何故この二人が? 時間は少し遡る……
──ある日の昼下がり。アビドス自治区のある路地。一通りも少ない路地に、ぽつんとラーメンの屋台が停まっていた。
そしてその近くには、オープンカーが一台。
「紫関ラーメン二丁、ヘイお待ち」
屋台の店主──柴大将はにこにことしながら、カウンターに二人分のラーメンを置く。湯気が立っており、食欲を誘う香りだ。
「ありがとう」
狐耳の少女──百合園セイアは軽く会釈をし、箸立てから割り箸を一本取り出す。隣にいた赤毛の少女──美甘ネルが、2名分のコップに冷水を注ぎながら言う。
「……本当にここでいいのか? トリニティのお嬢様がこんな場所で食事なんて、イメージダウンになるんじゃないか?」
「まあ……たまにはこういうところでも悪くないだろう。それに……」
「あん?」
「こういったものを一度、食べて見たくなってね」
「そうかい。初めて食べるだろ?」
「ああ。だから頼んだのだよ」
セイアはちらりとラーメンを見ると、それを眺め始めた。
透き通った琥珀色のスープはシンプルながらも、奥深い味わいを感じさせるような風貌をしていた。麺は黄色っぽく細めのものだ。チャーシューは大きめのものが一枚入っている他に、刻みネギや海苔などがトッピングされている。
「ほう……これは、なかなか興味深いね」
「そいつは良かったな」
「うむ。では早速頂くとしよう」
セイアは割り箸を持ち上げるとそれをゆっくりと開いていく。そしてそのまま一口目を啜り始める。
ちゅるちゅる……と音を立てながら麺を啜る姿はどこか品を感じさせるものがあった。ネルはそれを見て少し呆れた表情になったが、すぐに元に戻った。
「どうだ? 旨いか?」
「ああ。美味しいよ。特にこのスープが絶品だね」
「そうか。そいつぁよかった。ここの店主はスープに相当こだわっているらしいからな。その反応が聞けてよかったぜ」
「ふむ。店主殿はよほど腕に自信があるようだね」
「ああ。あたしも何度か食べたことがあるが、いつも美味いからな。毎日食べても飽きないくらいだ」
「それは楽しみだ。私はこういったものはあまり食べたことが無いのでね。色々試してみたいと思っていたところだったのだよ」
「へぇ……っと」
セイアはラーメンを啜り、ネルも割り箸を取ると、自分の分のどんぶりに手を付ける。ラーメンを箸で掴むと豪快に啜った。
屋台にずるるるる! という音が響き渡る。
スープを吸った麺は、口の中に入れるとほろりと崩れていった。スープが染み込んだ肉厚なチャーシューを噛みしめると脂身が溶け出し口内に広がっていく。味は濃い目だが塩辛過ぎずちょうどいい塩梅になっている。
ネギと海苔もいいアクセントになっているし、何より具材が多いおかげでボリュームもある。
「……お、こりゃうまいな!」
「ふむ。確かにこれは美味だね。しかし……君たちはこういうものには興味がないと思っていたよ」
「そりゃ研究に追われてる連中からすればな。だけど、たまにはいいじゃねぇか」
「ふふっ。そうだね。たまには悪くないかもしれないね」
セイアは微笑みながらそう答えると再びラーメンを啜り始めた。ネルもそれに合わせるように食べ進めていく。
しばらくすると二人とも完食したようで「ごちそうさん」と言って店主にお金を払う。
「どうも、また来てくれよな!」
柴大将はそう言うと笑顔で二人を見送った。二人は車に乗り込むとそのまま走り出した。しばらく走るとセイアが口を開く。
「いや、助かったよ。朝から動き回ってて疲れていたんだ。こういうときにこういう店があると助かるものだね」
「ああ。ここの店主は腕がいいからな。きっと満足できたと思うぜ」
