わたしの目の前に突然現れた、あきつ丸さんというお姉さんは、まるで遺跡の中で突如発掘されたオーパーツのような強烈な印象を私に焼き付けた。
いつものように町の子どもたちにいじめられていた自分だけれど、彼女はそんな彼らをいとも容易く懐柔し、それに加えて自分の手当てまでしてくれた。
この町にそんな大人は、全知の樹にいるクローバー博士達しかいない。でも、彼女は自分を旅人と言った。普通の外の人は町人から遠巻きにされている自分を興味なさげに無視するか、そもそも認識していないかの二択だった。
それなのに、この人は会っていきなり助けてくれた。
それが打算かもしれないと考えたけれど、こんなちっぽけなただの少女である自分に求めるものはなんだろう。
にこやかに話しかけてくる彼女から悪意は感じなかった。
我ながら悲しいけれど、自分に向けられる悪意というものには敏感な自信があった。投げられた石や暴言より小さな、大人の無理解だとか線引きとかすら、自分にははっきりと感じられた。
しかし、彼女はまるで自分を警戒せず、簡単に懐へ招き入れた。
いじめられていた自分への同情心がそうさせたのかもしれないけれど、もらったキャンディはじんわりとわたしの心に甘さをもたらす。
彼女が自分の持っていた本に興味を示した。
今読んでいる本はかつて存在したと言われている海洋主義と大陸主義間の冷戦と進化する造船技術について書かれた本だ。考古学とは少しズレるが、息抜きとしてこの海のことを自分なりに理解したくて読んでいた。
彼女は読めることをすごいと褒めてくれたけど、それを素直に真正面から受け取ることはできなかった。
確かに自分は同年代の子より遥かに本を読んでいて、知識があるけれど、それで他の子より偉いとはとても思えない。
むしろ島でのカーストは最低レベルで、考古学という得意分野があってようやく自分が自分でいられた気がした。
彼女は真っ黒な髪に真っ黒な服、真っ黒な瞳をしていて、どこか自分と似ている。カラーリングに偏りすぎだけれど、黒が好きなのは多分一緒だ。
初めて笑いかけて話をしてくれる外の人に、自分は自分の言動がなんだか……いつものように動かせていなかった。嬉しさと申し訳なさと不信感が頭の中で乱丁し、その上から困惑がペンを走らせていた。
彼女は全知の樹を見にわざわざこの島に来たと言う。決して都会ではなく、全知の樹しか名所の無いこの地にわざわざ来たと言うことは、自分と同じように考古学に目覚めた女史なのだろうか。
圧倒的な男性比率を誇るオハラ考古学メンバーにおいて、歳は離れているとはいえ同性の識者が来てくれたことは嬉しかった。やはりどこかで自分は寂しがっているのだろう。
あきつ丸さんにおすすめの本を頼まれた時、自分はそれはもう悩んだ。きっと彼女は自分と同等かそれ以上の知恵者だ。まだ博士号も取っていない自分が彼女に見合う本を選び取れるのか。
それに自分は他人に本を勧めるなんてことした事がなかった。どんな本が適切で、どんな紹介の仕方が適当なのか。頭の中で今まで読んできた本をリストアップし、まず娯楽小説を除外した。
全知の樹は圧倒的に学術書や論文が蔵書を占めるが、たまに学会にすら影響を与えた傑作小説と言えるものが何冊か所蔵されている。
しかしそれはオハラに学びにきた彼女には適当ではないと思ったのだ。やはり学術書や高度な論文でないと満足してもらえないだろう。
となると、最近自分が読んで一番難しいと感じた本を出すか?
