海は綺麗だ。呆としながら、陽光を跳ね返す様を見詰めてそう思った。
空にちらりと目を遣ると、太陽が燦々と照っている。眩しいが、秋も半ばという時期柄も相まって暑いとは思わない。
道の欄干に身体を預け、そのまま、また呆とした。
海はまた、五月蝿いのだ。だがそこに煩わしさを感じはしない。秋冬の太陽みたいなものだ。避けたいとは思わない。
廿も疾うに越した私は、趣味も持たないような、非道く詰まらない人間になっていた。日々に殺される様に生き、また日が明けては蘇り、また殺される。如何にも判で捺したような現代人だ。
だが、そんな私にも趣味らしきものは一つだけあった。只管、海沿いの道を歩く事だ。歩いている最中に、色々な事が頭の中を駆け巡る。それは時に会話の形態を取り、また或る時は神に対する告解の様にもなった。それでも、その思案は、殆どが無為なものだ。何の為にも成らない。だから、若しやすると、歩くという行為そのものが目的なのかも知れない。だが、結局は何方でも好かった。
そして、時たまこうして呆とする。そこにも意味は無い。唯、何にもつけて意味を求める社会に対する細やかな反抗心みたいなものだ。合理の波が片郊まで押し寄せて来ては、却って気苦労が嵩んでしまう。矢張り、こうして無為に呆とすることも必要だろう。
そのまま、ふと海から目線を下げて浜の方に目を遣った。
──誰か居る。
寂れた
異様だ。遠目から見ても、そう思える。抑もこんな
只、珍しい事には変わり無い。丁度暇だからと言う理由で、私は半ば冷やかしに浜に降りた。
一歩ずつ、ざくざくと砂を踏みながら、その後ろ姿に近付いた。
こうして砂の上を歩いてみると、昔の事を思い出す。悪童だった時分、旧い友達と善く浜で遅くまで遊んで怒られたものだ。今ではそのような元気は欠片も無い。もしかすると、あの人影もその様な人間かもしれない。そう思えば、歩速も少しは捷くなった。
「おうい」
幾分か近付いて、そう声を掛けた。
人影は、私に気が付いたのか、答える様に声を上げた。
「その声は──」
その声を聞いて、私は少し──否かなり驚いた。
紛れも無く、知った声だったからだ。
「もしかして──お前なのか?」
訊ねると、善く此処で遊んだものだねと返された。
ざざ、と海の音が聴こえる。そう言うと、それは波の音だと返された。相変わらずの様子に、私は少し安心した。
私とこの男は、所謂幼馴染の関係にある。とは言え、彼は別の町から越してきた身であり、本当に幼い時分からの付き合いだった訳では無い。凡そ九つか、もしかすると十に差し掛かる頃合いだったかもしれない。
それでも、巡り会った年に関わらず、私達はたいそう仲良くなった。
彼は、他の人よりも少し大人びていた。書を嗜み、皆が外で遊ぶのを見ながら善く解らない勉学に励む、そんな子供だった。この町の人間では無いという事も相まってか、他の子供の間で醸成される空気に、彼という存在は余り馴染んでいない様に思えた。それでも私は、少し離れたところにいるような彼の事が気に入っていた。
誰もが気味悪がる中で一人だけ仲良くなっているという、そう言った特別感にも浸っていたのだろう。私達は共に善く遊び、学び、やんちゃな事もした。懐かしい思い出だ。
だが、彼は──消えた。音も無く。
それも何年も前の事だ。何故、という疑問が、私の頭を駆け巡った。
「懐かしいな。小学校のときにここで砂泥だらけになっては怒られたっけ」
若干の静寂を打ち破るように、彼は静かに言った。
「大体はお前から誘った癖に、私のせいにされたこともあったな」
「恨んでるか」
恨みたいのは──こちらだと言うのに。
彼は、そんな訳がないさと言い、笑った。
あの頃と同じ光景を眼前にして、私の身体は岩のように硬直した。
「元気だったか」
距離を測り兼ねながらそう訊くと、固いなあと笑われた。
「君と僕の仲じゃないか」
その言葉に、私は閉口した。仲と言うのであれば、あの日既に途切れたと思っていた。それに気づいたのか、彼は少し背を丸めた。
「──否、逃げたのは僕だったな」
その言葉に閉口しながらも、私は静かに頷いた。
これもまた、忘れていた思い出だ。
