ざざ、という音が、壁越しながらも確かに耳に這入ってくる。未だ雨が降っているのだろうな、などと思いながら、私は三度濡れた髪を拭った。
真暗闇の所為か、雨音が一段と強く聞こえてくる。実際の所はどうなのだろうかと気になりもするが、一寸の隙間も無く外と隔絶されているものだから、どちらにせよ確認すらままならない。だから、直ぐに考えるのを止めた。
「災難でしたねえ」
暗闇の中から、嗄れた声が聞こえた。
「お天道様の機嫌もさほど悪くなさそうだったのでしょう」
「ええ、まあ」
その声に、私は曖昧に答えた。
実の所、この声の主が誰なのか、どのような人かさえ私には分かっていない。多分老人なのだろうが、全くの暗闇の所為で、その姿は疎か顔さえ一切見えないのだ。分かっているのは、雨に濡れた私をこの家に引き揚げ、着替えを与えてくれたということである。
「改めて、突然の訪問なのに態々有難う御座います」
「いえいえ、寧ろ丁度良かったですよ。私も一人は淋しかったもので」
老人は笑うような声色で答えた。私は再び低頭しながら感謝を述べ、ぐるりと辺りを見回した。
矢張り、一分の隙間も無くぴっちりと閉ざされているらしく、外から光が漏れ入る気配は無かった。
これまで生きてきて、真実の暗闇を見たことは無かったのかもしれない――この家に這入って初めに、この暗さに圧倒された。記憶の中の暗闇というものはどれも薄ぼんやりとしていて、全くの暗さというものとは程遠いものだと、最早己の輪郭さえ掴めない真黒の中でそう振り返った。
「それで」
如何してこんな場所においでで、と老人は静かに問うてきた。
その問いに、私は少し口を噤んだ。
実の所、理由などあったようなものではないのだ。ただ、ずっと家に籠っていたものだから、酷く鬱鬱としていた。三文小説しか書けないのだから、稼ぎなどあったようなものでもない。家内はそういった私の事情も分かってくれているようだが、私は妻に顔向け出来るような気分では無かった。だから、取材という名目で、家を抜け出してきたのだ。
だが不運にも、電車に乗って知らぬ駅に降り、彷徨しているうちに、にわか雨にあって仕舞った。
どうしようか悩んでいるうちに、この家を見つけ、転がり込むようにして這入ったのだ。迷惑なんてものじゃない。
それでも、この家の主は受け入れてくれたのだけど。
そうした事情を皆詳らかに話すのも気が引けて、どう言おうか悩んでいる内に、老人は嗚呼、と得心したような調子で言った。
「いえねえ、喋りづらければ別に良いのですよ。そういう事情は、誰しもあるものでしょうし」
何か勘違いしているような言葉だが、話さなくて良いのならそれで良いかと、私は黙ったままにしておいた。
然しそうすると今度は手持ち無沙汰になって、呆と前を見詰めた。
見詰めたと言っても、完全に暗がりの中だから何も見えない。もし私の目に何かが映っても、それは私の脳が作り出した虚像に過ぎないだろう。
その実、この声の主も老人では無いのかもしれない。尤も、仮にそうだったとして、何かある訳でもないが。
そう考えているうちに、この空間には、音しか存在していないように思えてきた。雨の音も、実際はこの闇の中で鳴っているものなのかもしれない――そういう風にさえ錯覚してしまうのだ。
「ここはかなり暗いですね」
如何してですか、と私は気を紛らわせるために訊いた。
ふむ、と老人は少し間を置いて言った。
「今の私は、どう見えますかな」
その問いは些か唐突にも思われたが、この現実離れした状況に酔ってしまったのか、私は平然と答えた。
「何も――見えません」
「そうですか」
何も見えませぬか――老人の声は、どこか嬉しそうだった。
ただ私は、屹と顔を隠す理由でもあるのだろうな、等と思って、それ以上は聞かなかった。
それからまた暫くは、無言が続いた。
こうして暗闇の中に居ると、幼い頃を思い出す。
小さい頃は、それはもう暗いのが怖かったのだ。寝る時さえ電気を点けたがっていた記憶がある。あれは絵本のせいだったのだろうか、それか暗闇というものが元々怖かったのだろうか。
ただ、長じてからは、その感覚が真実怖いと言うのとは別なものであると気づいた。厭だなあという、嫌悪に似た――丁度夜道に虫を見た時のような、そういった類のものだったのだ。
