フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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7. 雷

 少子部(ちいさこべ)栖軽(すがる)は身の丈六尺五寸(約一九〇cm)、体重は二十五貫(約一〇〇kg)、筋骨隆々たる堂々とした体格で、力に優れ武芸に通じ、そうでありながら多少は詩も詠めるという風雅な面も持っていた。顔つきは雄々しく、若々しく、初々しかった。彼は美しかった。

 

 そうであるから栖軽(すがる)は若いうちから天皇の肺脯(しふ)の従者となった。この天皇というのは雄略天皇であった。雄略天皇は大泊瀬(おおはつせ)稚武(わかたけ)天皇(すめらみこと)ともいい、二十三年もの間、初瀬(はつせ)にあった朝倉の宮で天下を治めた。

 

 これは雄略天皇が磐余(いわれ)の宮に住んでいた時の話であるが……

 

 その日、天皇は(きさき)大極殿(だいごくでん)で一緒に休んでいた。時刻は()の刻だった。太陽は白っぽく空のやや低いところで輝いていた。だが、奈良のなだらかな山々の遠くの空には黒い雲が湧き起こりつつあった。午前から午後のはじめにかけて雨が降りそうだった……猛烈な雨が。

 

 暗い空間の中で、天皇は后と婚合(くながい)をしていた——当時においては、血脈はあたかも炎が流れるように自然に受け継がれていた。決して彼らは単なる血の器ではなかった。

 

 そこへ、少子部(ちいさこべ)栖軽(すがる)が入って来てしまった。栖軽(すがる)はちょうどその日の朝方に天香具山に跋扈する盗賊を討滅してきたところで、その報告のためにやってきたのであった。栖軽(すがる)はその朝、単身で二十人にもなる盗賊を打ち倒した。朝駆けとはいえ、これは偉大な成果といって間違いなかった。

 

 天皇はまだ若かった。彼もまた堂々たる姿をしていた。背が高く、筋肉があり、骨は太かった。黒々とした髪は長く伸びていて、眉も凛々しく、目は精力に溢れて輝いていた。彼は智謀の者よりも勇者を好んだ。それは彼自身が智謀の者であったからだった。彼はどんな宝物よりも勇者を好んでいた。それであるから栖軽(すがる)を腹心として抱えていたのだった。(きさき)もまた若かった。后は天皇よりも十歳若かった。そんな二人が婚合(くながい)をしているところに、栖軽(すがる)は入ってしまった。栖軽(すがる)は鎧を身に纏ったままだった。

 

 后は悲鳴を上げた。自らが今()していることを見られたという恥ずかしさからではなく、入ってきた栖軽(すがる)から濃厚な殺気を感じ取ったからだった。小鳥が枝から飛び立つように天皇から離れると、后はそのままさらに暗い方へと逃げ込んだ。白い細身の肉体が仄かに闇の中に浮かび、そして消えていった。天皇は無言で后が消えていくのを見送っていた。一方、栖軽(すがる)恐懼(きょうく)して平伏していた。

 

 天皇は怒らなかったが、怒らねばならなかった。彼は栖軽を愛していたが、愛している者であるからこそ怒らねばならなかった。殺気を纏ったまま天皇の寝所に踏み込み、后に悲鳴を上げさせ、婚合(くながい)を中断させた者をそのまま許すというわけにはいかなかった。だが、怒りすぎるわけにもいかなかった。怒りすぎれば栖軽を殺さねばならなくなる。天皇は素早く頭の中で計算をし始めた。栖軽を殺したくはない。

 

 その時ちょうど、(いかづち)が鳴り響いた。それまで晴れていた空がにわかに曇り始め、太陽の光を遮り、地上を暗くした。雷は何度も鳴り響いた。春の雷だった。空そのものが爆ぜているようだった。若葉の葉脈のように細い稲光が何本も走った。薄暗い寝所の中ほどにまで稲光の白い光が侵入した。天皇は雷の鳴るのを聞いて、また稲光に照らされる栖軽(すがる)の姿を見て、自身の中でほんのちょっとした悪戯心が起こるのを感じた。

 

 そうだ。ちょっとした罰を与えてやれば良い。ほんのちょっとした、やっかいな、戸惑って困るようなことを、この少子部(ちいさこべ)栖軽(すがる)に与えてやろう。

 

