フロースヒルデの歌   作:ほいれんで・くー

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9. 墜落

 パエトンは進んでいった。彼の足取りに迷いはなかった。母クリュメネがはっきりと言ったのだ。

 

「パエトン、私はあなたに誓います。あなたが目にしているあの太陽、この世界を照らし、支配する、あの太陽の神によってお前は生を享けたのです」

 

 そして母は続けてこうも言った。

 

「お父様が毎朝空高くお昇りになるために出るお(うち)は、私たちが住まうこのアイティオピアの国のすぐ隣にあります。あなたに決意があるならば、あなた自身の足で歩いていって、自分でお父様に尋ねてみなさい。あなたが正真正銘、紛れもなく太陽神の息子であるのかどうかを」

 

 パエトンは若かった。幼さからは完全に脱していた。歳は未だに十八に満たなかった。やわらかな赤茶色の髪はつやつやとしていて、両の頬は引き締まっていた。高い鼻梁と、強い意志の込められた目つきが、彼がどういった血を引いているのかを暗示していた。彼の手足はいまだに発達を続けていて、背もさらに伸びつつあった。数年もしないうちに、彼は立派な青年になるはずだった。

 

 しかし、彼の顔には(うれ)いが浮かんでいた。憂いはいついかなる時でも消えなかった。

 

 涼風によって育まれた緑の濃いアイティオピアの高原を後にして、パエトンは出発した。太陽の炎熱の下に住んでいるインド人たちの国を通って、彼は父のいるであろう日の出ずる国へ向かっていった。彼の心はすでにして、父の住まう宮殿の光景を想像し始めていた。それはどんなおとぎ話、どんな神話で語られる宮殿よりも、豪奢で広壮であるはずだった。彼はまだ若かったため、その有様を言葉に出して表現することはできなかったけれども、そうであるからなおさら彼の想像力はさらに掻き立てられるのだった。

 

 だがその想像もすべて、ある一つの疑念の裏返しに過ぎなかった。それは、己が本当に太陽神の息子であるかということに関してではなかった。彼は、実を言うと、自分が太陽神の息子であることをほとんど確信していた。今更そのための証拠など必要ではなかった。ただ己の出自を証明することだけが己を確立する唯一の手段であるなどと、彼は思ったことさえなかった。

 

 それでも彼の中にはなお疑念があった。大きな疑念だった。あまりにも大きな疑いの気持ちだったから、彼は常に憂い顔をしていたのだった。彼は道中たびたび空を振り仰いで太陽を見た。目が焼け、網膜が傷つくことを怖れることなく、彼は何度も太陽を見た。太陽を見るたびに彼は思った。

 

 日は昇り、日は沈む。だが、太陽そのものは決して滅びることはない……ならば、太陽神が滅びることもない。

 

 それならば、この自分は? 僕は滅びるのだろうか? もし滅びるのだとしたら、どのように滅びるのだろうか?

 

 それだけがパエトンの疑念だった。疑念は常に彼の胸中を圧迫した。彼は苦しんでいた。耐えがたいほどの苦しみに彼は襲われていた。疑念を晴らし、苦しみから逃れるための手段は、父の住まうところへ行くより他に得ることができなかった。彼は道を急いだ。

 

 そして、パエトンはそこに辿り着いた。

 

 太陽神の宮殿は、そそり立つ壮麗な円柱に支えられて空高く聳えていた。宮殿は(きら)めく黄金と燃えるような赤銅(しゃくどう)によって燦然と輝いていた。宮殿最上部を飾る破風(はふ)壁は象牙の浮き彫りによって美しく飾られていた。両開きの巨大な門扉(もんぴ)はすべて銀だった。門扉の表面には鍛冶の神ウルカヌスによって彫刻が施されていて、陸地を取り囲む海、大地、そしてこの地球の上に広がる天空の三つが図柄となっていた。

 

 宮殿は長い長い急な坂道の頂上にあった。登り切った時、パエトンは息を切らしていたが、突如として眼前に出現した巨大な宮殿を目にして息を呑んだ。すべてが彼の想像を超えていた。しかし、すべてが彼の想像通りであるような気もした。彼の心臓は高鳴っていた。今や苦痛すらも彼は忘れていた。彼は歩みを進めた。銀の門扉は開け放たれていた……誰かの到来を待っていたかのように。宮殿に入ると、彼はさらに先へ進んでいった。

