こうふくなアイドル 藤田ことね   作:五月車

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9話

 目が覚めると、そこは見知らぬ天井だった。

 

 小説などで無限に使いまわされたモノローグではあるが、自分がまさかその状況に陥るとは思わなかった。

 人生とは一体全体何があるのか分からないものだ。

 

 腕に刺さっている点滴や部屋の雰囲気からおそらくここがどこかの病院であることは想像できるが、それ以上の事はさっぱりだ。

 

 さて、自分も小説などのお決まりに従って、ここに来る以前の記憶を辿ろうと考えたのだが、不思議なことに何も思い出せないことに気づいた。

 どうしてここに来たのかはおろか、自分の名前すら思い出すことが出来ないのだ。

 

「……なんだこれ」

 

 記憶を失っていただけで驚くべきことなのだが、更に空中に無数の文字が浮かんでいる。

 

 想定外な事が起きすぎると人というものは、どうやら一周回って冷静になれるらしい。

 初めて知った……いや、これ以前の記憶がないので本当に初めてなのかどうかは分からないけども。

 

 気を取り直して宙に浮かんでいる文字達をよく見てみれば、どうやらそれらは文章になっているらしい。

 

 記憶は存在していないものの、どうやら一般常識などの知識は残っているようで、一般的な人類の視界の端にこのようなものが浮かんでいることはない……と少なくとも自分は認識している。

 記憶が無くなっている以上、自分の頭の中を何処まで信用していいかは分からないが、ひとまずこの知識が正しいと仮定しよう。

 それならこの文章達が浮かんでいることには何かしら意味があるのだろう。

 もしかしたら自分の記憶が宙に浮く文字という形になって流出しているのかもしれない。我ながら随分と非現実的な考えをしていると思うが、記憶喪失の時点で自分からしてみれば既に非現実的な事態であるため今更な思考だろう。

 

「藤田ことね……ねえ」

 

 声に出してみるものの、いまいちピンとこない。

 文章を読んでみた結果、分かったのはおそらくこの文章はこの藤田ことねという人物について書かれているということだ。

 

 そしておそらく自分は藤田ことね、という人物ではないだろう。

 読んでみる限り、この人物は今日普通に目覚め、現在は学校に向かっている最中であるらしい。おそらく病院で寝ているであろう自分の状況とは似ても似つかない。

 それならどうして、こんな他人の行動が書かれている文章が見えるのだろうか。

 そもそもこれは実在している人間について書かれている文章なのだろうか?

 

 そんなことを考えていると部屋の扉が開いた。

 

 その人は看護師の人だったらしく、こちらの様子に一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにこちらに近寄り意識ははっきりしているかなどの状況確認を受ける事になった。

 

 しばらくすると一人、男の人が部屋の中に入ってきた。どうやら、彼が医者であるらしい。

 見知らぬ名前で呼びかけられるが、多分それが自分の名前なのだろう。

 頭の中で呼ばれた名前を何度も反芻してみるが、いまいちピンとこない。

 

 彼の説明を信じるのであれば、自分はトラックと事故に遭ったらしい。かなり危険な状況ではあったが、運よく生き残ることが出来たという旨の話を聞かされた。

 トラックと衝突したのであれば、骨の一つや二つ折れていても可笑しくなさそうなものだが、どうやらどこの骨も折れていないらしい。

 

 何か調子の悪いところは無いかと訊かれたので、記憶がないことを口にすると困ったように看護師と医者の二人が見合った。

 

 やはり脳にダメージが、などと深刻な様子で話しているのを何処か他人事のように見ている自分がいた。

 

 脳にダメージか、この文字達もそのダメージのせいで見ている幻覚なんだろうか。

 それを確かめるために自分は宙に浮かんでいる文字達に触れてみる。

 

「何をしているんだい?」

 

 こちらに懐疑的な視線を隠そうともせずに医者は尋ねる。

 どうやら、自分が何をしていたのか分からないようだ。

 

「あー、いえ。手がちゃんと動いているか試してみたくて」

「そうかい? それならいいのだけど」

 

 どうやら、この文字達は彼等には見えていないらしい。

 下手に話をすれば入院期間が延びるかもしれないし、様々な検査を受ける必要があるかもしれない。それはごめんだ、自分にはやらないといけないことが……。

 

――やらないといけないこと?