暗いとは、何も見えないのだから、正に孤独だろう。
そして孤独というものは酷くぬめりとしていて、気味が悪く感じて仕舞うのだ。
だから、誰かが居るという感覚は、暗闇から孤独を吸い取っていき、それが私にとって迚も善かった。
こうなると、暗闇というのも、案外良いもののように思えてくる。
心地良さにぼんやりとしていると、矢張り雨の音が聞こえてくる。先程よりかは少しマシになっただろうか。それでも、まだ帰れそうにはない。
「まだ止みませぬなあ」
声は小さくそう呟いた。
私としてはまだ帰れなくても良いように思えていたのだが、態々そう言うのも無礼な気がして、そうですねえ、とだけ言った。
「この様子だと一晩では止まないようですな」
老人はそう言った。
私はそれを聞いて、急に申し訳ないという気持ちが湧き上がってきた。
少しの雨宿りのつもりが、このままずるずるといけば勝手に寝泊まりすることになってしまう。ただでさえ身勝手な身なのに、更に無礼を重ねてしまうのは、迚も気が引けた。
「泊まるにしても、幾ら出せば良いでしょうか」
私がそう聞くと、老人は不思議そうに答えた。
「出すとは――何をですか」
「お金ですよ」
私がそう言うと、ふうむ、と老人は何かを思案するような間を置いてから答えた。
「要りませぬ」
「要らないの――ですか」
拍子抜けしたような声で私が言うと、ええ、と老人は短く答えた。
「何貰ってしまうのも申し訳ないですしねえ」
「ですが――」
申し訳ないと言うのは寧ろ自分の方なのだ。
「それでも、何か払わせてください。私の方こそ申し訳ないのです」
私のその言葉に、老人は困ったような声で答えた。
「金にはそこまで興味が湧かぬものでして」
そういうものなのだろうか。私が不思議に思いながら老人――が居るであろう空間を見詰めていると、嗚呼、とそこから声が漏れだした。
「では、こうしましょう」
貴方には、私の話を聞いてもらいましょう――老人は矢庭にそう言った。
「話――ですか」
「ええ、私の昔話です」
「如何してそのような――」
「これは」
私の為なのですよ――老人は呟くようにそう言った。
その言葉は、先程までの調子からは一弾落としたような、真実暗闇から発せられたような重みが含まれていた。
私がその様に言葉を数瞬失っていると、老人はそれを見透かすように続けた。
「気張らなくても良いのですよ。聞いて下されば良いのです」
「本当にそれだけで良いのですか」
「大丈夫ですよ。寧ろ金など渡される方が困ってしまいます」
そうですか、とそのまま受け流すのも難しく思えた。とは言え、他に何が出来る訳でも無い。寧ろ、話を聞いてみれば小説のアイディアも浮かぶんじゃないか――そんな邪な考えも頭をもたげて、分かりました、と私は答えた。
「聞きましょう」
「有難う御座います」
それでは――老人はそう言って、少し間を置いた。雨の音も、その瞬間だけ掻き消されたように、すん、と無音になった。
「二度聞きますが、私の姿はどう見えますかな」
そういう老人の姿は、矢張り闇に覆い隠されて、何も見えない。声だけがそこにある。
私がそう言うと、有難うございます、と老人は矢張り少し明るい声色で答えた。
「これは、今からですと三十、いや四十年も前のことになりましょうかなあ。
その時の私と言えば、まあ何もしておらんかったのですよ」
「何も、ですか」
「ええ、無職というやつで。それでも不思議と焦りとかは無かったのですがねえ」
まるで今の私みたいで、少し意外に感じた。
「それである日、お日様の出てる時分から、宛もなくぶらぶらとしとった訳ですよ。そこでまあ」
見たんですよ、老人は小さくそう言った。
「見たとは――何をですか。真逆幽霊とか」
「いえいえ、もしお化けだったら、真っ昼間には出ないでしょう」
「では、何を」
「女ですよ」
老人はそう言って、少し間を空けた。そこを埋めるように、雨音は少し強さを増した。
「女――ですか、それは知り合いとか」
「いえいえ、全く見知らぬ人ですよ。ですがまあ」
美しかったんですなあ。
老人は、今度は懐かしむように言った。惚けたような声色だ。
老人からそう言った色恋の話が出るとは思わなかったから、私は少し度肝を抜かれたような心地がした。