 天皇は誰にも気づかれないように小さく頷くと、殊更に恥ずかしそうな顔をし、戸惑ったようなしわぶきを二、三回して、それからわざと威厳を込めた口調で栖軽に言った。「(なんぢ)鳴雷(なるかみ)()(たてまつ)らむや」

 

 雷を呼んで来いとは、我ながら無茶な命令だ。内心で苦笑しつつ、天皇は思った。まあ、これで良いだろう。困らせてやるのも、愛の示し方ではあるしな。

 

 

☆☆☆

 

 

 荘重に、少々震えた声で、栖軽は答えた。「()けまつらむ」

 

 (いかづち)に続いて、外では雨が降り始めていた。気温は急速に低下していた。雷は鳴り続けていた。それでも栖軽の(ひたい)からは汗が噴き出ていた。栖軽が平伏したままでいると、天皇はさらに言った。「(しか)らば汝請け奉れ」 お前、雷を呼んで来い。これは明らかに詔勅であった。

 

 栖軽にとって天皇からの言葉はすべて詔勅であり、詔勅であるならば必ず謹んでこれを受けねばならなかった。だが、これはあまりにも無茶だ、と栖軽は思った。雷を呼んでこいだと? そんなことができるのか? それでも栖軽は詔勅を承った。

 

 大極殿から退出すると、栖軽は急いで自分の宿舎へと戻り、身支度を整えた。彼はまだ妻を娶っていなかったので、自分ですべての支度をしなければならなかった。暗澹たる気分だった。雷を呼んでくるなど、皆目見当がつかない。雷雨はますます激しさを増していた。彼は赤い色の(かずら)(ひたい)につけ、(ほこ)に赤い小旗をつけた。赤いものは魔除けになる……しかし雷が魔なるものであるのかは分からなかった。それでも何もしないよりはマシだった。彼は馬に乗った。最近天皇から下賜されたばかりの栗毛の若駒だった。

 

 栖軽(すがる)は馬を飛ばした。雨は道を濡らして泥の海と化していた。雷はまだ鳴り響いていた。そのうち、阿倍村(あべむら)の山田の前の道に差し掛かった。田の水面(みなも)には激しく雨が打ち付けていた。緑の苗は健気に雨に耐えていた。

 

 さらに進んでいくと、豊浦寺(とよらでら)の前の道に入った。豊浦寺はこの日の本の国で初めて建てられた寺だったが、この天候のもとでは随分と小さく、寂れて見えた。

 

 この頃になると栖軽の気分も落ち着いていた。無茶な命令なのは間違いないが、どうせなるようになるだろう。なるようになる。そう思って事に臨めば、彼はいつでも成果を上げることができた。だからたぶん、今回も無事に雷を捕まえて(あるじ)の元へ連れて行くことができるに違いない。根拠はないが、そう思っていないとやっていられない。

 

 雨はいよいよ激しくなっていた。薄闇の中で、豊浦寺の大きな本堂は雨でけぶっていた。栖軽はさらに馬を走らせた。泥道の中を馬は進んだ。やはりこの馬は良い馬だった。雷はますます大きく、強くなっていた。そろそろ頃合いだろうと栖軽は思った。

 

 (かる)諸越(もろこし)の街に辿り着くと、栖軽はその中心部まで走った。往来に人の姿はまったくなかった。家々にも人の気配はなかった。雷は今や、栖軽の真上で鳴り響いていた。

 

 意を決したように、栖軽は叫んだ。「(あま)鳴電神(なるかみ)天皇(すめらみこと)()()(たてまつ)る」 もちろん何の返答もなかった。そんなことは彼も分かっていた。どうやったら雷などというものを呼んでこれるのだ? だが、他に方法がない以上、こうやって呼ぶしかない。彼は何度も馬を往復させた。馬の手綱を操りながら、彼は何度も叫んだ。「(あま)鳴電神(なるかみ)天皇(すめらみこと)()()(たてまつ)る」

 

 降りてくるわけがない。

 

 だんだん彼は腹が立ってきた。思えば彼は、昨日の夜から盗賊の討伐のために天香久山に潜伏していたのだった。奇襲前に軽く十分ほど仮眠をとってからは一睡もしていない。もちろん食事もしていない。空腹の方が闘争心が高まるからそうしたのだし、そうすることで二十対一もの戦いを制することができたのだが、今ではそれが完全に裏目に出ていた。

