そして一方で、マルシルはどうしたものかと悩んでいた。
翼獅子の言葉を信じるのならば、マルシルが探している人物はこの絵の中には居ないということになる。
果たして信用していいものか、しかし特に彼が嘘をつく理由もないような気もするし、と決めあぐねていると。
『マルシル。戻ったらきみから忠告してくれないかね』
ふと、翼獅子がぽつりと零すように言ったので、顔を上げる。
「な・・・何を?」
『・・・これは翼獅子の私に限った話ではないし、世界中どんな絵に対しても同様だが』
そう前置いてから翼獅子は言う。
『私を描いた絵は、かなりの確率で生ける絵画になってしまうんだ。魔力そのものを描き込んでいるようなものだからね』
まあ仕方のないことかもしれないが、とぼやき混じりに言って、彼はその願いを口にした。
『お互いのためにも、あまり私のことは描かないで欲しいんだよ』
「・・・なんでお互いのため?」
生ける絵画が危険なのは当然既知の話だが、描かれる側の頼みというのが分からなかったので訊き返すと。
ふむ、と翼獅子は少々悩ましそうに首を振って言った。
『他の登場人物たちはまだしも、私は描かれた瞬間からここがそうだと分かってしまうからな・・・実際のところ、あんまり気持ちのよいものではないんだ』
マルシルがライオス達に危惧したように、虚構が自らを虚構だと自覚するのは惨いものだ。
元々人ならざる身でこの世に遍在していた彼にとっては、耐えられこそすれ、受け入れ難いことに変わりはないだろう。少し可哀想だとも、確かにマルシルは思った。
しかし彼が付け加えるように続けた台詞には、マルシルが決して聞き逃してはならない意味が含まれていた。
『この狭い世界の内に、
「っ・・・!?」
ぞっとして、マルシルは数歩後ずさることになった。
それはほんの少し油断していたマルシルが、改めて気を引き締める必要に足る言葉だった。
「あなた、やっぱり・・・!」
彼はやはり、悪魔だった。
彼――――翼獅子が過ごした永い時の末に成就しかけた企みは、かつてライオスが倒したことで打ち砕かれたのだが、それは現実世界の話。
絵画に描かれているこの時点の翼獅子は、人を誘い、騙し、その欲望を食らう無限の食欲を持った悪魔。
その頃の具現なのだ。
『そう警戒しないでくれ・・・私が絵の中から復活できるとでも?』
完全に敵対の姿勢で杖を構え直したマルシルを見て、どこかほんの少し残念そうな顔をした翼獅子は、わざとらしく肩をすくめてみせる。
『私は今更これといって何をするつもりもないよ・・・この私の手が及ぶのはごく狭い範囲のことだしな』
己の小ささを嘆くかのように溜息をつくと、翼獅子は分かりやすく項垂れている。
しかしマルシルはそんな覇気のない姿を見ても、警戒を解く気にはなれなかった。
翼獅子が悪魔としての本性を見せたときの恐ろしさを、その力の強大さを、マルシルは誰よりも知っている。
「そ・・・そんなこと言ったって騙されないから!」
『いやいや、今言った事は全て本当のことだし・・・私はきみたちに嘘をついたことはあまり無いんだがね』
確かに、今の彼は描かれた模倣の存在で、その影響も外の世界までは及ばないのかもしれない。
しかし逆に言えば、今、絵画の中に入ってしまっているマルシルはその対象の内なのではないか。
懸念が拭えないまま、そんなことを考えていると。
そこで、まるでそれに返事をしているかのように翼獅子はこんなことを呟いた。
『まあ、実際いくつか考えてはいたんだが・・・どうもきみに「ずっとここで暮らしたい」と思わせることは出来ないようだし』
「・・・えっ!?」
それはマルシルの危惧を裏付ける恐怖の宣告である・・・と同時に、意外な敗北宣言でもあった。
マルシルの知る彼は、言葉巧みに人の欲望をくすぐり、その気にさせて、意のままに操る力を持つ悪魔だった。
しかし翼獅子は何故か、それを諦めたのだと言った。
『別に不思議でもないだろう。先程言った通り、きみが知る私とここにいる私は同一ではないし、私はこの迷宮の主というわけでも、さりとて絵画の主というわけでもない・・・』
