あの時の自分は油断してしまっていた。
後悔が襲ってきても、過去を変えることはできないのは自分が一番よくわかっていた。
*
あきつ丸さんと生活を始めて数ヶ月が経った。
彼女は優しくて、穏やかで、理性的だった。自分は彼女が怒ったところを見たことがない。
一日の始まりは天井の木目を見て、自分がちゃんとあきつ丸さんの家で目覚めたことを確認してようやく身体が動く。今でも、なんだかこの生活が都合のいい夢な気がしてならない。
パジャマ(あきつ丸さんが買ってくれた。肌触りがいい)を脱いで、いつもの黒い服に袖を通す。寝癖を解いて、身なりを整えてからあきつ丸さんの部屋に向かう。
いつも、彼女は眠っている。薄手の、少し大きいシャツワンピースをパジャマがわりにして、すやすやとその綺麗な顔を枕に沈ませて。
どうやら朝が弱いらしかった。
彼女を揺り起こせば、「あと5分……」と言いながらも寝ぼけ眼を擦る。
くあ、と大きなあくびをして、「おはようございます、ロビン殿」と彼女は自分の頭を撫でた。
そのまま彼女はキッチンに立ち、簡単な朝ごはんを作ってくれる。
今日は何故だかトーストに目玉焼きが乗っていた。あきつ丸さんの目玉焼きはいつもは片面焼きの堅焼きなのだけれど、今日は半熟だった。
不思議そうに見つめれば、故郷の有名な組み合わせなのだと説明された。
あきつ丸さんの故郷。どこなのだろう。いつか行ってみたい。
胡椒をかけたそれは、なんというか、シンプルなサンドウィッチのような感じで美味しかった。皿に盛られたベーコンとサラダも残さず食べて、ご馳走様。
あきつ丸さんが身支度を終えるのを待って、自分たちは全知の樹に向かう。
今日はなんだか外で本が読みたい気分だった。
日差しは暖かくて、快晴で、海の波も落ち着いている。風は弱く、ほんのりと肌を撫でる程度だ。
人は日光を浴びることも大切なのだとあきつ丸さんは言っていた。セロトニンという物質が生成されて、メンタルが安定したり体内時計が調節されるらしい。
子どもにとっては成長にも大きく関わってくると力説され、自分は天気の良い日はあまり引きこもらずに外に出ていた。
町では視線があまり良い気分ではないけれど、森の方に行けば大丈夫だろう。
今日はなんの本を読もうかな、と定位置に向かっていくあきつ丸さんを横目に、自分は一冊の本を手に取った。
それは「歴史における葬いの方法」というタイトルだ。考古学的に、埋葬された人の墓を発掘したり、出土したものから遺跡が大きなお墓だったと判明したりというのは不思議ではない。むしろよくあることだ。
お墓からの出土品。とくに過去に王やリーダーとされてきた者の墓は副葬品が豪華なものも多く、当時の価値観や宗教観がよく見える。
考古学者にとって、葬い方というのは隣人のようなものだ。
だからこそ、それをまとめた本というのは気になった。
博士号取得のためにも、考古学の基本的な部分である「葬い方」という観点をより深く知っておくのは、大切だろう。
全知の樹の隠し部屋で、自分はポーネグリフを見た。それを研究するクローバー博士たちも。
自分もその中に入りたかった。秘密の部屋でやっているのだから、きっと簡単には入れてくれない。ポーネグリフの研究は、きっと危険かとても重要なことなのだ。
だから、博士号を取ったら、自分もあの中の一員として役に立てるかもしれない。
歴史の本文を、読み解けるようになればもっと考古学の世界が広がるかもしれない。
そんな期待を込めて、自分はひたすら勉強していた。
それを貸出手続きし、自分は全知の樹の外、森の中へ足を踏み入れた。森林浴は気持ちがいい。
少し深くまで歩くと、崖がある。
海が見える、綺麗な崖だ。水平線が木の枝を額縁に空とともにおさまっている。
自分はそこを今日の読書ポジションとする事に決めた。
崖の近くにある木陰に座り、ページを開く。
この本の著者は30年ほど前から頭角を現してきている考古学の中では有名な教授だ。内容もきっと信頼できる。
