闇を駆ける亡魂
2015年――――ドイツ、夜のロストック港。冷たい海風が倉庫街を抜け、鉄骨の軋む音が響く。薄暗い路地に、血の匂いと硝煙が漂っていた。神長香子は息を殺し、影に身を潜める。彼女の黒いツインテールが風に揺れ、眼鏡の奥の瞳は鋭く闇を切り裂く。手にはワルサーPPK、指は引き金に触れたまま。彼女の背後では、倒れたクローバーホームの刺客たちの遺体が冷たく横たわる。だが、足音が再び近づいてくる。まだ終わらない。追っ手は執拗だった。
「まだ来るのか…」
香子は呟き、唇に皮肉な笑みを浮かべる。かつて所属した暗殺者養成機関は、裏切り者を決して許さない。黒組での失敗、明星学園からの脱落、そして組織からの逃亡。全てが彼女をこの港の闇へと追いやった。だが、香子に後悔はない。彼女の望みはただ一つ――「暗殺者を辞めること」。そのために、どんな敵でも排除する覚悟があった。
新たな刺客が路地に現れる。黒いシスター服の女性たち、ナイフと銃で武装し、静かに包囲網を狭めてくる。香子は一瞬で状況を把握する。逃げ場は少ない。だが、彼女の頭脳は冷静だった。明星学園時代、規律を重んじ、黒組の委員長として仲間をまとめ上げたあの冷静さが、今も彼女を支えている。
「―――さあ、かかってこい」
香子は囁くように言い、ワルサーPPKを構える。だが、その瞬間――轟音と共に閃光が闇を切り裂いた。銃声、叫び声、そして倒れる刺客たち。香子が引き金を引くより早く、敵は次々と地に伏した。驚愕に目を見開く香子。彼女の視線の先には、黒い戦闘服に身を包んだ集団が現れる。ドイツの特殊部隊「GSG-9」。彼女らの動きは機械のように正確で、無駄がない。
「何…!?」
香子が声を上げる間もなく、GSG-9の隊員たちはクローバーホームの刺客を一掃していく。指揮を執るのは、背の高い女性――ニコラ・ミヒャルケ。彼女の無線から流れる声は、冷徹かつ的確だ。
「目標を排除。エリアを確保せよ」
だが、香子の視線は別の人物に引き寄せられる。倉庫の屋上、月明かりに照らされた女性。黒いコートを翻し、静かに戦場を見下ろす彼女は、ドイツ連邦情報局のベアトリクス・ブレーメだった。彼女の眼差しは、まるで香子を値踏みするように鋭い。
「神長香子、ね」
ベアトリクスが静かに呟く。彼女の声は、戦場の喧騒を越えて香子の耳に届いた。GSG-9の隊員たちが刺客の残党を片付ける中、ベアトリクスは香子に近づく。
「あなた、クローバーホームに追われているようね。でも、私の標的はあなたじゃない。あの腐った組織よ」
香子は一瞬、言葉を失う。敵ではない? 彼女の脳裏に、かつての記憶が蘇る。明星学園、黒組の仲間たち。信頼していた涼、慕っていた先輩。そして、彼女のミスで死なせてしまったあの女性の笑顔。心の傷が疼く。だが、ベアトリクスの言葉がその痛みを引き戻す。
「あなたには才能がある。こんな闇の中で終わるべき人間じゃないわ」
ベアトリクスは続ける。
「日本に帰りなさい。そして、警察のトップになりなさい。あなたならできる」
香子は目を細める。警察? 暗殺者として生きてきた彼女にとって、それはあまりに遠い世界だ。だが、ベアトリクスの眼差しには嘘がない。彼女は香子を信じている。いや、香子に新たな道を見せようとしているのだ。
戦場は静寂に包まれる。クローバーホームの刺客は壊滅し、GSG-9の隊員たちが撤収を始める。香子はワルサーPPKを下ろし、ベアトリクスを見つめる。
「…なぜ、私を?」
香子の声は小さく、しかし確かな決意を帯びていた。ベアトリクスは微笑む。
「あなたが闇を抜け出したかったからよ。それに、私の勘は外れない」
夜が深まる中、香子は港を後にする。背後には、燃える倉庫の残骸。そして、彼女の心には新たな火種が宿っていた。警視庁――それは、彼女がかつて想像もしなかった未来への第一歩だった。
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