カノンは血の滲む肩を抑えながら、仮面の男を睨みつけた。
その背後では、誠道と慧明が仮面の眷属を相手取り、タケルが空を見上げる。
——空羅道は、崩壊寸前。
それは、羅刹の退路が絶たれることを意味していた。
「……どうする、カノンちゃん!」
タケルが叫ぶ。
だが——
カノンの耳には、仮面の男の低い声が届いていた。
「選べ……力に呑まれるか、仲間を捨てるか。」
その声は、淡々としていた。
まるで運命そのものが告げるように。
(私は……)
左額に浮かびかけた角。
心の奥で蠢く、“もうひとつの自分”。
(私は……私だ。)
(私の意思は、私が決める!)
その瞬間。
八尺瓊勾玉が淡い紅蓮の輝きを放つ。
雷と光が絡み合い、結界が再構成されていく。
仮面の男は、その光景をじっと見つめていた。
「……ほう。」
それは、試練でもあり——予兆でもあった。
——カツン。
仮面の男は再び歩み寄る。
「ならば、見せてもらおうか。“抗いの意思”の、その先を——」
——ズズズ……
空気そのものが、呻き声を上げるかのように歪んでいた。
仮面の男は、無音のまま歩を進める。
その背後には“仮面の眷属”が数十体、闇の中からぞろりと現れる。
タケルが歯を食いしばり、雷霆を掲げた。
「来るぞ……ッ!」
誠道と慧明が左右に展開する。
しかし——
仮面の男が、そっと手をかざすだけで——
ズ……ズズ……
眷属たちが“地を這う影”と化して、あらゆる方向から這い寄ってくる。
それは、ただの死霊でも怨霊でもない。
——災禍神の「呪いの影」。
「……抗えど、無駄だ。」
仮面の男の声は、地獄の鐘のように冷たく、重く響いた。
「この世界は、既に“終わり”に侵されている。」
カノンは胸の奥が軋むのを感じた。
(……違う。違う!)
けれど、その声に反応するように——
左額の“角”が、ゆっくりと姿を現しつつあった。
——ズキン。
脳髄に響くような疼き。
力が暴れようとする。
理性が引き裂かれそうになる。
(私……が……)
仮面の男が、ゆっくりと囁く。
「お前の中にあるのは、“人の力”ではない。それは、遥か古より忌避された、“異端の血”——」
カノンの左額に浮かび上がる角は、まだ完全には実体化していない。しかし、仮面の男はその存在を見逃さない。
「やはり……桃の血か。」
その言葉に、誠道も慧明も目を見開いた。
「桃の……血だと……?」
仮面の男は静かに告げる。
「かつて桃太郎と呼ばれた者は——鬼を討つために、鬼を取り込んだ。神と鬼、二つの相反する力を己が身に宿した、人ならざる者。……その末裔であるお前が、その力を継がぬ道理はない。」
カノンは動揺しながらも、胸の奥で理解する。
(……それが、私の……)
仮面の男は冷たく言い放つ。
「だが——それは諸刃の剣だ。力に呑まれれば、お前は鬼となり果てる。“災禍神”にとって、それほど都合の良い器はない。」
カノンの心に、恐怖と怒りが交錯する。
(……私は……そんなものにはならない!)
八尺瓊勾玉が赤い光を帯び、霊力と異能がせめぎ合う。
誠道が叫ぶ。
「カノンさん! 落ち着け! 心を乱せば……!」
だが、仮面の男は既に動いていた。
再び音もなくカノンの目前に現れ、鋭い掌打を突き出す。
「選べ。人として滅びるか、鬼として堕ちるか。」
その刹那——
「ふざけるなああああッ!!」
カノンの叫びと共に、彼女の背後に桃色のオーラが浮かび上がる。
しかし、カノンは、違和感を覚えていた。
胸の奥で、もっと深い何かがうねり始めている。
(……これは……)
左額に浮かび上がった、かすかな“角”。
それは鬼の血を引く者の証——だが、それだけではない。
八尺瓊勾玉から脈打つ霊力。
心臓の奥、魂の底で——何かが目覚めようとしている。
仮面の男は、その変化を鋭く見据えていた。
「……桃の血を継ぎながら、“鬼”でもあり、“神”でもある……か。」
——“鬼神の血”。
それはかつて、桃太郎が封じた最奥の力。
鬼を討つ者でありながら、その身に鬼の力すら取り込み、超越した存在。
人でも鬼でもない——それが、“鬼神”の系譜。
「……まさか、お前が……」
仮面の男が一歩踏み出す。
その足取りには、警戒と興味が入り混じっていた。
カノンは胸に手を当て、震える声で呟く。
「……これが……私の中の、力……?」
その瞬間——
——ゴォォォォン……!
空羅道が大きく軋みを上げ、裂け目から黒い瘴気が噴き出す。
魔界と地上の境界が、崩壊の瀬戸際にあった。
慧明が叫ぶ。
「カノンさん! 早く決断を!」
誠道が法剣を握り締め、睨みつける。
「今は撤退を——」
だが、カノンは一歩前に出ていた。
恐怖も迷いも飲み込んだ瞳で、仮面の男を見据える。
「……私には、まだ……やらなきゃいけないことがある。」
「この力を……受け入れなきゃ。鬼でも、人でもない……私は、橘カノン——」
「——鬼神(もも)の血脈(けつみゃく)を継ぐ者!」