大怪我を負った日に、必ずみる夢がある。
人生最大の後悔で、人生最大の転換点だった、あの夜の日だ。
ロシナンテは元天竜人だ。心優しい父と母から生まれ、弟思いの兄を持つ天竜人だった。
そう、それはもう過去の話。
父の意思で地上におり、ただの人間として暮らすことになった時……ロシナンテの人生は転落した。
日々の食糧さえ危うい、ボロボロの小屋に住み、ドブネズミのような生活を強いられた。
生まれて初めて空腹になった。
生まれて初めて痛みを知った。
生まれて初めて辛さを知った。
それでも、兄は自分を置いていかず、いつも手を引いてくれた。ロシナンテにとって、両親と兄だけが心の支えだった。
その支えが一つ増えたのは、偶然の出会いだった。
天竜人を恨む町民から逃げていたところを助けてくれた黒ずくめの少女。腰には物騒な刀を下げ、どうしてか火薬のような、鉄のような匂いがした。
彼女は自分たちに食料を分けてくれた。事情は何も聞いて来ず、ただ毎日、路地裏前で待ち合わせをした。
最初こそ、何か裏があるのだと警戒したけれど、どうにも彼女からはそういう……後ろ暗いものが持つ黒い感情だとか、嫌らしさは感じなかった。
彼女はただ素直に自分たちの尊厳を認めて、対等に接してくれた。
いつだったか、彼女が街の人から“黒の英雄”と呼ばれるのを知って、体が強張った。彼女は毎日海賊を倒しに海に向かっているらしい。あの、自分よりは大きいが大人とは言えない身体で悪漢に立ち向かっているというのは、かっこいいよりも心配が勝った。
どうしてそんなことをしているのだろう。海賊に何か恨みでもあるのだろうか。
自分たちがもらっている食糧を集めてくれていたと知った時は、何故そこまでして自分たちに尽くしてくれるのか不気味にさえ思った。
それが、ひたすらの無償の愛である事に気づくのは、食糧を与えられる関係が半年ほど続いた時だった。
兄はずっと彼女を警戒していた。自分が警戒しないと弟である自分を守れないと気が立っていたのだと思う。
兄の並べる失礼な言動を、彼女はさらりと受け流し、食糧を置いて去っていく。
昔、似たように食糧を与えられたと思ったらそれは罠で、危うく捕まりそうになった経験から、他人を簡単に信用できなくなっていたのもあると思う。
それでも、兄なりに彼女に甘えていたのだろうか、つっけんどんな態度をとりつつも、彼女から貰った食糧を捨てたり食べ残すことは絶対にしなかった。
彼女はそれを知らないだろうけど。
街で英雄扱いをされている彼女は、町人の噂話曰く恐ろしいほどに強いのだという。
不思議な力で水上に浮き、刀ひとつで海賊船を沈めてみせるのだとか。その姿は勇ましくって、町の人の中ではファンもいるらしい。
でも、路地裏前にいる彼女はそんな雰囲気を全く出さず、ただのお人好しのお姉さんだった。
いつかの日、貰ったいちご味の飴はしばらく食べ終わった棒をお守りに持つぐらい気に入っていた。兄上はさっさと噛み砕いてしまう人だったけれど、おれはじっくり味わって舐める派だった。ベタベタの棒を海水で洗って、コッソリ作っていた宝物箱にしまう。
そんな小さな宝物が5本貯まった頃、事件は起こった。
母上が死んだ。
病気だった。こんな埃っぽくて汚い家に住んでいたら無理もない。何度も咳をして苦しげに熱で呻いて朝起きたらひっそりと心臓の鼓動をやめていた。
父上は嘆いていたし、兄上はそれを冷めた目で見ていた。おれは、泣いた。大事な母様が、心の支えがひとつなくなってしまった。
喪失感にただ泣きじゃくっていると、兄上がどこかに行っている。
そういえば、今日は彼女のところに行ってなかった。そう思いだして、俺はあの路地裏前に行こうとして、足を止めた。
兄が、泣いていた。
お姉さんの胸の中で、声を押し殺して泣いていた。
お姉さんはひどく優しい顔をしながらも、ただ黙って兄上をコートで隠していた。服が涙や鼻水で汚れるのも厭わずに。
自分は、なんだか弟である自分がそれを見てはいけないような気がして、足早にその場所を去った。あの時、いつも最強だと思っていた兄にも脆いところがあるんだと知った。
悲劇はまだ起きた。母上が亡くなってから、なんとか立ち直ってきた頃だった。
家が町人たちに見つかった。
父上と兄上諸共捕まり、磔にされて石や弓矢を当てられた。火で炙られ、槍で刺された。
地獄だった。
兄上は泣きながらも必死に威嚇し、父上は自分だけを狙えと必死に訴えていた。
自分はただ、泣くことしかできなかった。こんな痛みは初めてだ。まさに終わりが見えない地獄。きっとここで死ぬのだと思った。
黒の英雄が来た。と言ったのは誰だったのだろう。
黒の英雄はお姉さんの二つ名だ。海賊をどんどん倒していって、この町の治安は多少だが良くなっていた。だから英雄だと。町の人が話していたのをうっすら覚えている。
彼女が自分たちを売ったのだろうか?
