トラキアの女たちがオルペウスを殺した。
狂信的な女たちは、農夫から奪い取った
当然、
神は疲れていた。毎日、寸時の
終わりの見えない日々の
それが突然いなくなってしまった……殺された。バッコスは速やかにトラキアの女たちに懲罰を下した。神の怒りに満ちた力を受けて、女たちは人から木になった……どんな木であったのかは分かっていない。その枝葉が豊かであったことだけは詩人によって歌われている。
しかし女たちを木に変えただけでは、バッコスの怒りはまったく解消されなかった。神は忌まわしいトラキアの地を捨ててそこから去ることにした。自らに従う善良な信者を引き連れ、神は懐かしいトモロス山の葡萄畑と、パクトロスの河を目指して出発した。パクトロス河はリュディアを流れている……リュディアは小アジアにあった。
ちょっとは旅行がしたかった。それほどまでに神は疲れていた。シレノスはますます
長い旅路の果てにリュディアに着いたバッコスは、いつものことながら獣神のサテュロスの群れと、無数の信女たちに取り巻かれていた。
ただ、その中にシレノスの姿だけはなかった。
いつの間にか、シレノスはバッコスの一行から落伍していた。養父がいなくなったことに気づいて、ちょっとだけ神は困った。ちょっとだけしか自分が困らなかったことに、神は困惑した。だから、はたして自分が本当にシレノスがいなくなって困っているのか、神にとっても疑問だった。罪悪感と共に、なぜか、神はほっとした気分にもなっていた。
そこはリュディアの中でもプリュギアと呼ばれる地だった。
畑の真ん中に仰向けに倒れて、訳の分からぬことを叫びながら赤子のように手足を動かしている老人を見つけて、プリュギアの農夫たちは仰天した。しかし彼らは冷静だった。何やら神的な気配をその老人から感じ取った農夫たちは、花輪で老人の手足を優しく縛って拘束すると、ミダス王の元へと連行した。
プリュギアの王ミダスは、自らを賢人としながらもその実はまったく賢明ではなく、また自らを勇者としながらもその実まったく勇気に欠ける人間だった。そうでありながら彼はどこまでもおっとりとしていて、豊かな者として生まれた者に特有な善良さも兼ね備えていたから、領民を虐待したり、無闇に戦争をしたりといった悪徳からは免れていた。だが、彼はどこまでも享楽的ではあった。生まれつき快楽というものに敏感で、また快楽を享受することこそが人生の目的であると信じ込んでいた……そして彼にとっての快楽とは、
ミダス王は、当然のことと言うべきか、バッコスの神を信仰していた。トラキアで惨殺されたあのオルペウスと、ケクロプスの町であるアテナイ出身のエウモルポスとから、ミダス王はバッコスを祭る
連れてこられた醜い老人を見た時、ミダス王はすぐに察知して悟るところがあった。この老人こそは酒の神バッコスの養育者にしてその祭儀の立会人であるシレノスに違いない。期せずして現れた珍客にミダス王はいたく喜び、十日十夜にわたって、中断することなく酒宴を催した。
十一日目、星々の
酒神バッコスは老いた養父のシレノスが帰ってきたことを、一応は喜んだ——いない時はいない時で「これでゆっくりと気を休めることができる」と心のどこかで思っていたけれども、やはり帰ってきたとなったらそれなりに嬉しいものだ。そのように神は思った。そう思わなければならないと神は思っていた。決して、シレノスが帰ってきた時に、心のどこかでがっかりしたものを覚えたわけではない。そんなことがあるわけがない。
自分は、シレノスが帰ってきて嬉しいのだ。そうに決まっている! 神はにっこりと笑みを浮かべた。
神は恩人であるミダス王に対して、何なりと望みのものを与えようと約束した。実のところ、神はまったくの好意からそのように言ったわけではなかった。多少の悪意のようなものもその言葉の中には混ざっていた。なぜ王に対して悪意を抱いているのか、神にはなんとなく分かっていた。だがそれを言語化すると、より重大な事態を招きそうだった。なぜ、この王はシレノスを連れて帰って来たのか……? 神は自分の中でそのような言葉が湧き出てくるのを、必死になって押し殺していた。
一方、ミダス王は、多少は欲得ずくではあったかもしれなかったが、それよりは遥かにその生来の善良さから老人を届けたのであるから、神からそのように言われて、あたかも自分自身の全人格が認められたかのような恍惚とした気分になった。うっとりとした気分のまま、ミダス王は特に深く考えることもなく神の言葉に答えた。
「どうか私の体が触れるすべてのものを、きらめく黄金に変えてくださいますように」
その願いを耳にして、なんと愚かなことをこの男は願ったのだとバッコスは内心で呻いた。どう考えてもこの男はやがては
バッコスは王の願いを叶えてやり、恩恵を授けてやった。