 

 睡眠不足と空腹と、やるせなさと、主人である天皇への不満がさらに彼を苛立たせた。俺が早朝に報告に来るのは分かっていたはずなのに、お后様とああしていたということは……盗賊の討伐というのは、(あるじ)にとっては大したことのない命令だったのか? それなのに、腹いせのように俺にこんな無茶を命じるなんて……あるいは、俺が必ず命令を果たすということを知っていればこそお后様とお休みになっていたのかもしれないが、それにしても命懸けの戦いから帰ってきた俺に対して労いの言葉ひとつなかったではないか……

 

 それとも、単に困らせようというのか? いやがらせなのか? そうかもしれない。そして俺は、今も雨に打たれながらこうして馬を走らせている。訳の分からないことを叫びながら!

 

 ふと、栖軽は自分の馬の頭を見た。馬の耳はちょっとだけ伏せていた。あまり良い気分ではないようだった。彼は、馬は雷を怖れているのでも雨を嫌がっているのでもなく、背中に乗せている人間が意味不明なことを叫んでいるのを嫌がっているのではないかと思った。

 

 そう思った途端、憤怒の念が彼の中で爆発的に膨らんだ。彼は喉も裂けそうなほどに大きな声で叫んだ。「電神(なるかみ)(いえど)も、(なん)(ゆえ)にか天皇(すめらみこと)()けを聞かざらむ」

 

 叫ぶと同時に、彼は思いきり振りかぶって、手に持っていた(ほこ)を真っ暗な空へ向かって投げた。桙の先端の赤い小旗が空を飛びながら、闇の中で炎のように輝いて揺れていた。

 

 不思議なことに、桙は落ちてこなかった。

 

 何か手応えがあった。栖軽は空を見つめた。桙は何かに当たったようだ。それは優れた戦士にだけ分かる、独特の感覚だった。これでなんとかなったかもしれない、と栖軽は思った。彼の長い黒髪からは、雨が滝のように流れていた。

 

 次の瞬間、遠くないところに雷が落ちる音がした。

 

 ものすごい轟音だった。衝撃が地面を伝わった。馬が怖れたように軽く嘶いた。だが、騎乗者を振り落とすほどには馬は暴れなかった。栖軽は、次の戦いにはこの馬を連れて行こうと心の片隅で思いながら、即座に馬首を雷が落ちたと思しき方へ向けさせていた。

 

 (かる)諸越(もろこし)の街を急いで出て、彼はまた豊浦寺(とよらでら)の方へ戻った。中間ほどにある飯岡(いいおか)の地まで来て、そこからさらに寺の方へ彼は向かった。彼には予感があった。もうそろそろ、自分はそこに辿り着くだろう。それを目にするだろう。自分は命令を果たすだろう……

 

 そして、栖軽はそこに辿り着いた。

 

 (いかづち)はそこに落ちていた。ちょうど丘の上に雷が落ちていた。雷の見た目は若い男だった。雷は仰向けに倒れていて、じっと目を閉じていた。女のように優しい顔立ちをしていて、髪の毛は白かった。白くゆったりとした簡素な衣服を身に纏っていた。腹には赤い小旗がついた(ほこ)が突き刺さっていた。傷口からはきらきらと、黄金の光の粒が漏れていた。栖軽は馬上から無表情でそれを見ていた。悪いことをしてしまったと彼は思ったが、呼んでもなかなか降りてこなかったのだから、やはり責任は雷の方にあると思い直した。

 

 雷はなかなか目を覚まさなかった。だが、死んでいるわけでもなさそうだった。雨は止んでいた。栖軽も馬も泥まみれだった。ここからさらに一仕事しなければならないことを思うと、栖軽はやや憂鬱になったが、あえてそれを押し殺した。

 

 そのまま倒れていてくれよと思いつつ、栖軽は馬首を巡らせた。彼は近くの神社から神官たちを呼んだ。そして、竹で編んだ轝籠(こしこ)も用意すると、目を閉じて動かないままの雷を乗せて、神官たちに運ばせ始めた。雷の腹には桙が刺さったままだった。彼は、抜かない方が良いと思った。その方が面白いことになりそうだった。何が面白いのかは分からないが、とにかくそう思った。