彼が引っ越して来てから凡そ五年が経った或る日、私はまた海に行こうと切り出した。この町は海沿いにあるから、砂浜や海は格好の遊び場だった。私達も、善くそこで遊んでいた。だが、彼は首を横に振って言った。
「海が怖いんだ」
今までそのような事を口に出した事なんて無かったし、それまでは近所の砂浜で遊んでいた。果てもしや無理をさせてしまっていたかと思い、それに気付かぬ己を恥じながら謝った。
「違う。怖くなったのは最近なんだ」
彼は、そう答えた。
「最近?どうしてなんだ?」
私の疑問に、彼は少し答え難そうにしていた。それでも、十も過ぎて四、五年経つとはいえ、矢張り遠慮など弁えぬ歳頃だったから、ただ問い詰めた。今思えば、共に遊べなくなるのが厭だったのだろう。
彼は少し唸った挙句に答えた。
「分からん」
その答えに、私は呆けた声を上げた。
「分からんって、怖いんだろう?」
「ああ。見たくも無いな」
「その理由が分からないのか?」
「その通りだ。本当に──分からないんだよ」
そう言って、彼は申し訳なさそうに笑った。その時になって、私は初めて彼に怒った。子供さながらの癇癪に違い無かったが、彼は謝るように、ただ俯くだけだった。
それから数日、彼は姿を消した。否、別に行方を眩ました訳では無く、ただ家に引き篭っていただけなのだが。それでも、世界の狭いその時の私にとって、学校や町中で暫く顔を見ないのは、行方不明の烙印と同等のものであった。
幾日か経った或る日、私は不安になり、彼の家を訪れた。おばさんは快く出迎えてくれて、ずっと部屋に居るのだと伝えて来た。元よりその様な奴だと思っていたから、そんな事を聞かされても、大して動じる事は無かった。
彼の部屋の扉を叩くと、小さく声が聞こえた。酷く弱々しい声だった。
「俺だ」
私が簡素にそう言うと、扉の向こうで物音がした後、扉が開いた。
彼の顔を見て、私は少しぞっとした。平素とそう変わらない様に見えるが、しかし眼は焦点が余り善く定まっていない。顔は引き攣っていて、何かに怯えるように様な──そんな様だった。
「少し散らかってるけど、入るかい」
彼の言葉に促されるままに入った部屋は、異様と形容する他無かった。
窓は全て外が見えないように布で覆われていて、外からの音が入る隙間もない程に、部屋という箱が閉じられていた。ミステリやオカルトに傾倒していれば、密室殺人という言葉が連想されうるだろうとか、その時の私は、眼前の現実に目を合わせないように、どうでもいい事ばかりを考えていた。
「済まない、驚かせて仕舞ったね」
彼はそう謝りながら、座布団を此方に差し出してきた。私はどうにの座る気になれず、立ったまま尋いた。
「どうしてこんな風になっているんだ」
「海が怖いからだ」
彼は、窓──否、壁を眺めながら、そう答えた。善く通る声では無いのに、無音の部屋にはどうにも響き、それが妙に恐ろしく、背筋につうと寒気が這った。
「それでも、これは異常だぜ」
恐怖の感を掻き消すように、私は少し声を荒らげながら言った。
「だいたい、音までも消す必要は無いじゃないか」
その言葉に、彼はキッと私の顔を睨め付けてきた。平素その様な眼をした事が無かったから、私は少し目を丸くした。
「怖いと思って仕舞ったんだ」
彼は、声を震わせながら続けた。
「一度
彼はそこまで一息で告げて、俯いた。特段大声と言う訳では無かったのに、この部屋の中では、決死の絶叫のように聞こえた。私は、ただ頷くしか無かった。
私はそのまま、追い出されるように部屋を出て帰った。否、彼から追い出された訳では無かった。ただ、彼の事が分からなくなって、次第に怖くなった。そうして私が飛び出しただけだった。
それから私が、彼の顔を見る事は無かった。知らぬ間にまた別の場所に越したと知った時は、幾分かの寂しさを覚えたが──それでも、薄情な私は、新しい生活にいっぱいで、彼の事は頭の片隅では覚えていながらも、連絡を取ろうという気分にはなれなかった。もしかしたら、心の何処かでは、ずっと恐れていたのかもしれない。否、きっとそうだろう。
だからこそ、私は──。
封印していた。
そしてそのまま、この日までずっと、忘れようと努めていた。
だが、彼は今、何事も無かったかのように、私の目の前にいる。
