閑静な、という表現が厭に似つかわしい住宅街の、車も殆ど走らない様な狭い道を歩く中に、その家はある。
家と言っても、一見しただけでは壁とそう変わらない。ただ、扉があり、それだけがこの壁を建物に変える魔法の扉となっている。
インターホンは付いていないから、代わりに扉を数回叩く。だが、この合図に返事が返ってくる事は今の一度も無い。それでも、中に人がいるという確信はあった。人の気配を感じ取った、等ではなく、ただ慣例的にその筈であると言うだけだ。この家の持ち主は、身体の弱さ故に、常に引き篭っている。死んでいなければ居るはずだし、死んでいたなら──その時はその時だろう。
空いている右手でポケットを弄りながら、扉をゆっくりと開けて中に入った。玄関の先には畳敷きの居間があるが、そこには殆ど何も無い。質素と言うにはやり過ぎな様にも思えてしまう程だ。座布団ぐらいはあるものの、これも使われているようには見えない。ただ、掃除だけはしているのか、埃は一つも無い。そういった所はマメな男なのだ。
そしてまた、この家の構造は些か変だ。庭を囲むようにして、家屋が四方に建てられている。それだけなら今時珍しいとも言いきれないだろうが、家主の言に依れば、祖母から譲り受けた時からそうなのだと言う。そして祖母もまた別の誰かから譲り受けたから、遡ればもっと古くからこうなのだと言う。
それは、少し珍しい気もする。
そして、それ以上に奇妙なのは──庭が、妙に大きい事だ。これでは、庭が本体のように思える。否、実際にそうなのだという。家主の訊いた話に依れば、この家は庭と、その中心にある桜の樹を取り囲むようにして建てられたのだと言う。それでも、由来や真意などは、建てた本人にしか分からないだろうから、気にしなくても好い、とも言っていた筈だ。それもそうだと、その時は呑み込んだが、訪れる度に矢張り奇妙な感を覚える。慣れぬのだ。それを言ったところで仕様も無いので、誰かに言うことも無いのだが。
居間を横切って障子を開くと、漸くその後ろ姿が見えた。後ろからは、起きているのか寝ているのか分からない。ただ、凝と庭を見詰めている。服は寝間着のままで、その隙間から見える首筋は、やけに白い。陶磁器の様だと幼い頃から例えられていたが、病の為か、最近は一層白く──否、青白くなっている。これでは、陶磁器と言うよりもむしろ幽霊だ。それなのに、髪はパサパサと土気色に乾燥している。碌に栄養を取っていない証拠だが、その生々しさが、寧ろこの男を生者たらしめている様に思えた。
「おい」
ぶっきらぼうにそう声を掛けると、おう、とこれまたやる気の見えぬ返事が帰ってきた。
「まだ生きてるんだな」
「お陰様でね。だがもう永くないだろう」
軽くやり取りをしながら、私は漸く片手に持っていた袋を下ろし、中から数冊本を取り出した。男の左には、同じように小さな本の山が積み上がっている。以前来訪した時に、私が渡した本だった。
「もう読んでしまったのか」
「これ以外にやることも無いからね」
そう言って男は軽く笑ったが、ぴゅうと吹き込んできた風に咳き込み、笑い声は直ぐに途切れた。
私は、この男の様子をこの様に偶に見に来る。頼まれた訳では無いが、矢張り気になってしまう。そして、その度に手土産を持参するのだが、病で食い物も碌に喰えず、酒も一口で限界、煙草なんかは以ての外──となると、これが困ってしまう。そこで、目の前の男は、ならば本を持ってきてくれと私に言った。この家にはテレビなど無く、また外に出れぬ身でもある為に、せめて文字の世界に娯楽を求めたいのだという。古本でも好いと言うので、私は二つ返事で承諾した。そうして、私は本を渡し、また読み終えたものを回収する仕事を与えられた。無論、自ら進んでやっていることでもある為、文句など言いようも無い。嫌なら止めれば良いだけのことだ。
「それで──執筆は、もうやらないのか」