 

 当然のように浮かんだ考えに疑問を抱く。

 やらないといけないこととはなんだろうか。

 

 記憶を取り戻す。

 確かにそれはやらなければならないことだ、でもそれなら尚更病院で検査をしてもらった方が良いだろう。

 素人が何かやるよりも、こういったことの専門家である医者の処置を受けた方が記憶を素早く取り戻せれる可能性は高いだろう。

 

 それなら、一体何を?

 

「まずはゆっくりと体を休めて。それじゃあ私達はこれで」

 

 そんなことを考えながら返答を行っている内に、どうやら医者達の話は終わったらしく部屋の外に出て行った。

 

 一人、静かになった部屋でやらなければいけない事について考えてみるが、余りにも情報が無さ過ぎてたどり着くヒントすら見当たらない。

 

「……これ、読んでみるか」

 

 何かヒントになりそうなのはこの文章だけだった。

 文章をスマホの画面のようにスクロールすると、どうやらかなり長い文章であるようで、最初の方となるとかなり遡らなければいけない。

 今日の藤田ことねについて書かれていた部分に比べてみると、随分と簡略化されているものの、これまでの藤田ことねがどんな人生を歩んできたのかというのを理解出来るらしい。

 

 何かヒントになるものはないだろうかと、最初の方から文章に目を通す。

 こういう時、病室が個室だったのはありがたい。もしも他に患者が居れば虚空をスワイプし、その虚空を凝視するという異常な行動を見られることになってしまっただろうから。

 

 しばらく文章に目を通していると、病室の扉がノックされる。

 

 看護師か医者が来たのだろうと思い、返事をするとそこにいたのは金色の三つ編みが特徴的な女の子だった。

 黄色のトレーナーに白紫水色の三色で構成されているジャケットとラフな服装をしていることから、この病院の関係者ではないだろう。

 年齢は高校生……あるいは中学生程度だろう。先ほどの医者の話によれば自分は二十歳であるらしい、そうなると学友の線は消える。

 そうなると、妹とかだろうか?

 

「プロデューサー! 世界一可愛いアイドルがお見舞いに来ましたよぉ~」

 

 そんなことを考えていた自分に衝撃的な言葉が飛び込んでくる。

 アイドル、先ほどから呼んでいた文章に何度も登場していた言葉だ。

 

 もしかして彼女が藤田ことね?

 そんな考えが一瞬浮かぶが、まだ断定できるような要素は何もない。

 

「あれ、プロデューサーどうしたんですか?」

 

 黙ってしまったこちらを目の前の少女は不思議そうにのぞき込んでくる。

 

「……ああ、いえ。すみません、実は事故の影響で記憶を失ってしまったようで」

「え、ほ、本当に覚えていないんですか? あたしですよ、あたし。あなたのアイドル藤田ことねです!」

 

 謝罪の言葉を告げると、彼女はまるで世界が終わったかのような表情を見せた。

 ああ、なるほど。やっぱり、彼女が藤田ことねだったのか。それなら今自分に起きたこの件は全て彼女を不幸にするために起こった事なのだろう。

 

 それなら、やるべきことは簡単だ。

 

 まず自分がやるべきことは彼女を安心させてあげることだろう。

 幸い、記憶は取り戻してはいないが自分が彼女となにをしてきたのかはこの文章を見れば理解出来る。彼女が自分の事をプロデューサーと呼んでいるし、この文章内でのプロデューサーが自分の事なのだろうから。

 記憶があることを伝えれば、きっと彼女の不幸を少しでも和らげることが出来るはずだ。

 

「…………」

 

 ちゃんと覚えている。

 

 たったそれだけのことを告げるだけのはずなのに、何故だか声が出ない。

 

 まるで口だけが何か別の生物に変わってしまったかのように動かすことが出来ない。

 ただただ小さなうめき声になるだけだ。

 

「どうしました? なんだか急に苦しそうですけど……! もしかして、傷が開いたとか?」

「い、いえ。そういうことではないので、心配しないでください」

 

 焦った様子で、ナースコールを押そうとしていた藤田さんを間一髪で止める。

 

 話せる?

 さっきまで、一切話せなかったのに?

