あきつ丸さんは本を借りられるようになると全知の樹に来なくなった。
自宅で本を読んでいるのだと思う。
自分は全知の樹で本を読んでいるあきつ丸さんを眺めるのが好きだったから、少し残念だった。
この前、おすすめした本を読み切ったと伝えられた時、思わず笑みがこぼれた。
感想を聞けば、シンプルながらに著者の言いたいことの核心にたどり着いていて、しかし盲信しない程度に疑問も持っていた。
中には自分すら気づいてなかった新しい視点もあり、尊敬の眼差しが強まる。
彼女は海や船に関する……所謂水中考古学や海洋考古学に関する部類に興味を示していた。海がほとんどを占めるこの世界でこの二つはかなり重要だ。特に四つの海とグランドラインでは見つかる遺物や遺跡の差が顕著らしく、考古学者たちの中では延々と侃侃諤諤と議論が続けられている。
自分は能力者なので海に沈んでしまう。
特に海中に潜り遺物を探す水中考古学とは些か相性が悪かった。
彼女は水中考古学関連の本をいくつかと辞典を借りて全知の樹の読書スペースに座る。
最近はずっと家で読んでいたのか全知の樹に来ていなかったので、久しぶりに彼女が本を読む姿を見れることに嬉しく感じた。
なぜだか自分は、彼女が本を読んでいる姿を見ているとひどく安心するのだと気づいていた。
無機質な美しさ、根本的に私の中に根差す人への不信感があまり機能しないからだろうか。
見たことはないが、ビスクドールというのはあの人のような美しさなのだろう。
あるいは史料を見つめる時と同じ感情が働いているのか、まるで彼女が歴史の遺物であるように思われたのである。それは考古学者にとって紛れもない好意の例えだった。
家では、あまり眠れていなかった。
狭い屋根裏部屋で埃臭い古びたベッドで一人で眠る。それはもう慣れたことだったけど、たまに悲しくてたまらなくなる。
カンテラの灯一つない空間はひたすらの闇で、安心毛布になるには布団は薄かった。
だからだろうか、安心できる彼女の横顔を見つめていると、自分はすぐに眠ってしまう。
穏やかな日差しに、ペンの音と紙の擦れる音が響く。視界の半分は黒く、優しい人を映す。
今日も自分は、眠っている所をお昼過ぎにようやくクローバー博士に起こされた。
しかしそれが今日に限っては最悪の事態になってしまった。
ここしばらく自分は居候先の家事をサボってしまっていた。眠ってしまって、帰りが遅くなった時もあった。
その積み重ねがついに爆発し、おばさんは自分を殴りつけ蹴りつけた。
「洗濯物を取り込んで! 掃除して! 皿洗いをする! それが居候のアンタを置いてやる最低限の義理だと言っただろう! なのにこんなくだらない本にかまけて疎かにするなんて、この穀潰し!!」
そんな言葉が心に刺さった。
全知の樹から急いで帰ってきたものの、門の前に立つおばさんは鬼の形相で自分を折檻する。
家事をすること、食事はなるべくパン一つで済ますこと、屋根裏部屋で寝ること。
おばさんの家族を邪魔しないこと。
それがこの家にいるための必須事項で、こなさなければいけない仕事だった。
それを破ってしまった自分が悪いのだけれど、痛さに助けを求める視線を送ってしまう。
誰とも視線は合わなかった。
「子どもに手をあげるのは感心しないのであります。叱るにしても、やり過ぎでは」
合わなかった、けれども。
見知った黒色が視界の半分を埋めた。
あきつ丸さんだ。
彼女は自分が目を覚ました時にはもう全知の樹にいなかったから、帰ったのだと思った。
しかし今目の前に立ってくれている。地べたに寝転ぶ自分を庇ってくれている。
聞こえてくるのは、彼女が自分を引き取るという交渉だった。
おばさんにとって、自分は家族の邪魔をする「異物」だろうから、簡単に交渉は成立し、おばさんは家の中に入っていった。
あきつ丸さんは私を抱き上げ、本も回収すると、スタスタと歩き出した。
どこへ行くのだろう。
何回か道を曲がった。路地に入ってすぐ、少し軋んだ扉を開ける。