「嗚呼。もう筆を執れる身体でも無いからね」
この男は、以前は作家だった。身体が弱くとも出来る仕事で、昔はそれだけで食っていけるほどだったという。私も読んだことがあるが、どれも心が弾む心地こそしないものの、第二の現実に囚われる様な不思議な感覚が、その人気を呼んだのだろうと、勝手に分析などしていた。それについて本人に聞いた所、「私は自分の体験しか書けないから、現実の様になるのは当たり前だ。むしろ、そうでないとまるで私が夢遊病のようじゃないか」と答えられた。懐かしい記憶である。
だが、彼はある噺──「桜」という題の噺を書いて以来、筆を折ってしまった。そして、その噺は、所謂賛否両論という結果に収まった。それまでの作品とは一転して、得体の知れない気味悪さが、それにはあった。その為に、一般的な評価は低い。だが、一部の奇特な人々には大層人気を博し、それ故に世間では賛否両論の評価に落ち着いている。
しかし、私にとって最も印象に残っているのは──後書きだった。後書きと言えば、噺の解説や作者本人の感想などが書き連ねられるのが常だが、「桜」に限って言えば、違っていた。ただ一言、「桜が綺麗でした」と記されているだけの、その異様さに目を奪われた。
それ以来、彼は一度も執筆をしていない。それでもどういう訳か、生活は出来ているようである。生活保護でも受けているかと思ったが、そういう訳でも無い様だ。その所為か──この友人には、相当な隠し財産があるという噂話がある。勿論、噂の域を出る訳では無い。そもそも彼の生活ぶりを知っている者も少ないし、隠し財産というのも、彼が引退した身でありながら華美な生活を送っているという妬みから来る妄想が元だろう。実際、一瞬だけ、そのような瞬間もあったのだと当の本人は言っていたが、今となってはそんな事実は影すら無い。私の知っている限りでは、この男は清貧とまでは行かずとも、度を過ぎた贅沢などはしていない筈だ。
それでも、この質素さは──些か不気味なのだが。この様になったのは、数年前──丁度、「桜」を発表した頃だった気がする。
そんな事を考えている内に──また風が吹き込んできた。
今度は、私の身体をそっと撫でてきた。それだけでも、寒さが伝わってくる。それなのに、男は咳き込みながらも、庭を見詰めることを止めなかった。彼は、日がな一日こうして過ごしているのだという。飽きないものかと思うが、口出しはしなかった。代わりに、庭の方を見遣った。雑草の茂る中に、一本、大きな樹が生えている。それは桜だと言うが、まだ寒いからか、花は咲いていない。下の方に目をやると、矢張り未だ、雑草に乗っかるようにして、雪が所々に残っている。未だ春は来ていないのだ。そう口に出すと、男も残念そうに頷いた。
「春はもう直ぐ来ると思うんだけどね」
そう言いながら、男は欠伸をしながらも、矢張り目線は庭に向けたままにしている。
「もう直ぐと言っても、お前は──」
「もう一度見る事は叶わないだろうね。だから、君が良ければ、見せてやりたいのさ」
私の言葉に、男はそうつまらなさそうに答え、直後に嗚呼とよく分からない声を上げた。
「私が死んだ時は──その桜の下に埋めておくれ」
その唐突な言葉に、私は目を丸くした。
「何だ、急に唐突じゃないか。それに些かロマンチスト過ぎる。お前らしくも無い」
「私は浪漫など求めていない。唯、私は綺麗な桜を見せたいだけだ」
それで身を樹の下に埋める事こそがロマンチストなのだと思ったが、敢えて言わなかった。態々口出しするようなことでも無いように思えた。
「嗚呼、それと、この家も君に譲る事になる。それはこの前話したっけ」
「その時はまだ悩んでいた筈だが──決まったのか」
「悩んでいたんじゃない。唯──桜が見たかっただけだ。でも、間に合いそうにもない。だから、いっそ君に譲ってあげようと思ったのさ」
「それでも、この家は──」
