もう一つの波乱
新宿の夜を切り裂くサイレンの音が、伊隅みちるの鼓膜を震わせた。国会議事堂を後にした黒塗りの車列は、警視庁警備部警護課第二係の彼女が守る、大臣・榊の命を乗せて新宿シンフォニーホールを目指していた。車内の空気は重く、みちるの視線は窓の外を流れゆく都心の光に注がれつつも、常に周囲の異変を捉える鋭さを失わない。
「風間透子さんの演奏会、楽しみにしてたのになぁ……」
榊が呟く。その声に、みちるは小さく頷きながらも、インカムに意識を集中させた。任務に私情は挟まない。それが彼女の信条だ。
だが、その刹那――インカムからけたたましい報告が飛び込んできた。
《緊急連絡! 國鉄鉄道公安機動隊隊長・五能瞳によるクーデター発生! 都内全域に警戒態勢発令!》
みちるの瞳が一瞬で鋭さを増す。クーデター。それは単なる暴動ではない。国家の根幹を揺るがす大規模テロの可能性すらある。彼女の脳裏に、訓練で叩き込まれた最悪のシナリオが浮かんだ。
「閣下、状況が変わりました。コンサートは中止し、私邸へ戻ることをお勧めします」
みちるの声は冷静だが、内に秘めた緊迫感が滲む。
榊は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに頷いた。
「分かった。君に任せるよ」
運転手に指示を飛ばし、車列は進路を変更。だが、その時――前方で赤いテールランプが無数に連なり、まるで動かぬ鉄の壁のように立ち塞がった。渋滞だ。それも尋常ではない規模で。
「くそっ、なんでこんな時に!」
運転手が舌打ちする。みちるは素早く無線で状況を確認した。
《新宿方面、全車両に対する一斉検問実施中。警視庁捜査一課SIT、白井里美班長の指示によるもの。即時解除の見込みなし》
みちるの眉がピクリと動く。白井里美。SITの鬼才と呼ばれる女だ。彼女が動くなら、事態は予想以上に深刻かもしれない。だが、今のみちるにとって問題はただ一つ――この渋滞が、大臣の命を危険に晒していることだ。
「閣下、しばらくここで待機を。迂回路を模索します」
みちるは冷静に告げ、助手席に飛び乗ると地図アプリを叩く。だが、画面に映る都内の道路は、どこも真っ赤に染まっていた。検問の影響は想像以上に広く、まるで東京全体が息を止めているかのようだ。
車外では、苛立つクラクションと遠くのサイレンが不協和音を奏でる。みちるの心臓は早鐘を打ちながらも、頭は冷え切っていた。このまま足止めを食らえば、テロリストの標的になる可能性すらある。クーデターの影は、すぐそこまで迫っているかもしれない。
「みちる君」
榊の声が静かに響いた。
「君なら、きっと大丈夫だろ?」
その言葉に、みちるは一瞬だけ目を細めた。信頼。それは彼女が背負う重い楯だ。
「必ずお守りします。どんなことがあっても」
彼女は無線を握り、部下に指示を飛ばす。
「迂回路が無理なら、ルートを切り開く。警護課第二係、全員配置につけ!」
夜の新宿に、みちるの決意が響く。クーデターの嵐が吹き荒れる中、彼女の戦いはまだ始まったばかりだった。
(了)