それは有り得ない事だと、頭の何処かでそう思った。
「海が怖いんじゃなかったのか」
感情を成るべく押し殺して尋いた。
「そうだね。その話をしなきゃいけない」
あの人同じ申し訳なさそうな声で、彼は答えた。
ざざ。また波が鳴った。それなのに、彼は未だじっと海を見詰めている。
「あの日」
波の音が徐々に引く中で、彼の声は善く通った。
「私は、海から逃げた。あの時、私は生きていないも同然だった」
その言葉に、あの時のような恐れは無いようだ。
「君には──」
「怖いもの──」
それは、彼にとっての海のようなものだろうか。
私にとって、それは──。
「──怖いものはね、人を殺すんだ」
そう言いながら、彼は少し顔を上げた。
ひゅう。少し風が吹き、潮の香りが此方側に押し寄せてきた。少し辛い匂いだ。
「私は、
「それは、例えば幽霊とかか?」
尋くと、彼は少し笑ってそうだと答えた。
「海だけが怖い事に、私はひどく納得がいかなかった。何故海なのか、他にも
何をしたのかと問うと、彼は閉口して少し俯いた。
「──すまない」
「謝らないでくれよ、別に悪い事をした訳じゃないさ」
そうだなあ、と
「私は
無理だった。
「無理、とは」
「見つからなかった。東に奔げて西に走り、世界の隅まで探し回ったが──無かった。唯、海だけが
ざざ。また波が打ったが、今度は静かだった。
男の声も、ひどく静かで、沈痛だった。
「──君は、恐怖とは何か、分かるかい」
少しの静けさを破るように、彼は唐突にそう訊いてきた。
「きょうふ──こわいこわいの、恐怖か?」
「そうだ。
「それも──無理だったのか?」
「否、此方は解った」
解ったんだ──彼は独り言のように再度呟いた。
「私が思うに、恐怖とは知らない事だ」
「知らない事?」
「そうだ。喩えば、君の目の前に幽霊が出たとしよう」
「想像がつかないな」
「喩えだ。もし目の前に幽霊が出たら、君はどう思うだろうか」
「まあ──驚くだろうな。怖いなあとも思うだろう」
「でも、その幽霊が真実はただの草の影だとすると、今度はどう思う」
「なんだただの草かと思うだろう。今時幽霊なんかに怯える自分を責めるかもしれん」
「それだ」
「それ、とは」
「君は、幽霊の正体を知らないから幽霊を怖がるんだ。知ってしまえば、それはただの草葉の
「真実その通りなら、お前が海を怖がっていたのは──」
私が恐れている由は──。
「嗚呼。知らないからだった」
そう言いながら、彼は腕で額の辺りを拭った。気付けば、太陽が少し眩しくなっている。秋なのに、煩うほどに暑い。
「それに気づき、私は海を知ろうとした」
「それでお前は──」
克服したのか。そう続けようとする前に、彼は言葉を続けた。
「否、駄目だった」
海は
空に雲がかかったのか、すうと、海から煌めきが奪われた。
潮風も、幾分か冷たく吹き付けている。
「人には、否、何にも分からないものと言うのはあるんだよ」
彼はそう呟いた。
「何だ」
訊ねると、彼は右手の人差し指を上に突き出した。
「無限さ」
むげん。心の中で、その言葉を繰り返した。
「海は、無限だったんだよ」
「それは──」
「海は、何処までも続く。そして何処までも深い」
海は広いんだよ──。
ざざ。浜を喰うように、波が打ち寄せた。
「広いと雖も、それでも陸と海とは区切られているじゃ無いか」
「それはね」
水なんだよ。
ざざ。今度は波は引っ込んだ。砂は、濡れ放しだ。
「私が海だと思い、知ろうとしたものは──唯の水だった」
「ただの水、か」
「そうだ。海を知ろうとしても、取って仕舞えば水に成る。水は有限だ。それなのに──海は変わらずに無限だった」
「それでも──分からないな。海は限りあるだろうに」
そう言うと、彼はゆっくり視線を海に向けて、覗き込むように頭を動かした。
「海には、底が無いんだ」
「馬鹿を言うな。海底は有るだろう」
「嗚呼、有るさ。けれども無いんだよ」
分からないと言うと、だからだと返された。
「何がだ」
「海は、だから
そのか細い声も、波の音に掻き消されて仕舞った。
「有限という皮相に覆われているのに、有限の筈なのに──それでも、無限なんだ。有限の皮を被った、無限なんだよ」