「確かに祖母の遺産だが、今は私のものだ。どう使ったって良いだろう。それに、君も欲しかったんじゃないのかね」
見透かすようなその言葉に、私は少し
「何時私がこんな住みづらい家を欲しがったというんだ。それに──」
「人喰い屋敷か。君もそんな話を信じるようになったんだね」
男は見透かすように、嫌味たらしく続けた。その言葉に私は先程以上に反感を覚えた。
「確かにそんな噂話もあったかな。でも私は現に喰われていない。私の存在がその噂を否定してやっているんだ。それなのに、そんな言い方は無いだろう」
そう言い返すと、男は少し笑って顎を掻いた。
「そんな話は祖母の時にもあったそうだ」
それは──初耳だった。
「まあ、この家が喰っていないのは事実だ。でもね──」
男が何かを続けようとすると、また風が吹いた。今度は私の身体にも直に当たった。その意外な冷たさに、瞬間身を震わせた。男も同じように、少し肩を震わせた。春はまだ遠いような気がする。そう思っている最中に、男の声が耳に入ってきた。
「喰っているのは、桜さ」
そう呟く声は、何時になく真面目な口調だった。
面白くもない冗談だと言い返そうかと思ったが、直ぐに止めた。
暫く沈黙が続いた後に、男は傍にあったコップの水を煽った。少し噎せている様子を見て、矢張りもう直ぐなのかと、勝手に勘繰った。
「くどい様だが、私はもう永くない」
そう言うと男は声を落としながら続けた。
「だから、最期に──告白をしようと思う」
「唐突だな」
何も考えずにそう言うと、男は笑うこともなく続けた。
「君にだけは知って欲しかったんだ。私の──」
そこで男は言葉を切った。未だ風邪は吹いていないが、それなのに枯れた樹は枝を揺らしている。
「──昔の行いを」
男は、顔を少しこちらに向けた。
眼は落ち窪み、頬は痩せこけ、全体が青白くなっている。亡霊のようだ。そう言うと、男は笑って頷いた。
「亡霊からの最後の言葉だ。心して聞くと良い」
男は再び顔を庭先に向けながら、言葉を続けた。
「私は、祖母を殺した」
ひゅう。風が空気を切って、私の頬を撫でた。
その唐突な言葉に、私は驚くことすら出来なかった。その代わりに、理由を聞いた。
「何故だ」
その言葉に、男は庭を──その中心にある樹を見詰めながら答えた。
「春だからだ」
「春だから──殺したと言うのか。それでは、宛ら異邦人では無いか」
男は、その言葉に少し笑い、言葉が悪かったと付け足した。
「確かに、その様に聞こえるかもしれない。でも、彼れは唯暑かったから殺したのだろう」
「お前は、違うのか」
「──違わないだろうね。うん、私もムルソーと同じだ。だが、殺人の理由など、推し並べて仕舞えば何れも変わらないだろう」
何やら一人で噛み締めるように、男は頷いた。平素この様な事など無かったから、厭に気味が悪かった。
「桜は、春だから咲くのだろうか」
男は、再び唐突に、そう聞いてきた。
「当たり前だ」
「
可笑しな言葉だ。ただそう思った。
「暖かくなったから、花は咲くのだろう。桜が咲いたから春などと言えば、それは因と果が丸切り逆になって仕舞っている」
私の言葉に 、男はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「私はね、どっちでも好いと思うんだよ」
「はあ」
呆れた声を出したが、男は構わずに続けた。
「喩えば、桜が咲いているという場面だけがあったとしよう。それを見て、君はどう思うだろうか
「──春だ、と、そう考えるだろうな」
「そうだね。だから──」
「桜が先だと、そう言いたいのか」
そう訊くと、男は黙って頷いた。
馬鹿げている。
「それでは、昨日まで夏だったとして、桜が咲いていれば、その瞬間には春になっている、という事にならないか」
我ながら馬鹿な話だと思いながら訊いたが、その言葉にも、矢張り男は頷いた。