そうであったら、ぼくも兄上も一生人を信じられなくなりそうだ。
「違うでありますよ」
その一言とともに、騒がしかった町の人の怒号が一瞬で無くなった。
目隠しされていた自分には何が起きていたのかわからなかったが、彼女が自分たちを磔から降ろし、どこかへ運んでいくのが揺れでわかった。
兄上とともに右腕で抱き上げられた時、えもいわれぬ安心感に、もうこのまま眠ってしまいたかった。
目隠しを外されれば、そこが自分たちの家だと認識できた。
それでも身体中が痛んで、なにも言えない。
お姉さんは俺たちの体を拭き、手当てをすると家を出ていった。消毒液が染みてあちこちがひどく痛む。血とガーゼの匂いが埃の匂いと混ざって、嫌な感じだ。
でも、鼻を塞ぐこともできないほど身体は疲れていた。
外から怒号が聞こえる。悲鳴も聞こえる。
何が起こっているのだろう?
横で兄上と父上は気絶していた。自分だけが、外で何かが起こっている事を認識している。
お姉さんが何かしているのだろうか。
金属音や銃声すら聞こえてくる。外で戦いが起こっていることは間違いなかった。
自分はいつそれがこの小屋に入ってくるのか、不安で仕方がなかった。
一晩経って、ようやく音が止んだ。
その頃にはなんとか立ち上がれるくらいには体も回復していて、恐る恐る様子を見に扉を開けた。
その時の一連の流れを、数十年経った今でも夢に見る。
鬼がいた。
身体中を血で染めて、大量の死体の山を背に立つ鬼が。溢れ出る殺意はビリビリと肌を刺し、町の人よりも純粋な「死」が目の前にある感覚。額に銃口を向けられているような、首に刃を当てられているような錯覚が自分を襲った。
思わず尻餅をつけば、鬼が近づいてくる。歩くたびにびちゃびちゃと血が地面に垂れた。ツンと鉄錆のような匂いが濃くなる。
「ぃやだ!!」
咄嗟の反応で、差し出された物を拒絶した時、ようやく鬼がお姉さんだったと気付いた。
大量の死体、お姉さん、夜中の戦闘音。
要素が線で繋がっていく。
ただ、それが完全に完成する前に、お姉さんはひどく……ひどく傷ついた顔をして、こう言った。
「……ごめん、なさい」
「え、あ、ちが」
あ、ぼくはお姉さんを傷つけてしまった。
恩人を拒絶してしまった。
きっとお姉さんは町の人から傷だらけの自分たちを守ってくれたんだ。人を殺してでも命を助けてくれた。
なのに、自分は何をした?
頭がサッと冷えていく。
「待って! 行かないで! ごめんなさい!」
そう叫んでも、もうお姉さんには聞こえていないのか、お姉さんは海岸に走っていく。
「違うの! 違う、違うんだ! 待って!」
必死の制止の声も届かず、お姉さんは海の中に消えた。何分待っても、上がってくることはなかった。
ぼくはわなわなと口を震わせ、地面に落ちた棒付きキャンディを拾って舐めた。
砂利の味と混ざって、甘いメロンの味がする。
お姉さんは何も変わってなくて、鬼なんかじゃなくて。
でも、それを伝える術はもう無くて。
ただ後悔していた。
兄上が父上を殺した時も。
兄上から逃げて、海軍に拾われても。
海賊を捕え、仕事を褒められても。
煙草を覚えても。
今でも、あの棒付き飴の味が舌先に残っている。
残っているんだよ、お姉さん。きっと一生忘れられないさ。煙草の苦味で上書きしようにも、ずっと悪夢と一緒におれの身体に残ってるんだ。
もし、奇跡が起きてまた会う事になったなら、変わらずおれに飴を差し出してくれよ。
そっと火をつけた煙草の煙は、過去の悲痛をぼんやりと隠してくれた。
あきつ丸(仮)がロシナンテに向ける感情:後悔。
ロシナンテがあきつ丸(仮)に向ける感情:後悔。