「ふふっ。そうだね。ありがとう」
「それよりセイア、どうしたんだ? ブラックマーケットなんか行く場所じゃないだろ?」
「この子を盗まれてしまったんでね……話せば長くなる」
「おうよ。聞かせてくれ。助手席でじっとするのは退屈でな」
「では……」
セイアはサングラスの位置を指で正してから、ポツリポツリと話し始めた。
§
朝の柔らかな光が差し込む一室。
百合園セイアはベッドの中で微睡んでいた。彼女の白い指が無意識にシーツを撫でる。窓辺に置かれた観葉植物の影が壁に揺らめき、まるで彼女の夢想の断片のように踊っていた。
「……思索の途中でさえ安息を妨げるとは。この世の摂理の矛盾たるや」
セイアは瞼を薄く開きながら呟いた。彼女の脳裏には昨夜遅くまで読み耽っていた哲学書の断片がまだ霞のように漂っていた。知性の奔流を束の間遮る物理的なノックの音に眉をひそめる。
「セイア様。朝のお茶をお持ちしました」
落ち着いたバリトンの声。百合園家に仕える老執事の声だった。
彼は代々百合園家に仕える忠実な家臣であり、セイアが幼少期から側にいる唯一の「理解者」であった。セイアはため息一つ吐くと身を起こした。
「入れ」
扉が静かに開き、黒の燕尾服に身を包んだ初老の紳士が現れた。彼はワゴンを押しながら恭しく頭を下げた。ワゴンには紅茶セットと手紙の束が乗っている。
「失礼いたします。お目覚めのようですね。こちら本日の紅茶とお便りです」
「ありがとう。……今日は随分と早いね」
セイアはベッドサイドに腰掛けながらカップを受け取った。芳醇なダージリンの香りが鼻腔をくすぐる。しかし彼の表情には微かな陰りがあった。
「……お嬢様。大変申し上げにくいことがございます」
「爺や。君がそんな表情をするとは珍しい。一体何があったのかな?」
セイアはカップを置き、紅茶を一口含んだ。執事の次の言葉を待つ間も彼女の目は鋭く輝いていた。
執事は深呼吸を一つすると、重々しく口を開いた。
「昨日納車予定でした御車が……今朝未明に整備工場から盗難に遭いました」
「……ふむ?」
セイアの眉がピクリと動いた。口元に運びかけたカップが宙で止まる。彼女の瞳が執事の顔をじっと見据えた。
「続けてくれたまえ」
「はい。昨夜深夜の巡回で異常なしとの報告がありましたが……今朝確認したところガレージが破壊され、御車が忽然と姿を消しておりました。整備担当者も昨夜まで車両に触れていたとのこと。つまり……」
「盗難は夜半から明け方にかけてか。整備工場のセキュリティは?」
「最新鋭のシステムが稼働しておりました。外部からのアクセス記録は一切ございません。内部犯行か……あるいは巧妙なハッキング工作が行われた可能性が高いと思われます」
セイアはカップを静かに置くとベッドから立ち上がった。窓辺に歩み寄り、朝日に照らされた庭園を見下ろす。彼女の長い髪が光を受けて微かに輝いた。
「なるほど。『完全なるシステム』とやらも人間の悪意の前には無力ということか。教訓的だね」
「お嬢様……どうか御心配なさらず。既に捜索チームを編成し、奪還まであと一歩でございます」
執事の言葉にセイアはゆっくりと振り返った。その表情には怒りも悲しみもなかった。ただ純粋な知的好奇心の炎が瞳の奥で燃えていた。
「捜索チーム? 面白いね。それで?」
「既に追跡班が車両のGPS信号をキャッチしております。ブラックマーケット方面に向かったようです」
「ブラックマーケットか」
セイアの口元に微かな笑みが浮かんだ。それは危険を察知した冒険家のような笑みだった。
「では私は身支度を整えよう。爺や、ミカとナギサに今日は休むと伝えてくれないか」