「それでは、過去など有ったものでは無い。お前の言葉通りなら、
男は、少し顎を掻いた。
「何故、廻ると言えるんだね」
「はあ」
また、呆けた声が出てしまった。
「春が来れば次は夏、その次は秋、冬、そして春──季節とはそうして移り変わっていく。当たり前じゃないか」
私の言葉に、男は小さく首を横に振った。
「違うのか」
「違う
妙に判然としない言葉に、私は少し苛立った。
「おい、私は変な問答をしたい訳じゃない。これ以上用が無いなら──」
「そう言わずに、最後まで聞いてくれないか。君の数少ない友の、最期の頼みだ。それに、焦る必要も無い。長くないからさ」
どうせ、君も帰る訳が無いだろう──その言葉に、私はまた
私は黙ったまま、ポケットを右手で弄りながら、男の後ろ姿を睨み付けた。
「もしかしたら、この前まで夏だったかもしれない」
男は、三度唐突に、そう言った。最早慣れてしまった。黙ったままでいると、男は続けた。
「馬鹿だと思うだろうが──この前まで夏
「それは、そうだったからだ。それ以外に何があるというのかね」
「
その言葉に、一瞬逡巡した。
「──憶えているからだ」
そう答えると、男は静かに笑った。
「そうか、記憶か」
「何が可笑しい」
訊くと、男は少し黙って、直後に答えた。
「記憶とは、黒い箱だ」
また、妙な例えだ。いい加減うんざりして、またその後ろ姿を、今度は見えもしない顔を覗き込む様に睨み付けた。
「君は、昨日食べた夕飯を憶えているかね」
やにわな疑問に、少し頭を捻った。
「昨日は──そう、確かハンバーグを作った。余裕があったからな」
その答えに、男はふうんと鼻を鳴らした。
「では、何処にハンバーグを作ったという証拠があるのかね」
「だから、そう憶えているのだ」
「では、一週間前は何を食べた」
それは──憶えていない。
「もっと遡ろう。一ヶ月、一年、十年──その度に、記憶というものは薄れていくだろう。赤子の時分の事など、記憶にすらないはずだ」
その言葉に、私は静かに頷いた。男からは私のことは見えていないはずだが、その頷きを受け取ったかのように、男は続けた。
「では、君は憶えているだろうか。彼れは確か小学生だった時か、君が給食を嫌がって走って逃げたのは、中々に愉快だったけどね。私は憶えているが、君はどうだろうか」
そんな事は──最早記憶に無かった。だが、言われてみればその様な事もあった気がする。私はまた静かに頷くと、男は笑った。
「すまない、騙してしまったね。そんな話は、実際には無いのだよ」
正確には、私の記憶には無いという事だ──男は余計にそう加えて、また笑った。
「何故騙すような事を言った」
そんな嘘に、益など無いはずだ。そう言うと、男はまた一層笑った。
「試してやったのさ。ほら、記憶なんて、充てにならないだろう」
そこで私は、漸く合点が行った。
「記憶が黒箱と言うのは──そういう事が言いたかったのか。だが、それでも私は昨日ハンバーグを食べたぞ」
「ほう。証拠があるのかね」
男は興味深げにそう言った。
「嗚呼。確か、買い物のレシートがあったはずだ。材料からしても、ハンバーグを作ることは自明だ」
「否、その材料でハンバーグ以外のものを作ることだって出来るはずだ。それこそ、ただ焼いて食うだけならどんな肉でも出来てしまう」
「そんなことを言ってしまえば、キリが無いだろう」
少し声を荒らげながら言うと、男はまた愉快そうに答えた。
「そう、
男は、庭を見詰めたまま、再び水を一口飲んだ。今度は噎せなかったが、代わりに吹いた凩が、男の肺を刺激したのか、咳き込んでしまった。
「過去なんて無いんだ」
咳が収まり、男はそう続けた。
「過去が──無いだと」
「無茶な話だと思うだろうね。でも、誰も否定出来ない。材料が無いからさ。だから──」
「桜が先、か」
そう呟くと、男はまた頷いた。
