「・・・・・・もう行かなくちゃ」
翼獅子とこれ以上会話するのを恐れたというのも半分あったが、いよいよ自分が若干呑気に絵の中に滞在し過ぎたことにマルシルは気がついていた。
画家が失踪したと聞かされて調査に赴いたマルシルが生ける絵画の中に取り込まれてしまってから、暫く経っている。
となるとこうして関わった人物が連続失踪している今、そろそろ誰かがそれに気づきマルシルのことを探そうとした場合、その足跡を辿ってさらにアトリエに踏み込んでしまうかもしれない。
翼獅子の口ぶりからするに、あそこにある生ける絵画がこれ一枚ではなさそうなので、それは二次被害、三次被害につながりかねない大変危険な状況だ。
ここから出て、あの画廊をすぐに封鎖しなくては。
『おや、もう行くのか?ライオスたちに別れも告げずに?』
ほんの一瞬引かれた後ろ髪を目敏く察知したのか、起こしてやろうか、と翼獅子が言うので、マルシルは首を振る。
「生憎だけど、別に名残惜しくて帰れなくなっちゃうとかじゃないし、そうはならないから」
『それは残念』
「大体ほら、向こうの私が多分泣いちゃうから可哀想だし」
『どうかな。案外淡泊な気もするが』
やや背伸びして言ってみたのだが、むしろ逆に子供っぽかったかもしれない。
流石によく見ているというか、翼獅子が言ったのも確かにそんな気もするので、マルシルは咳払いで誤魔化して・・・どうせこれきりなのだからと、本音の方も口にすることにした。
「それに・・・」
『ん?』
「私が絵の中に本物を夢見たら・・・今度はみんなに怒られそうだもの」
今の自分にとって地続きの記憶は、もちろん、絵の外の現実。
その記憶の中にいるのは本物のみんなだが、ある意味、その過去である絵の中のみんなも決して、偽物ではない。
彼らを偽物とは思えない一方で、かといって本当に本物の彼らとして見てしまうことは、きっと彼ら自身に失礼だ。
それは彼らも望んでいないことである、はずだ。
『・・・そうか。そうかもしれないね』
眼を閉じて、翼獅子も頷いていた。
たぶん、翼獅子にとってはその是非はどうでもよかったのだろうが、あえて否定しなかったことは素直に嬉しく思う。
そしてこの想いがきっと、翼獅子が諦めてくれている理由のひとつに違いなかった。
『きみは不本意だろうが、会えて良かったよ』
「・・・不本意だけど、私も」
『はは。ライオスたちの分も言付かっておこうか?』
「・・・・・・それなら、よろしく」
そうして、帰る時間が来た。
杖をとんと立てて、詠唱を終える。
マルシルの身体がふわりと浮いて、そこにあるはずの壁と天井をすり抜けるようにして、その場を離れていく。
それに伴って周囲の景色が、ゆっくりと滲んだようにぼやけて、輪郭を失っていく。
抜け出た壁の裏には何もなく、振り向くと、マルシルは外から絵の世界を見下ろすような恰好になる。
ふと、石壁の向こうに覗くライオスたちの方を見れば。
抱き枕で暖かそうにしているイヅツミ。
寝床に潜り込まれてちょっと息苦しそうなチルチャック。
誰よりも姿勢良く規則的な寝息を立てているセンシ。
若干寝相が悪いなと思わなくもないマルシル。
眠っていると、ちょっとだけ妹と似た顔立ちにも見えるライオス。
美味しいものを食べた直後であるからか、彼らは皆幸せそうに寝入っている。
マルシルは彼らの寝顔を目に焼きつけて、口元を緩めた。
視線を戻せばそこにはただ一匹、翼獅子だけがくっきりとした輪郭を保ち、佇んでマルシルを見上げている。
記憶に残る彼は常に底知れない笑みを浮かべていたが、今、マルシルを見送る彼の表情は、それとは少し違って見えた。
『さようなら、マルシル』
絵画を抜け出す浮遊感が消える瞬間、そんな翼獅子の声が最後に、耳に残った。
「あだっ」
アトリエに戻って来た時、絵画から放り出されたマルシルは再び後頭部をぶつけて悶絶する羽目になった。
「ったぁ~・・・もう、この魔法ちょっと改良した方が良いかもなぁ」
愚痴をこぼしながら、服を軽くはたいて埃を落とし、立ち上がる。
とはいえ、無事に現実世界に帰って来られただけでも良しとすべきか。
アトリエの隠し部屋は絵を日光から守るためか、そもそも窓のない造りなせいで今が夜かどうかも分からない。
思いがけない大冒険だったが、ここに踏み入った時から辺りの景色は全く変わっておらず・・・。
「あれ?」
と、マルシルは目を疑った。
今しがた自分が放り出されてきた、生ける絵画だった。
「絵が・・・変わってる・・・?」
迷宮内部と、ライオスたちパーティ一行。
その五人は相変わらず中央に描かれている。
しかし彼らの姿は、限られた明かりで迷宮を進んでいくという恰好ではなくなっていた。
つい先程マルシルが相伴に預かった、豪勢な食卓。
それを囲んで皆で食事をしているという風景に、絵の内容が変化していたのだ。
また外周にパーティ一行を眺めるように描かれていた魔物たちはおらず。
代わりにシチューや、サラダや、果ては丸焼きなど、様々な料理となって、絵に温かな雰囲気を添えていた。
そして最も上部でそれらを見下ろす格好だった翼獅子こそ、そのままではあるものの。
無表情だったその目は細められ、なんとなく、こちらへ満足げに笑いかけてきているようにも見えるのだった。
その顔を見れば、誰の仕業かは一目瞭然だった。
「・・・まったくもう」
マルシルは呆れ混じりに肩をすくめてから、その絵を今一度眺める。
ライオス、チルチャック、センシ、イヅツミ。
彼らは相変わらず、思い思いの表情で魔物料理を口にしている。
ライオスが喜色満面で得体の知れない肉を口に運んでいるところを、呆れた顔で眺めているチルチャック。
味の改良をすべくメモを取っているセンシの目を盗んで、イヅツミが自分好みの食べ物に手を伸ばしている。
そして、マルシル。
彼女の様子もまた、相変わらずだ。
スライムだかなんだか分からない魔物で出来た微妙な色合いの料理を、とても嫌そうに口に運ぼうとしている。
けれど、きっと口に入れたらその次は、意外そうな顔をしたあとに、ぱあっと表情を輝かせるのだろう。
次の日にはその味を思い出し、また食べたいなどと呑気なことを考えながら、迷宮の最下層へと向かうのだろう。
そして・・・これからの彼女には、もっと大変なことが待っている。
私はふっと微笑んで、彼女に言葉をかけてやることにする。
彼女が私になるまでの時の流れ、その数々の体験を想いながら。
「がんばれ、マルシル」
そうして、マルシルの懐かしい冒険は終わりを告げたのだった。