 

 王座のようなものが見えたが、パエトンはそれ以上それを見ていることができなかった。巨大な一個のエメラルドを()()いて作られた王座には誰かが腰かけていて、目を開けていられないほどに強い光を間断なく放っていた。というよりも、その誰かは光そのものと言って良かった。だが、光はどうやらその頭に(かぶ)っている冠から発せられているようだった。

 

 玉座の左右には「()」と「(つき)」と「(とし)」と「世紀(せいき)」が立っていて、また、等しい間隔を置いて並んだ「(とき)」たちが控えていた。「春」は頭に花の冠をいただいていて、衣を脱ぎ捨てた裸の「夏」は麦の穂の()飾りをつけている。「秋」は踏み潰した葡萄の赤い汁に染まっていて、寒くて冷たい「冬」は厳めしい顔をして白い髪の毛を逆立てていた。

 

 時が見え、季節がいる。それは一人の人間にとって理解の範疇をはみ出していた。呆然として、パエトンの足は止まった。彼はそれ以上進むことを躊躇した。覚悟はしてきたはずだった。ここにはすべてがあるはずだった。そのことは分かっていた。だが、足はその場に埋め込まれたように前へ進むことはなかった。

 

 太陽神は何も見逃さなかった。神の視線は一人の人間の若者へと注がれた。威厳のある、しかし春の午後の日なたのような暖かみを含んだ声が、パエトンに向かって発せられた。

 

「どうしてここにやって来たのか? 空高く聳えるこの宮居(みやい)に何の用があってやって来たのか? 我が子パエトンよ、言ってみるが良い」

 

 パエトンは弾かれたように答えた。それまで考えていた言葉を一気に吐き出すように、彼は立て続けに声を発した。事実、それは旅路の途中で考えに考え抜いた言葉でもあった。

 

「この広大な世界を照らしている光、太陽神よ! あなたが(ぼく)のお父さんなのですね! もし偉大なる太陽神をお父さんと呼んでも良いのなら……お父さん! 僕が本当にお父さんの息子であることをみんなから認めてもらえるように、その証拠を僕にください! 僕の胸にあるこの疑念を晴らしてください! 僕の心から迷いを取り去ってほしいのです!」

 

 十八歳にも満たない若者にしては、その言葉遣いは立派と言えた。しかしその言葉の内容はごく幼いものと言って良かった。少なくとも、表面的にはそうだった。パエトンはあえてそのように言葉を選んだのだった。太陽神はそれを見抜けなかった。神の胸の中には瞬く間に愛おしさが募ったようだった。

 

 パエトンの父である神は、頭に被っている光の冠を脱いだ。ようやく、パエトンにも太陽神の顔を見ることができた。太陽神は若かった。精悍な顔つきだった。黒い髪の毛から薄く黄金の光が発せられていた。燃えるような目は優しさと愛情を(たた)えていた。神は言った。

 

「もっと近くに寄れ、パエトン」

 

 パエトンは近寄った。神のすぐ(そば)にまでパエトンは進んでいった。手を伸ばせばその顔に触れられるというところまで来た時、太陽神はエメラルドの玉座から立ち上がって、そして優しくパエトンを抱擁した。神は言った。

 

「お前が私の息子であることは、誰であっても否定することはできない。仮令(たとえ)この私であってもな! お前は当然、私の息子と呼ばれて良いのだ、パエトンよ。お前の母であるクリュメネも、お前には紛れもない真実を告げていた……さあ、パエトンよ、私の愛しい息子よ、お前の好きなことを何でも望むが良い。お前の疑念を晴らしてやるためだ。すぐにでもそれを聞いてやろう。この約束の証人として、私は冥府の河ステュクスを立てようぞ……」

 

 まだ太陽神の言葉が終わるか、終わらないかといううちに、パエトンは声を発していた。

 

「それならばお父さん、僕にお父さんの日輪(にちりん)の馬車を貸してください! 一日だけで良いのです! 僕は太陽神の息子として日輪の馬車を操り、四本の脚に翼を持った馬たちを一人で(ぎょ)してみたいのです! どうか僕にお父さんの馬車と馬を貸してください!」

 

 一息に発せられた願いを耳にして、神は戦場の負傷者のような呻き声を上げた。その輝くような顔の上には、後悔の感情が色濃く浮かんでいた。太陽神は何度もその輝く頭を振りながら言った。