「そんなに良い顔だったのですか」
「顔ですか。顔はまあ、知りませんがねえ」
「知らない――ですか」
そう訊くと、ええ知りませんともと老人は答えた。
「よく分かりません、では何故美しいと」
「顔以外にも、美しさを決めるものは、まあ在るでしょうな。所作だとか、佇まいだとか、雰囲気の良さだとか――ですが、何故と聞かれると、何故で御座いましょうかねえ」
「分からない――のですか」
「感性なんてものは、直ぐに変わってしまいましょう。ただ、美しかったと、そういうことだけ憶えているのです」
美しかった、という部分を一段強めて言ったように聞こえたが、そういったことを深く考える前に、老人は続けた。
「それでまあ、真っ白だったからですかねえ、人混みの中でも特別目立っておりまして。それでいてそんなに美しいのだから、初めは誰か待っているのかと思っていたのですよ」
「それで、貴方はどうしたのですか」
「ずっと見ていました」
「ずっと――ですか」
「ええ、見蕩れておったんですよ。それでも、待ち合わせが済んで何処かに行ってしまえば、私もそこで諦めようと思っていたのですよ」
思っていたんですがねえ、と呟くように繰り返し、直ぐに老人は咳き込んだ。
「ですがまあ、来なかった」
「その
「ええ。いや、本当は待ち人なんて居なかったのかもしれませんがねえ。私には事情なんて分からんかったものですから。ただ、暫く待っても来なかったんですよ」
「それで――貴方はどうしたのですか。真逆口説きに行ったとか」
「口説く勇気なんてありませんでしたよ。その時はまあ、帰ろうかと思っていたんですよ。暇人とはいえ、ずっと同じ場所に留まるのも変でしょう、だからそろそろ引き上げようかと思った所で」
此方に微笑みかけてきたのですなあ、老人はまた懐かしむように言った。
「その
「ええ」
「見知らぬ人――なんですよね」
「その通りで」
だとすると、考えづらい話だ。見知らぬ男に微笑みかける
そう言う私の考えが老人にも伝わったのか、嗄れた声で続けた。
「いえね、私の勘違いだったと思いますよ。真逆、誰とも知らぬ人にわざわざそんな訴え掛けをする人もおらんでしょう。ですがまあ、若気の至りとでも申しましょうか、私に何か伝えていると思ってしまったのですよ。それで呆としていると、その
そこで留まっておけばねえ、と老人は言った。
「と言うことは、着いて行った――のですか」
「ええ、その通りで」
もし、美しい女がいて、その人が自分を誘うようにして何処かに消えたら、私はどうするだろうか。
多分着いていって仕舞うのだろうな、直ぐにそう思い、何も言わずに続きを促した。
「あの
逃げ帰って仕舞いました――老人は静かにそう言った。
「逃げ帰った――のですか、それは何故に」
「こわかったのですよ」
「怖かったのですか、それは例えば、顔が恐ろしかったとか、そういう訳で」
「いえいえ、顔は未だに知りませんよ。見れなかった――のですから」
「では、如何して」
私がそう訊くと、老人は僅かに声を震わせながら答えた。
「手が」
左手が亡かったのですよ。
その言葉は今にも消え入りそうで、替りにざあざあと雨の音が割って入ってきた。
「左手が――」
「ええ。それが迚も――こわかったので御座います」
「そうなの――ですか」
老人の震えた声に、私はそう答えることしか出来なかった。
それ程迄に熱心に追って、左手が無かっただけで諦めて仕舞うものなのだろうか。
悲痛にも聞こえる声にも拘わらず、老人の顔は矢張り見えない。ただ、外の雨音がその顔を形作っているように思えた。
「その日は、夢を見ました。あの
その夢でも、その
左手が亡い。
「それは――屹と恐ろしかったのでしょう」
私がそう言うと、いいえ、と老人は否定した。
「夢の中のその
「如何いうことですか」
老人は、私の問いに答えなかった。
私は再び、今度は一層声を強くして聞いたつもりだったが、雨の音に遮られたのか、声は闇に溶けていくように、直ぐに熄え入って了った。
老人の姿もまた、闇の中の溶け入っている。屹と眼前に居る筈の老人が、その実迚も遠くにいるように思えてきた。
数瞬、静寂が続いた後、老人はまた静かに語り出した。