「桜が咲いている、だから今が春だ。逆かもしれないし、そうでは無いのかもしれない。私達には──否、誰にも分からないだろうね」
「だが──何故、それだけで人を殺したのだ」
気づかない内に、私はすっかりこの話に呑まれて仕舞っていた。人殺しなどと言う非現実が、まるでもう一つの現実の様に、私の周りを取り囲んでいる。
「君のような人間にとって、価値があるものとは、何だい」
「唐突だな」
「ずっとそうだったじゃないか」
そうだ。今更なのだ。私は右手をポケットから出しながら、少し考えて答えた。
「矢張り金だ。金があれば、この世の中では大抵の事が出来るし得られる」
その言葉に、男はほう、とだけ答えた。
「私には、それが桜だった。それだけだ」
その言葉に、私は何も言うことが出来なかった。呆れたと同時に、その背中が、厭に大きく見えた。
「殺人には理由が要るのだろう。そして、大抵の殺人は──否、それに限らずとも、凡ゆる行動というものは、何か価値を求めて行うのだろうね」
「──確かに、財産何かを欲して行われる殺人は多いだろう。だが、お前は──」
そこまで言って、私は気がついた。
私はまた黙った。今度は、この男が酷く気味悪く思えて、右手を固く握りしめた。
「だが、それでも分からない。何故、桜と人殺しが結びつく」
「桜の下には、死体が埋まっているからだ」
あの樹の下には、祖母が居るのだよ。
びゅう。今度は突風だ。上着がはためき、咄嗟に左手で服を掴んだ。
「居る──と言うのは」
「埋めたのさ。私の記憶の中では、祖母はあの樹の下に埋まっている。それと、私の財産も、あの中にある筈だ」
財産は──矢張り有ったのか。私は、柄になく少し興奮した。それに気付いたのか、男は続けた。
「嗚呼、私が死んだ時は、その財産も君にやろう。私には無価値だが、君には要るかもしれない」
そう言って、男は少し俯いた。
「君は、少し前まではそれ程浮世離れした生活では無かった筈だ」
小さくなったその背中に、そう訊いた。金遣いの荒い男では無かったが、それでも収入相応の暮らしはしていた筈だ。
桜だ──男は、そう言った切り、黙ってしまった。
「私は、桜に喰われて仕舞ったのだよ」
喰っているのは桜さ──そんな事を、先程も言っていた気がする。
否、この答えは──同じだ。
数年前、この男が「桜」を世に出した時に──様子を見に来たその日、既にこの暮らしになっていた時に──この問答は既に行われていた。少なくとも、
「社会的な歴史や記憶というものは、同じ記憶を持つ人間が集まった時に形成される。つまり、
見透かすように、男は笑った。
「序でに、君はその時は私の答えを一蹴した筈だ。」
「喰われてしまったとは、どういう事だ」
揶揄う様な言葉を無視してそう訊くと、男は凝と桜を見詰めたまま答えた。
「私も、君のように他の何かに価値を見出していた事があった。古い──昔の事だ。それこそ、君の言う通り、浮世離れしていなかった時だ」
その言葉に、昔を懐かしむ──そんな様子は無かった。ただ、淡々と、男は続けた。
「私は、祖母を殺した。祖母の持つ財産が目当てだった様な気がする。だが──」
そこで男は言葉を切って、嗚呼とか嗚於とか、意味の無い音を発した。
「桜を──桜を、見てしまったのだよ」
そう言う男の声は、何故か涙声だった。
「何故──」
「すまない、懐かしくなってしまってね。それでも、嗚呼、矢張り」
残念だ──男は、再び俯いてしまった。
それだのに、その言葉には──何処か喜悦の情が含まれているように思えた。
「春と桜の話はしたね。因果には、屹度意味など無い。私にとって、其れは殺人の理由だった」
「どういう事だ」
「私の因は、財産か、或いは更にその先にあったかもしれない。否、
桜だ──その言葉は、淡々としていた。それが、厭に怖かった。
「さくら──」
「だから、この家が人を喰ったのではない。桜が、私の心と共に、人を喰ったのだ」
