書かれた妖怪本『子不語』からとったようですね。掌編というには長くなり過ぎた! 大急ぎで書いたのでまた後で手を加えるかもしれません。