そこが彼女の自宅なのだと気づくが、全知の樹に比べるとそこはやけに日当たりが悪かった。
日は高く上がっているのに、薄暗い。
ベッドに寝かされた自分は最初出会った時と同じように手当てをされ、その後はベッドの中でただ寝かされたまま。
彼女は部屋に備え付けられた机に向かい、全知の樹で借りた本を黙々と読んでいた。
自分はただ、この一瞬で起こった出来事を必死に整理しようとした。
自分はこれから彼女と住むのだろうか、この家で。
それは自分にとって願ってもないことで、突然のプレゼントに頭が追いついていなかった。
彼女は少なくともおばさんのように嫌味や暴言を吐かないし、彼女のためなら家事だってできる。
なにより、彼女が本を読んでいる所をもっと見れるのだと心の中に歓喜が湧いてきた。
室内は薄暗かったけれど、ペンの音と紙の音は相変わらず響いていた。
ベッドは埃臭くなく、布団はじんわりと重たかった。
いつのまにか流していた涙。それは安心か申し訳なさかどっちなのだろう。
彼女には助けられてばかりで、自分が何を返せているのか全くわからなかった。
何もできていないのに、与えられた救いに喜びを感じている自分を浅ましいと罵りながら、しかしやはり湧き上がる嬉しさは抑えられず、心の中は波に揉まれる砂のようにコロコロと形を変えた。
彼女は、それをただ放っておいてくれた。
*
落ち着いてから改めてあきつ丸さんに状況の説明をされた。
ここがあきつ丸さんの自宅で、自分はこれからここに住むことになったこと。
当事者の意思を聞かずに勝手に決めたことに関しては謝られたけれど、そんなことどうでもよかった。自分は彼女の元にいた方がずっと幸せだ。
部屋は二部屋あるので、片方を自由に使っていいこと、家事はしなくていいから、全知の樹の閉館時間には帰ってくること。
簡単な約束事だけ取り付けられた後は、何か命令されるわけでもなかった。
てっきり、皿洗いだの掃除だのを命じられると思っていた自分は手の行き場をなくす。
お昼ご飯を食べたか聞かれたので食べてないと答えれば、作るからダイニングで待っていろと伝えられた。
あわててパンの一つでもいいと言えば、食べ盛りがそんなこと言うなと怒られた。
好き嫌いせず3食食べることをルールに追加された。
「はい、味に関しては期待しないで欲しいのであります」
出されたのはたまごスープとクルトンサラダ、サンドウィッチだった。
バゲットに挟まれた具材はトマト、アボカド、生ハム、キャベツ。オリーブオイルがかけられ、しっかりとボリュームのあるものだった。
食べていいのかと視線を送れば、食べないのかと疑問の視線が返ってきた。
恐る恐るたまごスープに手を伸ばす。
かき卵が柔らかくコンソメの効いたスープに絡み、ふわふわと食感が舌を楽しませた。ほんのりと感じる胡椒が味をまとめていて、ホッとする味だ。
飲み干す前にサンドウィッチに手を伸ばした。バゲットは軽く焼かれていて、香ばしい。手に持ってかぶりつくと、最初にトマトの酸味がきりりと口の中に広がる。オリーブオイルと胡椒との相性は抜群だ。
アボカドは濃厚な特有の甘さをもち、滑らかな舌触りはクリームのようだった。生ハムとの相性も良く、甘みと塩気のマリアージュは食欲が増す。
キャベツはシャキシャキで、しっかりと水気がとられていた。ほんのりとトマトの後味と合わさって新鮮さが突出している。
きゅるると食べている途中なのに、お腹が鳴った。まるで次を急かすようだった。
黙々と食べ進める自分を、彼女は本を読みながら横目で眺めていた。
皿が完全に空になるころには、今まで感じたことのない満腹感と満足感に思考が支配された。
ホッと息を吐く自分を彼女は優しく撫で、皿を片付け始める。
聞き慣れた皿洗いの音に水の冷たさや泡の感覚が伴っていないのに慣れない。
彼女が提供してくれる無償の親切に、自分は何が返せるのだろう。
まだその問題に対する自分なりの答えは出せなかった。
あきつ丸(仮):自分が食べる時は雑に自炊キャンセルしたりするが他人に食べさせる時は気合いが入るタイプ。