 何が起きているのか全く理解出来ない、しかしながら一つだけ想像は付く。

 こんな意味の分からない事が起きているのは、おそらく同じくこの意味の分からない現象によるものだろう。

 

 先ほどまで見ていた文章を一気に最近の部分まで移す。

 

『ふ「プロデューサー! 世界一可愛いアイドルがお見舞いに来てあげたんだから、元気出してください!」

プ「えっと、だれですか?」

 

 その返答は藤田ことねにとってショックだった。

 ただプロデューサーはふざけているのではないということは分かった。

 

ふ「え、本当に分からないんですか? 私ですよ、藤田ことねです!」

プ「……すみません、実は記憶喪失みたいで」

ふ「ガーン!!」

 

 その返答は藤田ことねにとってショックだった。

 そう、プロデューサーは事故のショックによって記憶喪失になっていたのだった。

 

ふ「本当に覚えてないんですか?」

プ「すみません」

ふ「とりあえず……プロデューサーが生きていてよかったです」

 

 藤田ことねはこれ以上記憶喪失には触れないことにした。

 その方が多分お互いに良いと思ったから。』

 

 やっぱりこの文章が原因だったのか。

 多少内容は違っているが、おおむね先ほどの会話の内容、それとおそらくこれから先交わされるであろう会話の内容が先回ってそこには書かれていた。

 まだ確証は出来ないが、おそらく自分はこの言葉から大きくかけ離れている言葉を口にすることが出来ないのだろう。しようとすれば、先ほどのように言葉を吐けなくなる。

 

 そのことに気づいた時、手がいつの間にか動き、目の前の文章を変える。

 

『プ「すみませんおぼえてる」』

 

 ……うやら文章を書き換えた元の部分には取り消し線が引かれるようだ。

 

「……思い出しました。藤田ことねさん、自分がプロデュースしているアイドルですよね」

 

 文章を書き換えると、先ほどまでの事が嘘のように言葉を口に出来る。

 

『ふ「え?」

プ「藤田ことねさん。初星学園の一年生で、自分が担当しているアイドルですよね」

ふ「ほ、本当に思い出したんですね。プロデューサーさん!」

プ「当たり前ですよ、あなたの事を忘れるはずがありません。例え他の事すべてを忘れたとしても、あなたの事だけは忘れませんよ」

ふ「もぉ~~、プロデューサぁ~~~~♡」』』

 

 文章を変えた影響だろう。

 その先の会話の内容もいつの間にか変わっていた。

 

「プロデューサー! 思い出してくれたんですか!」

「ええ、もちろんです。十五歳で血液型はO型、誕生日は四月二十九日。身長が156センチで体重が四十キロ。スリーサイズは」

「ちょちょちょ! 十分、もう十分、分かりましたから!」

 

 顔を真っ赤にして藤田さんは声をあげる。

 ただその直後ここが病院だったことを思い出したようで、申し訳なさそうに縮こまる。

 

「えっと、あたしあんまり状況を呑み込めてないんですけど、全部思い出したんですか?」

「いえ、思い出したのは藤田さんのことだけです」

「あたしだけなんですか? その……家族のこととかは?」

「全然です。そもそも自分の名前すらまだピンと来てませんからね」

 

 口にしてから、言葉選びを間違えた事に気づいた。

 

「だけど、大丈夫ですよ。藤田さんの事が思い出せたように、他の事も直に思い出せるでしょうし、それに一番大切な記憶は無くさずに済みましたから」

「もぉ~~、プロデューサぁ~~~~♡ あたしのコト、ちょー好きでしょぉ~!」

 

 その場をごまかすように、文章を参考に歯の浮くようなセリフを口にしてみる。

 どうやら効果は上々だったようだ。

 

 その後は和やかな雰囲気で、自分の現状やまだ入院期間などがどうなるか分からない事などの話をして、藤田さんは病室を後にした。

 

「なるほどね。あれが藤田ことねか」

 

 自分の名前同様にいまいちピンと来ていないが、おそらく過去の自分は彼女を不幸にしないために行動していたのだろう。

 

 自分が介入しなければ彼女は不幸になる。それは紛れもない事実であり、その事を以前の自分は許せなかったのだろう。

 それがどういった感情によるものなのかは、残念ながら今の自分には分からないが、道半ばで倒れた以前の自分の意思に従うべきだろう。そうでないと記憶が戻った時に死ぬほど後悔するだろうから。

 

「……はあ、つーか、悪趣味すぎるだろ。この文章を書いてるやつ」

 

 文章を最初の部分に戻し、そこに書かれている文字を睨みつける。

 

 そこには大きな文字で、こう書かれていた。

 

『不幸なアイドル 藤田ことね』

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