彼の声は、波の音に負けない程に強くなっている。あの時と同じ声だ。
彼の背中は、雲に依ってまた一段と翳った。
ざざ、ざざ。波の音が、静寂を埋めるように鳴っている。
彼は、じっとしている。チラリと見えた彼の顔は──翳って善く見えなかった。
「それでも──そうだ、空も無限に広がっているじゃ無いか」
私は慌ててそう言った。自分でも声が震えている事が善く分かった。
「嗚呼、空はね」
無いんだよ。
「は?」
唐突な言葉に、つい、呆けた声が出た。それに彼は笑いながら謝った。
「すまない、唐突だったね」
「空が無いとは、どういう了見だ」
そう言うと、彼はゆっくりと顔を空の方に向けながら、宙に指さして答えた。
「今此処に有る空気、これは空かい」
「それは──違うだろう」
「それなら、マンションの屋上にある空気は、彼れは空かい」
「それも──違うだろうな」
「なら、もっと高い建物の上に乗る空気か、それとも山の上で吸うものなのか、雲の上が漸く空なのか──」
「何が──言いたい」
何処からが空なのかは誰にも分からないんだと彼は言った。
「空と言うものは、境目だ」
「さかいめ──」
「人の手の届かない所は、人には分からない。それこそ無限だ。だから、分かるように、宙に境界線を引いた」
「それこそが、空だと言いたいのか」
彼は答える代わりに、静かに頷いた。
「だが、それで何が分かると言うんだ」
「分からない事だよ」
ざざ。波が荒々しく鳴った。その音に、静かな声は掻き消されそうになっていた。
「私は、生きる事を、恐怖を失くす事だと了解している。だから、私は海への──無限への恐怖を失くそうとした。今迄の人類もそうだ。数字や言葉で知らないものを解き明かし、医学や薬学の発展で死への恐怖を遠ざけ、武器を造り多くの外敵を倒せるようにした。それでも──分からないものは、分からない。だがね──」
彼は真っ直ぐに、荒々しい海を見詰めながら続けた。
「恐怖に打ち克つ方法は、唯知るだけでは無かった」
「他に──有ると言うのか」
区切りさと、彼は答えた。
「境目とも言えるだろう」
「それは──さっきの空と同じか」
そう言うと、彼は肯うように頷いた。
「何処まで探っても分からないのであれば──切り捨てれば良いのさ。空という線を引いて、無限の天を有限にした様にね」
「それなら──海にも引けばいいじゃないか、それで──」
駄目だったのか。
彼は、少し俯いた。
「言っただろう。海は有限の皮を被りながら、その裡は無限だった。線を引こうとしても、それは表層を上滑りそして仕舞う。私には、海を有限にすることは──敵わなかったのだ」
淋しそうに言いながら、彼は砂を数粒掴み、そのまま海に投げ入れた。
轟と荒く鳴る海に、砂は飲み込まれた。
「境目は、何も我々が引くだけじゃない。言葉に依らずとも、既に境目は在るんだよ」
「それは──」
「君は」
死が怖いかい。
海の音が、瞬間消えた。否、実際に消えた訳では無いだろう。だが、風の吹く音も、波の寄せ干く音も、その一切が亡くなった。
「死──」
唐突であり強烈でもあるその言葉を、意識せぬままに繰り返した。
口に出すと、生々しさが際立つような気がした。
「怖いに──決まってるだろう」
それも──知らないからなのか。
「矢張り、それも死が何かを知らないからだろうね」
見透かすように、彼はそう言った。
「誰も、死んだ後のことを知ることは無い」
「それなら──死は」
死は、無限なのか。
音を失くした風が、潮の匂いを運んで来た。
いつの間にか、雲が空を覆い、寒々としてしまっている。
「答えてくれ」
私がそう言っても、彼は何も答えなかった。
「死は無限なのか?そうならば、死んで了えば──」
それからずっと、限りなく、死が続く。
彼もそうだったのか。
背中に、寒々とした空気が這入り込み、ぞわりと不快な感覚を掻き立てた。
「死はね」
境目だ。
「境目──なのか」
「生とは、一本の直線だ。果てしなく長い、先の見えない線──それこそ、生こそが無限なのかもしれない」
「だが──不死など有り得ないじゃないか」
有り得ないからこそ。
「そうだ。だから、死は生を断ち切る境目となる」
「それなら」
言葉を紡ぐ度に、鼓動が疾くなる。