しかしそれでは紹介や解説を求められた時完璧な対応ができない気がする。自分はまだウェストロームの基準資料の再設定に於ける地層累重の混沌問題について自分なりの答えを出せずにいた。
ならば基礎的な名著をお勧めするのはどうかと考えたが、あまりに基本的な本を出してしまうと退屈させてしまうだろうか。
基本的に自分は学者達におすすめの本を教えられる側であり、教える側に立った事がない故の経験値が全く足りていない。こんな事ならもっとビブリオバトルの練習をしておくべきだった。
一定水準まで理解できていて、かつ基礎的過ぎず、自分が良書だと感じた本。
細かい選択基準によってリストから大量の本が弾かれていく。
漸くピックアップされた本は、見慣れた考古学概論が並べられた棚に収められていた。
「『考古学基礎II』でも言われてるんですが、この人の『歴史学と考古学の混同による論文の煩雑化』にはすごく同意できて、考古学の権威と呼ばれた人もそこに疑問を持ってたんだって嬉しくなったんです」
「へぇ……」
拙いながらに好きな部分を紹介すると、あきつ丸さんは興味深そうに頷いた。
なんとかお眼鏡にかなう本を選べただろうか、と心の中でホッとする。
ぱらり、とページをめくった彼女は、数秒してすぐに参考文献の欄を確認した。
参考文献というのは学術書を読む上でとても大切で、論文によっては歴史の中で棄却されたものや不正が見つかり唾棄されたものがある。
この本は相当古いが、今でも考古学の精神を語る上で外せない名著。もしかしたらすでに読んでいるかもと緊張したが、すぐに参考文献を確認しに行ったことでその線は消えてまたホッとする。
どんな名著であろうと、前提が間違っていたら時代遅れのものとなってしまう。
参考文献を確認してから挑むと言うのは、読み方の一つとして正しいと思えた。
やはりこの人は自分のように考古学に魅せられた一人なのだろうと確信する。
その後は、ただひたすら文字を見つめる彼女を見つめていた。
自分も本を読めばいいと思ったけれど、なんだか今は彼女を観察したい気分だった。
外から伸びる天使の梯子が彼女の艶のある黒髪を反射させて、カラスの偏光のような質感を作りだす。
ゆっくり確実に文を読み進める彼女の横顔は美しく、一つの絵画として売れば数十万ベリー以上の値がつくだろう。すらりとのびた鼻筋に、オブシディアンの瞳。肌は大理石で、唇はピンクトパーズ。無機物的な、鉱物的な美しさだ。
精巧な自動人形がページを捲るみたいに、淡々とあきつ丸さんは序文を読み終えた。
ふ、と小さく吐き出された吐息にこの人が生きていることを思い出す。
「この本は、論文批判なんかがメインに据えられているようでありますが、その論文はこの図書館にも?」
「あります。でも、著者が伝えたいことは読んでなくてもしっかりわかるのが助かって……あ、勿論、読んでいることに越したことはないんですが」
「ふむ……」
自分がこの本を読んだ時も、読めていたのはせいぜい「考古学基礎I」くらいで、他の論文や本は何一つ読めていなかった。それでも大元の信念やざっくりとした理念はよく理解できたし、疑問点にも納得できたので、この本はよくできている。
中にはこの本が疑問視していた部分が後の世で的中し、一部論証が覆ったと言う歴史もある。
その後本の中に書かれた参考文献全てを改めて読み直したが、その完成度の高さには100年前の天才の力というものがよくわかった。
この人に比べたらわたしの知識はなんてちっぽけなんだろう!
井の中の蛙である事を教えてくれた本でもあった。
ひたすら黙って本を読み続けるあきつ丸さんを眺めていたら、いつのまにか眠ってしまっていた。
起こされたのは閉館時間直前。クローバー博士に肩を叩かれてようやく意識が浮上した。
「そろそろ帰らんと、おじさん達にどやされてしまうぞ」
「あ……これって」
「ああ、あきつ丸のコートじゃ。明日返してくれればいいと言っておったぞ」
毛布のように肩にかけられた黒いコートは、随分と重たかった。生地が分厚く、おそらく革か何かでできているのだと思う。
そのポケットには私が手に持っていたレモンキャンディが入れられている。
「あきつ丸さんは?」
「少し前にここを出て行った。貸出カードの発行に数日かかると伝えたら、明日も本を読みに来ると言っていたぞ」
「そっか……」
全知の樹はオハラに住所を持っていないと貸出カードを作る事ができない。発行申請が通ったということは、あきつ丸さんはしばらくここに滞在する予定なのだろうか。
明日、また会える。
そう考えると、遅く帰っておばさんに説教されても泣かないでいられる気がした。
畳まれたコートは、ハードカバーの本と同じくらい腕に沈み込んだ。
あきつ丸はその日のうちに売店でノートと鉛筆を買いました。