「はい。……どちらへ?」
執事の問いにセイアは背筋を伸ばし宣言した。
「もちろん。『私の車』を取り戻しに行くのだよ。君たちは『教訓』という名の哲学的な考察に耽っているといい」
その瞬間、セイアの瞳に宿ったのは紛れもない『わんぱく』な冒険心の光だった。
§
執事の制止を振り切り、セイアは単身ブラックマーケットに足を踏み入れた。
彼女が身に纏うのは普段のトリニティ制服ではなく簡素な黒いワンピース。狐耳と尻尾を隠すためのフード付きポンチョを羽織っていた。
「……ふむ。『混沌』とはよく言ったものだ」
セイアは雑踏の中を慎重に歩を進めた。彼女の細い指がポンチョの裾を握りしめる。
周囲には怪しげな商品を売る露店や、胡散臭い笑みを浮かべる客引きが溢れていた。トリニティとはあまりにも異なる世界。しかし彼女の胸には不思議な高揚感が満ちていた。
「さて……『例の倉庫』はどこかな?」
百合園家の追跡班によれば、GPS信号はこの辺りの倉庫街──どう見てもモグリの歓楽街だ──を示していた。
セイアはポケットに隠した小さな通信機に触れながら周囲を見渡した。とてもではないが、倉庫らしい倉庫は見当たらない。あるのは盗品を扱う露店、賭博場、違法なマッサージを提供する店の看板ばかりだった。
「ふむ。どうやら『倉庫』とは看板に偽りありのようだ」
セイアは一軒の薄暗いバーに目を留めた。錆びた看板には『BLACK BOX』と掠れた文字で書かれている。彼女はゆっくりとその扉に近づいた。
扉の脇には二人の屈強な男──ロボットと獣人が立っていた。彼らはセイアを見ると怪訝な表情を浮かべた。
「おい嬢ちゃん。ここはお前みたいなガキが来る場所じゃねえぞ」
「そうかい?」
セイアは平然と返した。ポンチョのフードを被り直し、フードの奥から男たちを見据える。
「私は単なる『迷子』だよ。道を尋ねたいだけなんだ」
男たちは顔を見合わせた。一人が鼻で笑いながらセイアに近づいた。
「へえ。道案内が必要か? なら教えてやるよ。回れ右して帰んな」
「ああ。そうさせてもらうよ」
セイアはそう嘯くと、いったん離れた。そして周囲を観察する様に目を配り、ある物を見つけた。
──蓋のついてないダクトがあるな。換気用か?
彼女は男たちが警戒を解いた隙に行動を起こした。
素早くダクトに潜り込み身を屈めた。暗闇の中を這うように進む。やがて微かな光が見えてきた。何とかして覗き込むと、そこは広い空間だった。
床には様々な機械や電子部品が散乱している。奥には巨大なコンテナが積み上げられているのが見えた。
「アレか……?」
セイアは息を潜めながら端末を取り出した。画面を見れば、発信源とされるGPS信号は確かにこのコンテナから発信されていた。
しかし同時に別の信号も感知していた。このコンテナ周辺には複数の人間がいる。しかも彼らの会話には明らかに犯罪的な匂いが漂っていた。
「……さて。どうしたものか」
セイアは冷静に状況を分析した。単身突入は多勢に無勢、危険すぎる。銃と予備のマガジン以外に何かないか、確認してみた。すると……。
「あれは……また使うことになるとはね」
雑に置かれた木箱群の他に、蓋が開いたダンボール箱を見つけた。そこには梱包用の緩衝材以外には入っていない。
早速ダクトから飛び降りて、ダンボール箱を一つ持ち上げた。それを被って、自分を隠す。
「さて……これでいいか」
セイアは被ったダンボール箱を調整し身を屈めた。そのまま床を這うように進む。彼女は慎重にコンテナに近づいた。勘頼りではあるが、今日のセイアはどうも冴えているらしく周囲の人間たちにはバレていない。そしてコンテナの前に辿り着いた時だった。