 

「ああ……なんと軽率なことを言ってしまったものだろう! 約束を撤回することができれば良いが……私はすでに証人として冥府の河ステュクスを立ててしまっている! 本当のところを言えば、私の愛しい息子パエトンよ、それだけは私が叶えるわけにはいかない唯一の望みなのだ。どうかそれだけは思いとどまってほしい!」

 

 偉大なる神の言葉は哀願の調子さえ帯びていた。だが、パエトンは無言だった。パエトンは口を閉ざしたまま、じっと父の顔を見ていた。父の目は燃えるようだった。真っ直ぐパエトンの顔を見ていた。父が本心からそのように言っていることがパエトンにはよく分かった。だが、そうであるからこそ、唯一叶えるわけにはいかないことを叶えてやるからこそ、父は子に対して父なのではないだろうか? だが、そのようなことはパエトンにとってはどうでも良かった。父と子というものの関係性など……彼にとっては些末なことだった。

 

 父さん、僕はどうしても、あなたの日輪の馬車が必要なんです。あなたしか、僕に相応しいものを与えることができないのです。それでもパエトンは何も言わなかった。

 

 無言のパエトンを見て、太陽神はさらに言葉を付け加えた。

 

「お前が望んでいることは実に危険極まりないことだ。パエトン、お前は大それたことを望んでいるのだぞ。世界が滅ぶかもしれない! お前は立派な青年になりつつある——私もそれが嬉しい。だが、お前はまだ私の日輪の馬車を操れるほど力はない。お前の年齢ではとても不可能な話だ。お前は、人間として生まれながら、人間には不可能なことを要求しているのだよ……」

 

 でも、とパエトンは父の言葉を聞きながら思った。僕がもし滅びを望んでいることを知れば、太陽神であるあなたは僕の望みを叶えたのですか? お父さん、僕は本心を隠しています。そしてお父さん、あなたは僕の本心に気づかない……パエトンは黙ったままだった。

 

 なおも口を(つぐ)んだままの息子の表情を見て、神は勝手に解釈したようだった。神は言った。

 

「いや、仮令(たとえ)お前が神であったとしても、お前が日輪の馬車を操ることなど不可能だ。神々の中でもこの私だけが馬車と馬を操ることができるのだし、それに他の神々たちは普段傲慢なまでに自らの能力に自信を抱いているのだが、唯一この馬車を操ることだけは無理だと言って憚らない。あの雷霆(らいてい)を投げつけるユピテルですらそうなのだ。ユピテルですら馬車を操ろうなどとは言わないのだ。それをお前は操りたいと言っている……若くて力の足りないお前が!」

 

 それから太陽神は、どれだけ日輪の馬車を操縦することが困難であるのかを語り始めた。神は今やパエトンの両肩をしっかりと手で掴んで、目を直視しながら、一言一言をねじ込むように語っていた。前半の進路は険しい登り坂で、まだ出発したばかりで元気な馬たちも登り切るのに苦労をする。やっとの思いで中央に差し掛かると、もう目が眩むほどに高いところになっている。海と大地は小指の先に隠れるほどの大きさでしかない。後半の道は急勾配の下り道で、確実な手綱(たづな)(さば)きが必要だ。しかもこれらの道を進むためには、急回転を続けている天空の動きに逆らわないといけない。星々ですら巻き込まれて回転するほどに強い動きだ。それに加えて、道中は怪物や猛獣で満ち満ちている。正しい進路を守って道を逸れないようにしても、「雄牛」の角、テッサリアの「射手」の弓矢、「獅子」の(あぎと)、「(さそり)」の尾と腕、「(かに)」の(はさみ)が立ちはだかってこちらを狙ってくる。それに、そもそも馬たちを御すること自体が容易ではない。この私の言うことすらなかなか聞かないような馬たちなのだ……

 

 ああ、父さんはこれほどまでに僕のことを心配してくれている。パエトンは嬉しかった。油断をしていると、目から涙がこぼれてしまいそうだった。それでもパエトンは黙ったままだった。彼はただ、困り顔をしながら盛んに言葉を発しつつ、なんとか息子を翻意させようとしている父の顔を見ていた。太陽神は言った。

 