「それから数ヶ月のことです。あの夢を見てから、暫くは矢張りあの
少し寂しかったですなあ、と老人は付け加えるようにそう呟いた。
「それでも人間勝手なもので、見ない日が続くと何時かは忘れて仕舞うのですよ」
「それは――」
倖いで、そう言いかけて直ぐに言葉を飲み込んだ。
一目惚れとは言え、夢にまで出る程の人が現れないのだから、倖いな筈が無い。それでも、その瞬間だけは、――そう思いたかったからかもしれないが――真実にそのことが倖いに思えた。
「それで、何ヶ月かするとすっかり忘れておりまして。そうしてまた外に出ているとですね」
老人はそこで言葉を切った。
「また居た――のですか」
「左様で」
また居たのですなあ。
そう言う老人の声は、今度は少し寂しそうだった。
矢張り左手が無かったのか、そう聞くと、ふうむと老人は歯切れ悪く答えた。
「その時は――分からんかったです」
「何故ですか」
「見えんかったのですよ。こう、袖に隠れるようにしてねえ。人混みの中に居たし、遠巻きだったので余計にですよ。然し今思えば、あの時のは幻だったのだと、そう思いたいだけたったのですかねえ。それでまた、此方に微笑みかけて来る訳ですよ」
「それでまた――」
私の言葉を遮るように、老人は続けた。
「ええ、着いていきました」
まるで虫ですなあ、そう言う老人の声は酷く落ち着いていた。
「それでまあ、また追い付きまして。今度は話しかけようと思ったんですよ。ですが、私の言葉を遮るように、その
「それは、何と――」
「さて」
蝉が囂しい時分でしたから。
大雨の音の中、老人の声は弱々しく聞こえた。
「何を言ったのかは覚えておりません。いえ、端から分からなかったろうと思いますが」
その
「そっと、左の袖を捲って見せたのですよ」
外が一瞬、ざざと大きく鳴った。
左手は――顔の見えぬ闇の中から、嗄れた声は言った。
「有りませんでした」
「それで、貴方はまた――」
「ええ」
逃げました。
老人の声は、矢張り酷く弱々しかった。
「また、夢を見ました。あの
「それで、また探したのですか」
「ふむ、確かに探しましたが、矢張り見つけられんかった。ですがね」
居るんですよ。
老人の声は、弱く、今度は大きく揺らいでいる。
「居るとは――」
「あの
どういう事ですかと、そう言い掛ける前に、老人は直ぐに続けた。
「こう、左手が隠れているのを見ますとね。こわくなるんですよ。亡いんじゃないか、と」
憑かれて仕舞ったのですよ、老人は自嘲するように言った。
「あの
また忘れました。
「忘れたのですか」
「今度は時間が掛かりましたがね。そして」
居た。
その言葉は終に外の轟音に掻き消されたが、何を言ったのかは直ぐに分かった。
「私を忘れるなと、そう言いたげに、遠いながらも私の前に現れたのですよ」
「また、追い掛けたのですか」
「ええ、然しその時は、それ迄と違いまして」
そこで一瞬、妙に静かになった。
「どう――違ったので」
私が訊くと、老人は思い出すように――或いは噛み締めるように、少し間を置いて答えた。
「期待、とでも申しましょうか。私は、左手が亡いことを望みました」
ざあざあと、雨の音は相変わらず強かったが、老人の声は迚もはっきりと聞こえた。
何故、そう問う前に老人は続けた。
「私はその
「恐ろしくは――なかったのですか」
私の言葉に、老人はええ、と肯った。
「こわくて、直ぐにでも逃げ出したかったです。ですが――何処か、安心できるような気がしたのです」
老人の声に比例するように、雨はまた強くなった。
私の心も、それに共鳴するように厭に騒ついた。
「夢の中でも、私は空いた左手を見ていました。それ以外は見てはいけないような気さえしていたのです。そして今度は、一度じゃ有りませんでした。ずっと、その
ふう、と老人はそこで一息つくように話を止めた。
今の老人は、どういう顔をしているのだろうか。最早、想像さえすることが出来ない。
闇の中で、私の中に在った老人の虚像が、揺れ動き、どんどん崩れていっている。そう感じた。
端から無いものだったのだから、それに喪失感を覚えるのも門が違うというものだろう。それだのに、その虚像が崩れ去ったせいで、現実の老人もまた、その姿が真実に消えて終いそうに思えて仕舞った。
