警視庁の訓練場に、汗と鉄の匂いが漂う。朝の陽光がコンクリートの地面に反射し、鋭い光を放つ。神長香子は黒い訓練服に身を包み、眼鏡の奥で静かに周囲を見据える。彼女の前には、キャリア組の同期たち。佐藤健太郎を始めとするエリートたちが、模擬戦闘の準備に余念がない。だが、香子の視線は彼らを越え、訓練場の隅に立つ男に注がれていた。黒いスーツ、冷ややかな眼差し――クローバーホームの刺客を思わせるその男は、香子の心に不穏な波を立てる。
「まさか…ここまで?」
香子の呟きは、訓練の喧騒にかき消される。警視庁に入庁して数日、彼女はまだこの新たな世界に馴染めずにいた。暗殺者としての過去を隠し、ベアトリクスの言葉を信じて踏み出した一歩。だが、クローバーホームの亡魂は、彼女を決して解放しないらしい。
「神長! 準備はいいか?」
声をかけてきたのは、教官の山本剛。警備部のベテランで、香子の経歴に特別な関心を示す一人だ。模擬戦闘は、キャリア組の能力を測る最初の試練。香子は小さく頷き、ゴム製の訓練用ナイフを握る。ワルサーPPKの感触はないが、彼女の手は自然と暗殺者の動きをなぞる。
対戦相手は佐藤だ。彼は軽い笑みを浮かべ、木製の模擬銃を構える。
「手加減しないぜ、神長。留学組の実力、見せてくれよ!」
その言葉に、香子は皮肉な笑みを返す。
「手加減するのはそっちでいいな?」
彼女の声は穏やかだが、瞳には明星学園の黒組で培った鋭さが宿る。
試合開始の笛が鳴る。佐藤が素早く動くが、香子の反応はそれよりも速い。彼女は一瞬で間合いを詰め、佐藤の銃を持つ手をひねり上げる。ゴムナイフが彼の喉元に触れる寸前、山本の声が響く。
「そこまで! 神長、勝利!」
同期たちの驚愕の視線が香子に集まる。佐藤は苦笑いしながら手を振る。
「参ったな…何だよ、その動き。ほんとスパイみたいだな」
香子は笑顔で誤魔化すが、心臓は激しく鼓動していた。彼女の動きは、訓練された暗殺者のもの。警視庁の場で、過去の自分が顔を覗かせることに、彼女は密かな恐怖を覚える。
だが、試練はそれで終わらない。訓練後、山本が香子を呼び止める。
「神長、特別任務の話だ。君に期待している」
彼の言葉に、香子は一瞬だけ警戒心を強める。特別任務? 彼女の脳裏に、訓練場のあの男の顔が浮かぶ。
その夜、香子は寮の自室で資料を広げる。山本から渡されたファイルには、東京で暗躍する犯罪組織の情報が記されていた。麻薬密売、武器取引、そして――暗殺請負。組織の名前は明かされていないが、香子には確信があった。
「クローバーホーム…まだ生きてる」
彼女の指は無意識に、かつて涼に託した首輪型爆弾のことを思い出し、首に触れる。
翌日、香子は警備部の作戦会議に出席する。そこには、彼女を試すような視線がいくつもあった。キャリア組の同期、先輩警察官、そして――あの訓練場の男。彼は会議のオブザーバーとして現れ、名乗った。
「高橋悠真、警視庁特務課」
だが、香子には分かる。彼の動き、視線の冷たさは、クローバーホームの刺客そのものだ。
会議では、犯罪組織の摘発作戦が議論される。香子は黙って耳を傾けるが、頭の中では別の計算が始まる。「高橋がクローバーホームのスパイなら、私を始末する気かもしれない」。彼女は深呼吸し、眼鏡を押し上げる。暗殺者としての本能が、静かに目を覚ます。
作戦当日、香子は単独で潜入任務を命じられる。舞台は東京湾の倉庫街――ロストック港を思わせる薄暗い場所だ。彼女の装備は、拳銃とナイフ。警視庁の制式装備だが、香子の手にはどこか懐かしい感触がある。潜入中、彼女は高橋の気配を感じる。彼は近くにいる。敵か、味方か――判断する時間はない。
倉庫の奥で、香子は犯罪組織の取引現場に辿り着く。だが、そこには罠が待っていた。銃声が響き、香子は咄嗟に身を翻す。襲撃者は、クローバーホームの刺客たち。彼女の過去が、文字通り彼女を殺しに来たのだ。
「神長香子、逃げても無駄だ」
刺客の声に、香子は笑う。
「逃げる気なんてない――――昔の仲間だろうが容赦はしない」
彼女はナイフを握り、闇に飛び込む。戦闘は一瞬で始まり、香子の動きは暗殺者そのもの。だが、背後に新たな影――高橋だ。彼は銃を構え、香子に狙いを定める。
「お前がクローバーホームの裏切り者か」
その言葉に、香子は一瞬だけ凍りつく。
次の瞬間、銃声が響く。だが、倒れたのは高橋ではなかった。刺客の一人が地に伏し、高橋の銃口が煙を上げる。
「…私は味方だ、神長」
彼の声に、香子は目を細める。信じていいのか? だが、戦場に迷いは許されない。彼女は高橋と背中合わせで戦うことを選び、刺客たちを次々と倒していく。
戦闘が終わり、朝日が倉庫に差し込む。香子は息を整え、高橋を見つめる。
「…お前は、ほんとに警視庁の人間か?」。
彼は小さく笑う。
「君と同じさ。過去を清算するためにここにいる」
その言葉に、香子は初めて彼に仲間のようなものを感じる。
だが、戦いはまだ終わらない。クローバーホームの影は深く、東京の闇に根を張っている。香子は拳銃を握り直し、決意を新たにする。
「警視庁で、過去を終わらせる。―――ベアトリクス、私、やってみるよ」
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