「私がお前に与える恩恵がお前の(わざわ)いにならないように、よく考え直してくれ。今ならまだ間に合う。手遅れにならないうちに望みを変えるのだ。お前は、自分自身が太陽神であるこの私の血を受けているかどうか、それを信じられる確かな証拠を求めている。それなら、この私のこの顔を見るが良い! ほら、見ろ! 私はこれほどまでにお前のことを心配しているではないか。これが私がお前の父であるという紛れもない証拠だ。父親しか抱くことのできないこの心痛こそ、私がお前の父であるという何よりの証ではないか! ああ、この胸を切り開いて、どれだけの心配が詰まっているのか、お前に見せることができれば良いのだが……!」

 

 確かに、この人は僕のお父さんだ。ついにパエトンの目から涙がこぼれ出た。パエトンはそっと腕を伸ばして、やさしく父の首に巻きつけた。父を抱きながら、パエトンは思った。でも、お父さん。それだけじゃ足りないんだよ。それだけじゃ足りないんだ。僕には、もっと確固としたものが必要なんだ。僕はもう、太陽神が自分のお父さんであることを認めている。日輪の馬車に乗せてもらえなくても、僕はお父さんを恨まない。

 

 でも、僕が太陽神の息子であるためには、それだけじゃ足りないんだ。パエトンはこみあげてくるものを飲み込んだ。僕は人間だ。半分しか神ではない。だから、お父さんのように永遠に生きることはできない。

 

 それならば僕は、神のように滅びよう。太陽神のもたらす(わざわ)いによって、僕は滅びたい。

 

 いつからこのような破滅願望が自分の中に根ざしてきたのか、パエトンには分からなかった。旅の最中、彼はずっと滅びを望んでいた。あるいは、旅の前からそうだったのかもしれなかった。滅ぶことだけが彼の目的だった。

 

 息子が腕を伸ばしてきたのを見て、太陽神は、一瞬だけ我が子が翻意してくれたのかと思って顔を明るくした。だが、なおもパエトンが何も答えないのを認識すると、また慌てたように言葉を発し始めた。

 

「この空高く聳える宮居(みやい)からは、この豊かな世界が持っているすべてのものを見回すことができる。天と地、海のおびただしい宝の中から、何なりと望むが良い。今度こそ拒否を受けることなどありはしない。だから、先ほどのあの願いだけは撤回してほしい。正直なところをいえば、あれは恩恵などではまったくなくて、刑罰にも等しいものなのだ。お前は罪を犯していないのに、刑罰だけを望んでいるのだぞ……」

 

 ついに、太陽神は説得を終えた。パエトンは悲しい顔をしたまま、目から涙を溢したまま、それでも何も言わなかった。ただ一言だけ、彼は同じ言葉を言った。

 

「どうか僕にお父さんの馬車と馬を貸してください」

 

 太陽神は呆然としていた。そして、悄然として肩を落とした。何を言っても息子には通じないことを悟って、太陽神はパエトンを日輪の馬車のもとへ連れて行った。この馬車は、鍛冶の神であるウルカヌスが建造したものだった。車軸も(ながえ)も純金製で、車輪の外縁も金で覆われていたが、八方に広がる車輪の(スポーク)は銀製だった。馬をつなぐ(くびき)には宝石がはめ込まれていた。

 

 パエトンは無言で馬車を見ていた。憂い顔はますます濃くなっていた。太陽神は俯いていた。

 

 その時、目覚めの早い「(あけぼの)」が、真紅の門と薔薇色の輝きに満ちた広間を開け放った。東方はすでに光(まばゆ)く輝き始めていた。星々は明けの明星を殿(しんがり)にして散り散りに逃げ去っていく。朝が来た。馬車を出発させなければならなかった。太陽神は「時」たちに命じて、馬を馬車につけさせた。

 

 厩から四頭の馬が引き出され、それぞれに(くつわ)が付けられている間に、太陽神は自らの手でパエトンの顔に霊験あらたかな薬液を塗ってやった。燃え盛る炎で火傷を負うのを防ぐためだった。

 

 そして、太陽神は愛する息子の頭に、太陽光の冠を載せてやった。神は息子に対して長々と忠告を与えた。拍車は使わず、手綱に意識を集中すること。五つの天帯(てんたい)を一直線に通らず、大きく弧を描いて斜めに走ること。高く昇りすぎてはならず、低く下がりすぎてもいけない。天と地が等しい気温になるようにしなければならない。右に逸れてもいけない。とぐろを巻いている「蛇」に衝突してしまう。左に行ってもいけない。「祭壇」に激突するだろう。だが、私としては、運命の女神の加護がお前に垂れることを願うばかりだ……