「おーい。こっちに荷物を運べ!」
突然の怒鳴り声にセイアはビクッと体を震わせた。声の主はコンテナの奥にいる男だった。
セイアは反射的に身を縮めた。だが男の視線はセイアではなく別の方向を向いていた。セイアは内心安堵するとダンボール箱の隙間から周囲を観察した。
「へい、ただ今!」
男たちは次々と荷物を運び込んでいた。セイアはダンボール箱の隙間から覗き見た。それは彼女の車だった。磨き上げられた艶やかなボディが、コンテナの隙間から微かに見える。そしてその側には見覚えのあるエンブレムが刻まれていた。
「やはり……」
セイアは確信した。これは間違いなく彼女の車だ。しかしこのままではどうにもならない。彼女は一旦近くでやり過ごし、契機を窺うことにした。こそこそと物陰に移り、良く見える位置で潜伏することにした。
それから数十分後。コンテナの奥から何人かが出てきた。セイアは息を殺し観察した。彼らは荷物を運び終えると出口へ向かって歩いて行った。チャンスは今しかない。
「……よし」
セイアはゆっくりと立ち上がった。慎重に足音を忍ばせながらコンテナへと近づく。
そして──爆発音。外側からだ。
「なっ?!」
「し、襲撃だー!」
騒ぎ声が聞こえる。セイアは愛銃のセーフティを解くと、ダンボール箱を脱ぎ捨て、駆け足でコンテナの扉に近づいた。銃を構えながら扉を開ける。しかし中には誰もいなかった。ただ床に置かれた車が静かに佇んでいるだけだった。
「どうやら……私はタイミングよく逃げられたようだね」
セイアは安堵の息を吐いた。そして車に近づくと運転席に飛び乗った。鍵はそのまま。エンジンをかけると唸りを上げて動き出した。
「さて。帰るとしようか」
セイアはアクセルを踏み込んだ。彼女の愛車は静かに走り出した。コンテナから抜け出し、倉庫からも脱出しようとした矢先だった。
「おらぁぁぁぁっ!!」
突然の轟音と共にセイアの愛車のすぐ横を火線が掠めた。弾丸がコンクリートを削る甲高い音。セイアは咄嗟にハンドルを切ったが、車体は大きく傾いた。彼女の金髪が風に舞う。
「何事だ?!」
混乱の中、セイアは周囲を見渡した。すると路地の向こうから人影が飛び出してきた。赤髪の小柄な少女──ネルだ。彼女は銃を乱射しながらこちらに突進してくる。
「セイア?!」
「ネル?! なぜ君がここに?!」
セイアが叫ぶ間もなくネルは助手席に飛び込んだ。衝撃で車体がさらに揺れる。
「話は後だ! 出してくれ!!」
ネルの命令にセイアは迷わずアクセルを踏み込んだ。車は急加速しごみを蹴散らしながら路地を飛び出した。後方からは怒号と銃声が追いかけてくる。
「あいつらしつこい!」
「状況を説明してくれないか? この銃撃戦は何だ?」
「仕事だ。だが奴ら思ったより数が多くてな! チッ!」
ネルは窓から身を乗り出し後方を狙撃した。数発の弾丸が後続車両に命中し爆発が起こる。車体が激しく揺れる中セイアは必死にハンドルを握りしめた。
「君の車は?」
「捨ててきた! こっちの方が速い!」
ネルの判断は的確だった。セイアの車──ジャガーEタイプは外観こそクラシックだが、中身は現代の怪物だ。V8エンジンが咆哮を上げてブラックマーケットの路地を疾走する。
「セイア! 左折しろ!」
「了解だ!」
セイアはハンドルを思い切り切った。車体が大きく傾きながらも彼女は巧みに操縦する。ネルは窓から身を乗り出し追撃者を次々と撃ち抜いていく。銃弾が飛び交う中セイアは冷静に思考を巡らせた。
「このままでは埒が明かないな」
「ああ。だがこの車なら……」
「任せたまえ。私はトリニティの百合園セイアだよ?」