嬉々としてその場を去っていくミダス王の背中を見ながら、バッコスは急に悲しい気持ちに襲われた。確かに、王が痛い目に遭えば良いとは思っていた。神にはちょっとした悪意があった。それでも、なぜあの王は、もっとましなことを願わなかったのだろうかと神は思わずにはいられなかった。
人間にとってもっとも望ましいものは黄金ではない。世界と我が身とに関する知識と、物事を正確に判断する力、それだけが死すべき人間にとってもっとも望ましいものである。そして、そういうものを手に入れることができないから、人間には酒と酩酊が必要なのだ。神は無性に悲しかった。悲しいから、神は酒を飲んだ。戻ってきたシレノスは訳の分からないことを叫びながら、手足を盛んに振り回していた。新鮮な悪臭が漂っていた。
そんなシレノスを見ると、神は、もしかすると自分がミダス王に対して抱いた悪意は、ちょっとしたものではなかったのかもしれないと思った。
☆☆☆
プリュギアの、キュベレ女神の聖山ベレキュントゥスの英雄であるミダス王は、意気揚々として宮殿に帰ってきた。彼は、これから無限の富が我がものとなることに心の底から狂喜していた。彼にとって富は富であるから快楽そのものといえた。また、あるいは富はさらなる富を生み、さらなる快楽をもたらすものであるから、富は快楽以上のものであった。これから無限に手に入るであろう黄金は、自分に無限の快楽をもたらすであろう。彼は、そのように考えて背筋がぞくぞくするのを覚えた。この感覚も、紛れもなく快楽の一つだった。
しかし、それでもミダス王はまだ半信半疑だった。彼はまず、二、三のものに手を触れて、神の約束がはたして真実であるか試してみることにした。宮殿の庭には
小枝は黄金に変わった。白っぽい午前の陽の光を浴びて、小枝の形をした黄金は柔らかく輝いていた。これまで彼が集めたどのような黄金細工よりも、それは美しく、精巧だった。
息を呑んで、しげしげとそれを眺めてから、ふと我に返ったようにミダス王は周囲に視線を走らせた。彼は足元に小さな石があるのに気づいた。身を屈めてそれを拾い上げると、小石もたちまちのうちに
ミダス王の思考は膨らむ欲望と共に拡張した。もっと大きいもの、もっと巨大なものはないのか? 彼は宮殿の高い門柱を見た。それは以前、彼が王となったばかりの頃に、特に大金を投じて建てさせたものだった。彼は指でそれに触れた。門は燦然として金色に輝いた。巨大な光の柱が突如として眼前に出現したかのようだった。門の前には浅い水路が掘ってあった。王は黄金の光を背中に浴びながら、水に手を浸した。手から滴り落ちる水は、囚われのダナエを欺いたあの黄金の雨のようになった。
さらさらと軽い音を立てて、黄金へと転じた水の粒が足元に落ちるのを見ながら、呆然としつつ、ミダス王は自らの前途に待ち受けている幸福の巨大さを想像していた。否、それは想像などできなかった。無限の富……無限の快楽。それは今や彼の手許にあった。そうではない。彼はもう、それを手にしていた。その事実を認識して、ミダス王は放心した。許容量を超えた喜びは彼の精神を麻痺させていた。目はどこか虚ろで、口は半開きになり、だらしなく涎が垂れていた。ありとあらゆる神経伝達物質が大量に、無慈悲なまでにミダス王の脳内の神経組織内を駆け巡った。
垂れて口から落ちた涎は、地面に落ちるまでに空中で黄金になったが、王はそれに気づかなかった。王は痺れたままだった。
やがて、麻痺も終わった。酩酊から覚めるように、ミダス王もまた正気へと戻った。彼は空腹を覚えた。十日十夜にわたる
ミダス王はこの上なく良い機嫌で腰を下ろし、パンへと手を伸ばした。手を伸ばしながら、王は次は何を黄金へと変えようかと考えていた。車を黄金に変えるのも良いかもしれない。その黄金の車に乗って、領内を巡ることにしよう。豊かな農家を丸々一つ黄金に変えても良いかもしれない。それを民にくれてやろう。あるいはなだらかな丘を丸々一つ黄金にするのも良かろう。山や谷、広い平原を黄金に変えるのはどうだ? 海に行くのも面白そうだ。ありとあらゆる船を黄金に変える。もちろん、軍船も黄金に変える……しかし、金は水に沈むであろうから、浮かべるということは諦めなければならないだろうが……
手がパンに触れた。たちまちのうちにそれは固い黄金となった。
ミダス王ははっとなった。いや、馬鹿な。まさか。そんなはずはない。王はほとんど息を止めていた。心臓が大きな音を立てている。何かの間違いだと思いつつも、王は積まれていたイチジクの実を手に取った。瞬時にしてそれは黄金となった。熱に浮かされたように、王は串に刺して焼き上げられた肉と、油で揚げられた魚へと手を伸ばした。そのどちらも、一呼吸も置かずして黄金となった。
絶望感が、突然の雷雨の襲来のように王の心を支配しようとした。だが、王は妙案を閃いた。電撃のようにそれは王の心を打った。王は会心の笑みを浮かべた。窮した時にこそ良い考えが浮かぶのだ。王は満面に喜色を漲らせて、そう思った。絶望して追い詰められた時になって初めて、詩人が詩神から霊感を授かるようなものだ。