 

 最後に、神は叫ぶように言った。

 

「今ならまだ間に合う! 間違って望んだこの馬車を、私に返すのだ! このままでは、お前は世界と共に滅んでしまう!」

 

 いいえ、お父さん。パエトンは馬車に乗り込みながら思った。間違って望んでなんていないんです。

 

 僕は、まさに滅びを望んでいるんですから。

 

「ありがとう、お父さん」

 

 一声言ってパエトンは馭者台に立つと、任された手綱を手にして背筋を伸ばした。轟音を立てながら、馬車はついに出発した。

 

 四頭の馬たち、ピュロエイス、エオーオス、アイトン、プレゴンは、馭者台に立っているのが太陽神ではないことにすぐに気づいた。馬たちは火を吐く嘶きを発しながら、空を飛ぶ足で行く手を遮る雲を踏みつけにしていくうちに、自分たちがもはや自由であることを悟った。馬たちは暴走を始めた。馬車は道を外れ、膨大な光と熱をまき散らし始めた。

 

 パエトンは手綱を(さば)こうともしなかった。彼は馬車の揺れがさらに激しくなるのを感じていた。馭者台からの光景は目まぐるしく変化した。北斗星が熱されて赤くなっていた。北の極にいる「蛇」は熱さのために怒っていた。馬車はもはや、激しい北風に弄ばれる小舟のようだった。

 

 滅びが近づいていた。パエトンは静かにそれを待っていた。まさに彼が望んだものはこれだった。この上なく愚かな死、残酷な死……全世界を焼き尽くす死。そういった死でなければ、自分は滅びることができない。そうした滅びでなければ、自分は滅びきることができない。パエトンは手綱を放した。馬たちはさらに狂奔した。馬車は完全に道を外れ、何もない空間を走り始めた。

 

 間もなく、全世界が炎に包まれた。大地が炎上した。草は白い灰となり、木々は葉と共に焼けた。川も湖も干上がった。無数の(まち)が城壁と共に燃えた。すべての国々の住民が焼かれた。森も山も一つの巨大な炎となった。海が干上がった。熱と破壊に耐えかねて、ついに大地が悲鳴を上げた。

 

 大地の悲鳴を聞いて、ユピテルが立ち上がった。ユピテルは雷霆(らいてい)を呼び出すと、大きく振りかぶって、暴走を続ける馬車に向かって投げつけた。万物が燃え尽きるのを防ぐには、それしか方法はなかった。瞬時の間を置かずして、雷霆(らいてい)は馬車に命中した。電撃の黄色い光が空間に充満し、その後に大爆発が起こった。

 

 四頭の馬たちは狼狽してお互いに別々の方向へ飛び跳ね、(くびき)から(くび)を外し、千切れた手綱を後にして逃げ去った。ゼウスの一撃に粉砕された馬車の残骸は真っ暗な空間の中を漂っていた。

 

 パエトンは馭者台から投げ出された。全身が真っ赤に燃えながら、彼は流星のように長く尾を引いて、下へ下へと落ちていった。

 

 望んでいた滅びの形を得ることができて、パエトンは心の底から満足していた。憂いの色はようやく顔から消えていた。パエトンは微笑んでいた。父が塗った霊薬のおかげで、顔は綺麗なままだった。

 

 異境のエリダノスの流れに墜落した時、パエトンの魂はすでに燃え盛る肉体から剥がれ落ちていた。

 

(「墜落」おわり)




今回の「墜落」は、オウィディウス『変身物語(上)』(中村善也訳、岩波文庫、1984年)とオウィディウス『転身物語』(田中秀央・前田敬作訳、人文書院、1984年)を参考にしました。また、ラテン語の原文としては以下のサイトを参考にしました。(https://la.wikisource.org/wiki/Metamorphoses_(Ovidius)

今回の話もずっと以前から自分なりの形にしてみたいと思っていたものでした。それにしても何とも迷惑な破滅願望です。しかし若者とはそういうものかもしれません。

今回は普通に8,000字を超えてしまいました……もうこんなに長い話は書かないと思います、たぶん。
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