そう言葉を発する男の肩は、少し震えていた。
「おい」
何だか怖くなって、不意に声を掛けた。
振り返った男の顔は──一層、生者のそれとは思えなかった。眼は焦点が合っておらず、顔は更に青白くなっている。その表情は、何かを怖がっている様にも見えたが──それなのに、口角は上がっていた。
「私は──恐かったのだ」
男は、また桜の樹を見ながら、そう呟いた。
「何がだ」
「桜が──否、
男はそう言って、少しの沈黙が続いた。
「私は、祖母を殺して、その言う通りに桜の下に埋めて、そうして──あの桜の咲いている姿を見た。それは──美しかったのだ。その美しさに、私は喰われて仕舞った」
男の言葉は、酷く冷たく聞こえた。だがよく聞けば、語尾が少し上がっている。
「だが、桜というものは、酷く早く散って仕舞う。その中でも、この桜は特に早い。七日も過ぎれば、もう散り散りになって仕舞った」
ひゅう。ひゅい。風が吹いたが、男は言葉を止めなかった。
「一日は耐えられた。だが、二日、三日と経つ毎に、どうにもあの桜が忘れられない。だが、桜は直ぐに咲き直すものではない。一年も掛かってしまうのだ」
ひゅう、ひゅう、びゅうびゅう。
風は次第に強くなり、桜の樹の枝が激しく揺れた。
「一週間、二週間──私は、その間に、何とかして気を紛らわせようとした。初めは、平素の様に話を書こうとした。私の話は、私の記憶から生まれる。だが、私の記憶の中の話は、どれもくすんで仕舞っていた。桜の美しさに勝る話など、一つも無かったのだ」
男の言葉は、次第に上ずってきた。焦るような声色に、幾分かの恐怖を覚えた。
「一月、二月──今度は、様々な娯楽に手を出してみた。だが、どれも駄目だった。桜の美しさには、矢張り勝てなかった」
びゅうびゅう。風が障子を叩く。その揺れる音にさえ掻き消されるほどに、男の声は弱くなっていた。
「だが、耐えられるものではない。気が狂いそうだった。だから──先ず、持っている財産を埋めてやった。そうすると──」
「さいた──」
「嗚呼、咲いて仕舞ったのだ。だが、また直ぐに散ってしまった。だから、また埋めた。そうすると咲いた。だが、足りぬ。足りないまま──財産は、尽きてしまった」
男は、息を切らしながら、水に手も付けずに、ただ蹲っていた。
「私は、恐くなった。際限の無い欲望に、それを欲する私に──現に、私は未だ、あの桜の咲く姿を、見たいと思って仕舞っている。だから、君がこうして来てくれて、嬉しかったのだよ」
そう言いながら、男は、私の右手に握られていたナイフを、自分の首元にそっと当てた。
つう、と真白い肌に、赤い線が入り、どくどくと血が溢れ出してきた。
矢張り──この男は気づいていたのだ。
「何時から──」
「初めからだ」
「何故──」
「私もそうだったからだ。だが、私は見ての通り、桜に喰われて仕舞った。もしかすると、君は違うかもしれない」
男は、ちらりと此方を見遣って、最後の言葉を発した。
「最期の頼みだ」
「──何だ」
「私を、あの桜の樹の下に埋めておくれ」
そう言い残して、男は──ゆっくりと、目を閉じた。
私は、桜の樹の下を掘った。
そこには、金品やらアクセサリーやら、凡そ金になりそうなものは全て入っていた。それらを全て掘り出すと、土の中に白い塊があることに気が付いた。もっと掘ってみると、それは誰かの頭骨だった。気味が悪くなって、再び土の中に隠し、次いで男
扨、如何やってこれ等を持って帰ろうか。私の頭を次に支配したのはその問題だった。この家のことも問題だったが──その事は、また何れ考えよう。
そう思いながら、文字通り掘り出し物の山を抱えながら、矢張りあの桜のことが気になった。死に際の人間にあれ程の気迫を持たせるとは、どれ程なのだろうかと、気になった。
そうして、私は──振り返った。振り返ってしまった。
美しかった。
美しい桜が、咲いていた。
桜が綺麗でした。