外のことを知り得ないのも痛いな、と口惜しげに補足して、翼獅子は言った。
『それに、理由はきみの方にある』
「・・・私?」
当惑するマルシルを見上げ、どこか面白がるような笑みを浮かべながら、彼は謳うように言う。
『彼らに出会いたい。話したい。また一緒に冒険したい。懐かしい光景を・・・もう少しだけ見ていたい。そういう欲が、確かにきみにはあったが』
「う・・・」
自分の内面をつらつらと並べ立てられて、マルシルは顔が赤くなるのが分かる。
実際、その通りではあった。
画家を探すのに付き合って欲しいとライオスに掛け合ったのも、実のところ、口実の一つに過ぎなかった。
それだけならマルシルはさっさと絵画を出て、絵の外から被害者を引っ張り出せる魔術を使えばよいのだ。
しばらく同行したいと願い出たのは翼獅子の言う通り、マルシルのわがままに過ぎなかった。
けれど、と翼獅子は首を振りながら続ける。
『きみは、これをあくまで一時的なものだと割り切っている。絵空事・・・夢のようにね。残念ながら私がどれだけ誘おうとも、きみはもうすぐここを出て行くだろう』
本当に残念そうに言って、翼獅子はマルシルのことを真っすぐに見つめた。
『きみは変わったらしい。全人種はおろか、身近な人たちの死を遠ざけたいという欲望ももう抱いていない。あるのはありきたりな・・・まあ、味の薄そうな欲ばかりだ。それでは私も張り合いがない』
「・・・」
正直、どこまで本気で言っているかは、マルシルは測りかねた。
そういうポーズも油断させる罠かもしれない・・・少なくとも詐欺師の見せる仕草にはそう思っておいた方が身のためだと、マルシルは知人に口を酸っぱくして言われたことを覚えている。
ただ翼獅子のそうした口ぶりには、今のところ、かつて感じた毒気のようなものがないように思えた。
『それで、絵に私を描かないよう広めて欲しいというのは聞き入れて貰えるかな?』
・・・どのみち、その真偽を確かめる術もない。
それに、彼が何もしないというのならそれに越したことはないし、これ以上は藪蛇になるという気もした。
「・・・まあ、あなたの頼みは分かった」
『ありがとう』
頼まれずとも、生ける絵画や、その内に再び悪魔が生まれるなどという事例は避けなくてはならないことではある。
そしてマルシルはこほん、と咳払いして、やや睨め上げるような顔をつくって翼獅子に言う。
「その代わりってわけじゃないけど・・・ここのライオスたちを唆したりしないって約束してくれる?」
『勿論だとも』
マルシルの懸念に反して翼獅子は事もなげに頷いて、しかし直後に首を振りつつ言った。
『・・・そもそも絵画というのは本来、描かれている時点で止まってしまっている。きみがここから去れば絵の中の出来事はすべて無かったことになるのだから、私が何をしようと無駄だとも』
「それって・・・」
『さっきも言ったが、此処はきみが期待するよりも狭いということだ』
それは先のマルシルの考えに対する答えでもあった。
たった一瞬の風景が魔物として生を得たからといって、世界全てがその中に創られるはずもない。
あくまでここは一場面の再現の世界であって、その広がりには限界があるのだと、翼獅子は言った。
それもなんだか寂しいな、と思わなくはなかった。
マルシルがここを出て、仮にもし再びここに戻ってきたとき、今日交わしたやり取りをライオスたちは覚えていない。
また再会すれば彼らは私を怪しむだろうし、大体、今日のようにどうにか信じてもらえたのも幸運が積み重なってのことだったと思う。
次はなし崩し的に本当に敵対してしまうかもしれないし、魔物に襲われて今度こそ命を落とすかもしれない。
ただマルシルは、そこに哀愁を感じこそすれ、未練を残すべきではないと頭では分かっていた。
そもそもの話として、ライオスみたく生ける絵画に何度も出入りするような真似は、本来ダメな行為だ。
だから今日の出来事は本当に、つかの間見た、楽しい夢。
つい先ほどマルシルがマルシル自身に聞いた言葉が、耳に木霊したのだった。