話し疲れたのか、暫くは静寂が続いていた。その事がまた、焦燥を駆り立てたのかもしれない。
「今も、その夢は見るのですか」
静寂を止めるように、私はそう訊いた。
老人は少し咳払いをして答えた。
「見ませんなあ。と言うよりも、その必要が無くなったのですよ」
「如何いうことですか」
「あの
夢を見るのが怖くなりましてねえ、老人は寂しそうに言った。
「何故ですか」
「見て――仕舞ったのですよ」
老人は、そう答えて黙った。
「何をですか」
「その
老人は矢張り寂しそうに、そしてまた、悔いるように言った。
「朽ちていたのですよ」
「何が――」
「その
老いていたのですよ。老人はそう言った。雨の音が急に弱々しくなったように聞こえた。
「少しだけなら、まだ良かったのかもしれませんがねえ。見る度見る度、どんどんと老いて仕舞う。しかも目が離せなんだ。それを見るのが、苦しかったのですよ」
「それは――」
怖い、だろう。美しいと思っていたものがどんどん壊れていく、その道程を見るのは、少なくとも快いものでは無いはずだ。
「そうして暫くは寝つきが悪くなりました。そして、眠気のままに、また外を歩いていますとね」
「女が居たのですか」
「ええ、居ましたとも。そして、その時に、またその
罅割れていた。
私は一瞬悲鳴を上げかけた。想像することすら、迚も恐ろしいように思えた。
「私は惑いました。私の中の、その
女は、何時の間にか消えたのだと言う。
「いずれ私もああなって終う、その姿を見せつけられているようで。あんなに美しいものでさえ、霧のようにさあっと消えていって終うのだと、それが酷くこわかったので」
ですがね、老人はそう続けた。
「その日、またあの夢を見たのです」
然し、老人は短く切って、また続けた。
「その時、私はまた、何時かにしていたように、左手だけを見たのです。それで、漸く安心したので御座います」
「何故それで」
「その左手は」
朽ちても、老いてもなかった。
私の言葉を遮って、老人はそう言った。
「そして起きた後、私は」
ざざ、ざざ。雨の音が迚も近くに聞こえ始めた。
「左手を切り落としました」
老人の声は、今迄で一番力強かった。
「これで私も、朽ちることも餒ることも、老いることさえなくなったのだと。そう言った安心と同時に、不安も襲ってきました」
「それはどうして――」
声の震えを抑えながら、私はそう訊いた。
「私の身体は未だ残っておりました。左手が老いなくとも右手が、脚が、胴が、そして頭が」
「そんなもの、キリが」
キリがないでは有りませんかッ。
私はそこで初めて声を荒らげた。
眼前の老人は、どこ迄残っているのだろうか。私は今、誰と話している――そんな思いが頭をもたげて、ずっと離れなかった。
「ですから」
私は此処に居るのです。
私の心中とは裏腹に、老人は静かに、落ち着き払った声でそう言った。
「こんな暗闇に居ますとですね、溶けていくのですよ」
「何がですか」
「私が、です」
嗄れた声が、暗闇の中から響いた。
「暗闇の中に浸っていると、輪郭が消えていきます。その次には感覚が、そして次第に肉体までもが――溶けていくのです」
闇が、私の耳元でそっと囁き掛けてきた。
「今の私に、右手も脚も胴も頭も、そして」
左手も有りません。
ひっ、と私は短く悲鳴を上げて後退ろうとしたが、上手く体が動かない。
暗闇は構わずに続けた。
「然し、在ると言うことは、私からそう思うのと、他人からそう思われる、その二つがありましょう。
扨、訊きましょう」
貴方に、私の姿はどう見えますか。
私の目には、一切の黒しか無い。
瞬間、私は絶叫した。見えると嘘をついたのか、何も無いと恐れたのか、或いは他の言葉を言ったのか。
いずれも、全て闇に吸い込まれて、消えて終った。
闇はそれを最後に、一切沈黙した。
私は尚も言葉を出そうとしたが、耳に入る雨の音が厭に喧しく、漸く上げた唸り声も、雨に掻き消された。
私の心の奥で、ぬめりとした感覚がした。
心臓を冷たいもので掴まれたように、私の身体は凍りついたまま動かなかった。ただ、何の機能も果たさない眼だけが、ぎょろりと動いている。
雨はまだ降り止まない。まだ、帰れそうにも無かった。