セイアは不敵に笑った。その目には闘志が燃えていた。
次の瞬間、彼女はクラッチペダルを蹴飛ばし、左手のシフトレバーを稲妻のごとき速さで動かした。ジャガーEタイプのエンジンが咆哮を上げる。ギアが噛み合い車体が加速する。
「おっと?」
ネルが驚きの声を上げた。セイアはさらにハンドルを切り車体を急旋回させた。後輪が滑りスリップ音が路地に響き渡る。追跡者たちの車はセイアの後を追っては他の車やガードレールにぶつかり次々と横転していった。
「なかなかやるじゃねえか!」
「当然だろう?」
セイアはさらにアクセルを踏み込んだ。ジャガーEタイプはブラックマーケットの路地を蛇行しながら疾走する。ネルは窓から身を乗り出し銃を乱射し続けた。追撃者はもう見えない。
「……よし! うまく撒いたなっ!」
「ああ。だが油断は禁物だよ」
セイアは速度を落としながら言った。彼女の額には汗が滲んでいた。ネルは銃をしまいながら言った。
「まさかトリニティのお嬢様がこんな荒技をやるとはな」
「君こそ。ミレニアムの番長がこんな所で追いかけっことは思わなかったよ」
二人は顔を見合わせて笑った。ミレニアムEXPOの一件以来の再会だが、お互いの気質は理解している。セイアはジャガーEタイプをゆっくりと減速させ路肩に停車させた。
「さて。この後はどうする?」
「まずは腹ごしらえだな。セイアも朝飯食ってないだろ?」
「それは同感だ。ちょうど私も空腹を感じていたところだよ」
そこでネルが周囲の風景を見まわして、ある事に気が付いた。ブラックマーケット独特の雑多な街並みから遠ざかり、砂漠が見えてきた。
確か、ブラックマーケットから一番近いのはアビドス自治区だったはず。以前ゲーム開発部に遊びに行った際、そこにうまいラーメン屋がある──と、聞いた気がする。
「なあセイア。こっから近いラーメン屋に心当たりはないか?」
「ラーメンか。……食べたことはないが、確かアビドス自治区に『紫関ラーメン』という店があったはずだ」
「おお! あそこか! 確かゲヘナの美食研究会も絶賛していたって噂の店だろ?」
「ああ。私も一度、行ってみたいと思っていたところだよ」
二人は顔を見合わせ笑った。次の目的地は決まった。
§
「──とまあ、こんな感じさ」
セイアは肩をすくめて言った。ネルは腕を組みながら唸る。エンジン音だけが静かに響く車内。シルバーのジャガーEタイプは夕暮れのアビドス高速道路をD.U.地区方面に滑るように走っていた。
アビドスとトリニティは比較的近いが、ミレニアムは遠い。それに対しD.U.地区とは近い位置関係であり、それはトリニティも同様であった。
「……なるほどな。ブラックマーケットでお前の車を見つけて……あたしは別の仕事で敵対勢力の車を追ってた。で……」
「偶然鉢合わせたわけだ」
「偶然……ねぇ」
ネルは口元に微かな笑みを浮かべる。窓の外には茜色に染まる砂漠が広がっていた。風が窓を叩く音だけが二人の沈黙を埋めていた。
「なぁセイア」
「何だい?」
「お前、ほんとは最初から分かってたんじゃないのか?」
「何のことだい?」
「あの状況。お前なら、最初から一人で逃げ切れる算段がついてたんだろ? なのに……」
「ふふっ」
セイアは小さく笑った。その笑みには悪戯っぽい光が宿っていた。
「さあね。ただ……久しぶりに君の顔が見たくなっただけかもしれないよ?」
「……ったく」
ネルは呆れたようにため息をつく。だがその表情はどこか楽しげだった。
「ま……いいさ。助かったのは事実だしな」
「そして私は初めてラーメンを食べることが出来た」