私の言葉を止めるように、彼は手を振り翳した。
「死んだ後の、その先を知らないのは、境目の先を知ろうとしない──否、知る必要が無いからだ」
それでも。
生は続くのだと、彼は言った。
風が吹いた。潮の匂いが再び鼻腔を擽った。
それも、酷く強い。
「死は──終わりじゃないのか」
「嗚呼。死とはただの境目だ。その後にも生が続くのは道理じゃないか」
「なら──それなら、境目の先は、どうなる」
境目の先を見ないようにする為に、無限を区切って有限にするのであれば。
そして、死がその境なのであれば──。
彼は答えないまま、凝と海を見ている。
唯、変わらずに海を見ている。
彼は、何を知っているんだ。
「教えてくれ。お前は、お前はその先を知っているのか。ならそれは──」
私が言葉を言い終える前に──彼は、ゆっくりと立ち上がった。
少し傾いた陽に、その大きな影は揺らめき、私を覆った。
「認識の変化だ」
彼の言葉は、静かに、真っ直ぐに響いた。
「死とは、これは一種の通過点だ。人は死ねば、ただの肉塊になるだろう」
「それは──」
真実だろう。だが、それで済ませてしまって好いのだろうか。
その言葉で、彼と言う人間を締めてしまっても好いものなのだろうか。
私が逡巡する中でも、彼の足取りは甚く軽やかだった。
「死とは、物をまた別のものに変える転換点と言える。そして、その物を物たらしめるものこそが──認識だ。そして」
認識は有限だ。
そう言いながら、彼は一歩、海に歩みを進めた。
「君は、前を向きながら後ろを見る事が出来るかい」
「そんなこと──出来るわけが無いじゃないか」
「そうだろう。同じだ。認識には限りがあるんだよ」
また一歩、彼は音も無く進む。
私は動かないまま、少しづつ離れていく彼の背中を、凝と見詰めた。
「死ねば、生者という認識から、死体という認識に変わり、そして死体もまた、何かに喰われて己を流転させていく。だが、私の生の上にある限り、それらは全て私なんだ」
そう言いながら、少し進んだ先で、彼は歩みを止めた。打ち寄せる波が、彼の剥き出しの脚に掛かった。
止めなければならない。そう思い脚を動かそうとしたが、砂が絡まって上手く動かなかった。
「私は漸く悟ったんだ。如何やって生きていくべきかを」
彼の声は、善く通った。静かな水平線の向こうまで届く程だ。
嗚呼。彼は──何よりも、誰よりも生きている。私は、彼の真っ直ぐな背中が、少し羨ましくなった。
「言っただろう。生きるとは、恐怖に打ち克つ事だ。そして、死を過ぎっても尚、私の生の上に認識のある限り、私は私だ」
その言葉に、私は少し俯いた。
そうだ。彼はきっと、こうして──。
「私は終わらない、別の私になるだけだ」
厭に静かな水平線に、彼の高らかな声が響いた。
「私は、理解するために、海になろうとした。我々が物を己が物として取り込むように。雲がまた他の雲を取り込むように。波が波を喰うように──私も、そのようにして、身を投じた」
彼は、ゆっくりとなぞる様に、海に一歩近づいた。
足音は聴こえない。代わりに、再び、波の音が蘇った。
「私は漸く理解し、恐れるものが無くなったのだ」
彼の足が水に浸かる。足の鳴らす水音は、轟となる波の音に掻き消されてしまっていた。
「私は限りある存在だ。海となった私も、私となった海も、それには違わない」
男の身体が、今度は腰の辺りまで水に浸かった。
「彼にとって、
肩まで入った男は、振り返りもせずに、私にそう問うた。
「それは──」
私の言葉は、波にかき消され、自分にさえ聞こえなかった。
それでも彼は満足そうに頷いて、またゆっくりと進み、頭もすっかり、海の中に隠れてしまった。
彼の居た場所は、直ぐに波に攫われて、その足跡を消し去った。否、初めからそんな物は無かったのかもしれない。
ざくざくと音を立てながら、私は砂浜を歩き、海に近づいた。
覗き込もうとしても、底は見えない。
もう少し進んで見ても、まだ見えない。
もっと、もっと──際限なく先に進もうとしたが、きっと──そうしても、底は見えないのだろう。
そんな海が──底の見えない様相が、少し恐ろしくなり。
私は、振り返りもせずにそっと離れた。
波は、変わらずに打ち続けていた。