王は召使いに命じた。「口へ
歯が肉を噛んだ。その瞬間だった。肉は固い金となった。歯は金に食い込んだが、歯形だけを残してまた離れた。異物感が口中に満ちて、王は今ではまったく滋養を含まない金属の塊となってしまったものを吐き出した。
王の頭の中で、自分が神に願った言葉が反響していた。「どうか
一縷の望みをかけて、王は召使いに酒器を口元へ運ばせて、神よ助けたまえと願いながら原液の葡萄酒を口に含んだ。だが、王の口からは黄金の液が流れ落ちるだけだった。液を飲み込んでしまわなかったのがせめてもの幸いだった。
直後、王は狂乱した。王は泣き叫んだ。絶望と憤怒に駆られて食卓を叩くと、それはひっくり返り、上に積まれていた食物はすべて庭の地面へと落ちた。ひっくり返った食卓は今では黄金だった。地面に落ちた食物を王は踏みつけた。踏み潰された食べ物は、踏み潰されたその瞬間の姿を保ったまま黄金となった。目からこぼれる大粒の涙は、数秒後には黄金へと変化した。顔の上に黄金がへばりつく不快感を覚えながら、王はさらに絶望感に苛まれた。無限の富をもたらす魔力は、今では無限の苦しみをもたらしている。これほどの富を手中にしておきながら、飢えを癒すことはできない。喉は焼き付くように渇いているのに、それを潤すことはできない。
全身から汗が噴き出ていた。それもすぐに黄金へと変わった。今や王は全身が黄金に覆われていた。髪の毛も、爪の先も、すべてが黄金になっていた。溢れ出る涙が黄金に変わったことで、今では目も覆われていた。次第に、耳の上にまで黄金の覆いが伸びていった。
そして王は耳が聞こえなくなり、目も見えなくなった。黄金に閉じ込められた闇の中で、ミダス王は世界から孤絶していた。それでも王は、神を呪うことはなかった。この願いを口にしたのは紛れもなく自分自身であることを王はよく自覚していた。
☆☆☆
シレノスは癇癪を起こしていた。叫び声を上げながら赤子のように手足を振り回している。勢いのついた左脚がバッコスの右手に当たった。かなりの痛みだった。養父の癇癪の原因がバッコスには分かりかねた。腹が痛いのか、歯が痛むのか、それとも何か不安なのか? シレノスから濃い悪臭が漂っていることに神は気づいた。神の嗅覚はとっくの昔に麻痺していたけれども、なぜかこの臭いだけは正確に感知することができるのだった。
ああ、癇癪の原因はこれか。また処理をしなければならない。バッコスはうんざりとしていた。神は疲れていた。体の芯から疲れ果てていた。
あの王め、つくづく余計なことをしてくれたものだ。そのまま引き取ってくれていれば良かったのに。そう思って、神はハッとした。なぜ? なぜそんなことを思うのだ? 自分はシレノスが無事に戻ってきてくれて、心の底から嬉しいはずではないのか? ミダス王には感謝すべきなのだ。
またシレノスが腕を振り回した。思わず、神は養父を怒鳴りつけそうになった。なぜか目から涙が出そうだった。
そこへ、どこかからミダス王の言葉が聞こえてきた。
「おお、父なる神レナエウスよ、酒神バッコスよ! お許しください! 私は間違っていました! どうかお慈悲を! この黄金に輝く災厄から私をお救いください……!」
バッコスは優しい神だった。神々の中でも特に優しい神だった。自らの過ちを認め、神に慈悲を乞う者を、本来ならば決して見捨てるわけはなかった。
だが、今の神は苛立っていた。シレノスからは耐え難いほどに濃い悪臭が漂っていた。老人の癇癪はまだ収まらなかった。神には、これからやるべきことがたくさん残っていた——そしてたぶん、それは今後もなくなることはなかった。
再度、ミダス王の言葉が聞こえてきた。哀願の色はさらに濃くなっていた。言葉は何度も続いた。何度も何度も、王の祈りは繰り返された。
それでも神は沈黙していた。無表情で、神は王の祈りを聞いていた。
聞いていながら、いつまでも、神は沈黙していた。
(「金」おわり)
今回の「金」は、オウィディウス『変身物語(下)』(中村善也訳、岩波文庫、1984年)とオウィディウス『転身物語』(田中秀央・前田敬作訳、人文書院、1984年)を参考にしました。また、ラテン語の原文としては以下のサイトを参考にしました。(https://la.wikisource.org/wiki/Metamorphoses_(Ovidius))
ミダス王の黄金の話は有名かと思います。自分なりの色を出すのが大変だった……ちなみにナサニエル・ホーソーンによるリライトでは、王にはマリーゴールドという娘がいて、王はその手で娘を黄金にしてしまう……という筋書きになっているとのことです。
今回も7,500字にもなってしまった……次回から字数が減ると思います。ご了承ください。