「後で歯みがきしとけよ? 匂いが残ったらトリニティのお嬢様方が黙っちゃいないからな」
「君だって似たようなものだろう。メイドの仕事に支障をきたさないようにしたまえよ?」
「ああ。だがまあ……」
「ああ……」
二人は互いに顔を見合わせてから、窓の外に目を向けた。
沈みゆく太陽が空を茜色に染め上げていた。その美しい景色に心奪われつつも、二人の脳裏には今日の出来事が鮮明に焼き付いていた。あの激しい追跡劇も今は昔のことのように感じる。
二人は再び視線を交わし合うと微笑み合った。日が沈むと共に、空が青黒い色に変わっていった。二人の女子高生を乗せたシルバーのジャガーEタイプは、D.U.地区を目指して走り続けた。
それからしばらくして、空にお月様が鎮座する時間帯。セイアの車はD.U.地区の駅前ロータリーにいた。ネルは助手席から降りると、セイアの方を振り返った。
「じゃあなセイア。今日は助かったぜ」
「ああ。私もだよネル。また会おう」
二人は軽く手を振ると別れた。ネルはタクシーに乗り込み、セイアは車を走らせた。その時だった。スマートフォンに突然の着信。セイアは眉をひそめながら応答した。
「もしもし? 私だ。何かあったのかい?」
『セイアちゃん! 今、どこ!!』
「ミカか。何かあったのかい?」
電話の相手は──聖園ミカだった。彼女は今日、シャーレに来ていたのだ。
『何かって……ナギちゃんも私も今日は休むって聞いて驚いたんだよ? モモトークも既読ないし、電話だって今まで繋がらなかったじゃん!!』
「すまないね。少々事情があって電源を切っていたんだ」
『今から迎えに行くから』
「……ミカ。ナギサと二人でシャーレにいるんじゃないか?」
『え? そうだけど?』
「ああ……そうか。ならば……」
セイアは板ガムを手に取ると、ミカの言葉を遮った。
「今から向かうよ。君たちは待っていてくれたまえ」
『もう……わかったよー』
通話が切れるとセイアは静かに車を発進させた。その表情には疲れの色が見えたが瞳の奥には確かな光が宿っていた。彼女はアクセルを踏み込んだ。エンジン音が夜の街に響き渡る。
セイアはハンドルを握りしめながら考えていた。
──今日は長い一日だったな。
朝から晩までトラブル続きの一日だった。だがそれももう終わりだ。明日からはまた日常が始まる。
彼女はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは今日出会った人々の顔だった。
ネルとの再会。ミカとナギサとの約束。そしてラーメンの味。
──ふふっ。なかなか悪くなかったな。
セイアは微笑んだ。車は静かに夜の街を走り続ける。そして彼女の心の中には確かな充実感が満ちていた。
やがて車はシャーレのビルに到着した。セイアは車を停めると、入口の方を見た。そこにはミカとナギサが立っていた。彼女たちは心配そうな表情でセイアを見つめていた。
「セイアちゃん!」
「セイアさん!」
二人は駆け寄ってきた。セイアは車から降りると彼女たちを迎えた。
「心配をかけたね。すまない」
「もう……無事でよかった」
「本当ですよ。何かあったらどうするつもりだったんですか?」
「ああ。そうだね。だが……」
セイアは微笑んだ。その表情にはいつもの優雅さが戻っていた。
「今日は良い経験ができたよ。それに……」
「それに?」
「車も無事だ。……ああ、後で説明しようか。車に乗りたまえ」
セイアはそう言うと踵を返した。その背中を見送りながらミカとナギサは顔を見合わせて微笑んだ。そして三人は車に乗り込み、車はゆっくりと動き出した。
その後、帰宅したセイアは老執事からこっぴどくお叱りを受けたそうな。