 

 栖軽と轝籠(こしこ)が宮殿に達したころには、空は完全に晴れていた。雲はどこかに消えていた。宮殿の庭に轝籠(こしこ)を運びこませると、栖軽は殊更に恭しい態度で、しかし強く叫ぶように言った。「電神(なるかみ)()(まつ)れり」 報告を聞く天皇は庭に面した部屋の奥の方にいて、その顔は見えなかった。

 

 その時、雷が目を覚ました。

 

 雷は初め、眠そうな顔のままあたりを見回した。近くにいる栖軽を見、神官たちを見、そして奥の方にいる天皇を見た。そして、雷は自分の腹に桙が刺さっているのを見た。信じられないものを見るかのような顔だった。にわかに雷は表情を変えた。あたかも穏やかな春の空が突然猛烈な雷雨へと変じたかのようだった。目は獰猛に吊り上がり、口の端からは鋭い犬歯が出て、白い髪の毛は重力に反して逆立った。

 

 雷は起き上がると、両腕を伸ばして(ほこ)を掴み、そして勢い良く引き抜いた。ほら、面白いことになってきたぞ。栖軽はそう思った。

 

 桙が引き抜かれた瞬間、傷口から大量の光の粒子が噴出した。それと同時に、雷は光を放って()(かかや)いた。この世のものとは思えない、すさまじい光景だった。庭の真ん中で轟音が鳴り響き、衝撃波が辺りを薙ぎ払った。周囲にいた神官たちは吹き飛ばされてそのまま地面に倒れ伏した。だが、栖軽は平気な顔をしてその場に立っていた。

 

 雷は桙を地面に捨てた。そして、ぞっとするほど冷たい低い声で、傍らにいた栖軽に向かって言った。「おい、お前か、俺に向かってこの桙を投げたのは?」 栖軽は平然として答えた。「そうだ。俺が投げた。俺が投げて、お前に桙が命中した」 答えた瞬間、空気が爆ぜる音が連続した。雷は今や巨大な光の塊となっていた。

 

 雷は怒気を剥き出しにして言った。「なんでこんなことをしたんだ?」 栖軽は答えた。「お前を呼んで来いと言われたからな」 雷はさらに表情を歪めて、そして尋ねた。「誰だ、そんなことをお前に命じたのは?」

 

 ちょっとだけ、栖軽は迷った。どうしようか? こいつはものすごく怒っている。馬鹿正直に答えたら、厄介なことになりそうだ。厄介なこと……困ったことに。そしてふと、困らせてやるのも愛情の示し方だと、以前自分の(あるじ)が何かの折に言っていたのを思い出した。

 

 やっぱり、俺は主のことを愛しているんだなぁ。栖軽(すがる)は溜息をついた。

 

 ちょっと間をおいて、彼は答えた。「大泊瀬(おおはつせ)稚武(わかたけ)天皇(すめらみこと)さ。俺の(あるじ)だよ」

 

 雷はさらに声を低くした。「そいつはどこにいる?」

 

 栖軽は笑みを浮かべて雷をじっと見た。それから視線を転じて、庭に面した部屋の奥の方を見た。そして、言った。「ほら、あそこにいるよ。あそこに座っている」

 

 その言葉を聞いた雷が、爆音のような足音を立てて歩き出し、自分の主の方へ真っ直ぐに向かっていくのを見ながら、栖軽はふと、主の命令の真意を悟ったような気がした。自分は愛を示した……同じように、自分は愛を示されていたのでは? きっとそうだろう。

 

 栖軽はようやく疲労感を覚えた。困ったことが多い日だったが、それでも……心地良い疲労感だった。明日からも謹んで仕事をしようと彼は思った。

 

(「雷」おわり)




今回の話は『日本霊異記(りょういき)』の「(いかづち)を捉へし縁」が元ネタです。中田祝夫全訳中『日本霊異記(上)』(講談社、1978年)を参考にしました。まだ小説を書き始める前からずっと「この話を小説仕立てにしたものを読んでみたい」と思っていたのですが、今回はけっこうそれを満足のいく形で叶えることができたと思います。ちょっと字数は膨らんじゃったけど……
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