-1- メリニでのある日の朝
ようやく、自分で髪を整える方法がなんとか再び身についてきた頃だった。
寝ぐせでぼさぼさになっている髪を簡単に撫でつけたあと、片手で無造作に束ね、頭の後ろのほうでひとまとめに草の紐――――元はドライアドの蔦らしい――――で括って、それで終わり。
髪は魔術師の命・・・なのだがその扱いは割と雑で、束ねた髪型は無秩序に拡散し、馬の尾というよりも藁帚みたいになってしまっている。
少し前はもっと気を遣って丁寧に手入れしていたのだが、とある事情でなんだか面倒臭くなってしまってから、誰にも頼めない時はこうしているのだった。
マルシルはそうした身支度もそこそこに部屋を出て、今日予定していた用事のために城下へと足を運ぶ。
ここはメリニ王国。
千年と少し前に興ったり、千年前に地下に沈んで事実上滅んだり、そしてまた少し前に再び地上へ浮かんできて復興したりした、紆余曲折で波乱万丈な歴史を持つ国である。
そしてそこでマルシルは、相変わらず、顧問魔術師としての用務をこなしながら毎日を過ごしていた。
「マルシルさん。おはようございます」
「おはよう、マルシル」
「おはよう」
メリニの城下町。
通りかかる人達の挨拶に応じながら、マルシルは軽い足取りで歩を進めていく。
誰もが気さくに手を上げてくれる、そのほとんど全員がマルシルの隣人であり、知人であり、友人だ。
「おはよ、お爺ちゃん」
「おう、おは・・・あん? おいマルシル、誰がお爺ちゃんだ」
「だってもう孫がいるじゃない」
「へん、俺はまだまだ現役だぞ。まったく、変わらないなお前は昔っから!」
「はいはい、まだまだ元気そうで良かったよ」
ひらひらと手を振って、マルシルは微笑みながらその場を後にする。
この国で暮らして・・・エルフの感覚で言えばまだ大した時は経っていないが、短命種の感覚で言えば十分長いだけの間ここで暮らしてきたマルシルにとっては、ここに住むほぼ全員が顔見知りで、付き合いも長い。
言うまでもなく、マルシルはこの国が好きだった。
城下は賑やかだし、村々はのどかだし、それら人の住む場所におよそ魔物は出ないし、平和そのものと言って良い。
なにより、この国がこうしてここにあるのは、マルシルにとって大切な人達のおかげなのだ。
まだまだ先の長い話だがマルシル自身、余生もここで過ごすんだろうなぁ、と漠然と考えてはいるぐらいには、この土地に愛着があった。
ただ一つ、この国で暮らしていて苦労することと言えば、マルシルが担う仕事の多さである。
顧問魔術師と一言で言って何をするのかと言えば、特に何か決まった作業をこなしていれば良いわけでもなく、色んな厄介ごとが舞い込んできては適宜対処を迫られる。
魔術除け、魔術品の鑑定、魔術に使う触媒の選定、そしてある日を境に大きく変わってしまった魔術の在り方についての研究に、自分以外がそれらをやった場合のその評価と、魔術によって起きた諸問題の調査、その他諸々。
つまりはとにかく魔術絡みとなると先ず引っ張りだこなので、頼られて嬉しいやら忙しいやら。
国の平穏に一役買っていると言えば悪い気はしないが、それに反比例するかのように、マルシル個人の日常は思っていたよりも平穏ではなかった。
そして今日マルシルが出かけた用事というのも、その仕事の一つである調査の用向きだった。
とある画家が行方不明になった、というのである。
それ私の仕事じゃなくない?
・・・と思ってしまったのもむべなるかなと思うのだがそれも最初のうちで、聞けばどうやら、そこにも魔術のなにがしかが関わっていそうだという話だった。
近隣住民曰く、彼は前触れもなく忽然と姿を消した。
家に篭りきりで、絵を描くこと以外になんの執着もない人物だったが、その自宅を探しても何の痕跡もない。
様子を見る限り、荒らされたわけでも、彼自身が旅の準備をしていたわけでもなく、本当に突如の失踪。
転移術か何かで連れ去られたでもなければ有り得ないことだ、というのが、マルシルが聞かされた現状だった。
「どうだか・・・絵具を買いにカーカブルードまで行ってます、ってオチだったりして」
メリニの隣町――――あんまり仲は良くない――――を思い浮かべながらマルシルは呟く。
失踪されるよりはその方が穏便に済んで良いかもしれないが、マルシルの一日が徒労に終わるのはそのオチと表裏一体だ。
ともあれマルシルの今日の仕事は、人探し。
最後に見たのが城下にある彼のアトリエに入るところだというので、マルシルはまずそこを訪れていた。
こんこん。
予想通りだが返事はなし。
「・・・」
がちゃり。
「おじゃましま~す・・・」
鍵がかかっていなかったのは予想外だったが、単に不用心なのかなと思うことにした。
次いでゆっくりと扉を開け、恐る恐る中を覗こうとして。
「んが」
マルシルは呻いて、つい鼻を押さえた。
室内の様子が視界に映るのと同時、ケミカルな刺激臭がマルシルを襲ったのだ。
そこには様々な絵、落書き、取っ散らかった画材、果ては床にぶちまけられた絵具溜まり。
そして目に飛び込んできたそれらの色の数と同じぐらいの種類が混ざったような、独特の絵具の匂いが充満していた。
「うう、植物由来の香りなら慣れてるのに・・・なにこれ、足の踏み場もないじゃん」
恐らく野花の色を抽出したのであろう絵具もいくらか紛れているのは分かったが、それ以外のほとんどはマルシルの与り知らぬ薬品のそれで、ごちゃ混ぜになった臭気に目眩がした。
そして兎に角そこは、無事なのは天井ぐらいと言えるほどに色、色、色。
画家の人となりがなんとなく伝わってくるような、混迷とした極彩色の世界だった。
「魔力酔い起こした時みたい」
マルシルはぼやきながら、足元に散らばる絵具入れや筆をどうにかこうにか足でよけつつ、アトリエの中へ踏み込んでいった。