視線で文字を追い、序文を越え、大見出し1、大見出し2とどんどん読み進めていく。知識を吸収することは楽しい。本と一体になるように、自分の体をページに溶かすようにその思考へと耽っていく。
半分ほど読み終わった頃だった。
コン、と本の表紙に石があった。自分の片手の掌程ある、普通なら飛んでくるはずのない大きさの石だ。
投げてこられた先を見ると、いつものいじめっ子たちが、少し離れたところに立っている。
「やーい! 妖怪女!」
そんなつまらない暴言を吐かれるけれど、気にしない。気にしたら負けだ、あんなの。
「まっくろおばけ! なんか言えよ!」
そうしてまた石が投げられる。
今度はそれが二の腕に当たった。少し、痛い。
「……」
「なんだよ、妖怪女のクセに、喋んねーの」
「ダー君、きっとまっくろはまっくろとしか喋れないんだよ。あのまっくろコートの女の人としか喋れないんだ」
「あー、あのまっくろ過ぎてユーレイみたいな奴か!」
「あの人のことを悪く言わないで!!」
自分は能力を使っていじめっ子の一人を殴った。
自分は慣れているけど、あの人のことを悪く言われるのは耐えられなかった。
突然叫んで殴った自分に、いじめっ子たちは怯んでいるようだった。
「な、なんだよ! いつも同じまっくろなコート着て、不気味じゃねぇかよ!」
「ぼく知ってるよ! あの人、ここに来た時刃物持ってたんだ! 危ない奴なんだよ!」
「黙って!!」
自分はもう一度いじめっ子を殴った。今度は、もっと強く。
いじめっ子たちはあの人にキャンディを貰っていたのに、その恩ももう忘れたらしい。愚かだった。
いじめっ子の一人が、ムカっ腹が立ったように顔を赤くさせた。怒っているのは自分もだというのに。
「うるせぇ! この悪魔!!」
いじめっ子は拳いっぱいに握った砂を投げつけてきた。
咄嗟に手で庇おうとするけど、遅く、目の中に大量の砂が入り込む。
「う、あ」
それに、怯んでしまった。突然失われた視界と砂の痛みに、自分は数歩後ろへ下がった。
下がって、しまった。
「あっ」
そこに足場がなかった事に気づくのは、浮遊感に襲われてからだった。
ぐらりと身体が傾いて、あとは真っ逆さま。痛みを我慢して目を開けると、もう届かない崖先がこちらを見下ろしていた。
「ああああああああ!!」
悲鳴をあげる。
この下は海だ。波は落ち着いているけれど、自分は能力者。泳げない。
死んだ、と思った。
人生これからだったのに。
あきつ丸さんと出会って、博士号に向けて勉強を始めて、ポーネグリフを夢見て。
わたしの人生、これからだったのに。
落下中に自分の意識は途切れた。まるでカンテラの明かりが吹き消されるように、ただあっさりと自分の人生は終わった。
と、思っていたのだが。
「ロビン! 気がついたか!?」
クローバー博士の叫びで、目が覚める。
バチリ、と意識がはっきりと覚醒した。わたしは生きていた。
毛布でぐるぐる巻きにされ、椅子に座らされていた。内側では、冷たい濡れた服が皮膚に張り付く嫌な感覚がある。
「とりあえず飲め、白湯じゃ」
「……あ」
差し出されたマグカップには程よく温められたお湯が入っていた。冷えた手がマグカップ越しの温度でじんわりと形を取り戻していく。数口飲み込めば、芯まで冷えていた身体が少し生き返った気がした。
何が起こったのか。
自分の頭は混乱していた。完全に死んだと思っていたから。
こうして命を存えさせて、全知の樹に戻ってきているのが不思議だった。
「あきつ丸嬢が、君を助けてきてくれたんだよ」
学者さんの一人が説明してくれた。
自分は海に落ちて、あきつ丸さんがそれを助けて、ここまで運んできてくれたらしい。
あきつ丸さんがどうして自分が落ちたことがわかったのかは知らないが、自分はまた彼女に助けられたらしかった。
ぐらりと視界が歪む。また迷惑をかけてしまった。彼女を危険に晒してしまった。どうしよう、見限られたら、どうしよう。
なによりここに姿を見せない彼女のことが不安だった。
「その、あきつ丸さんは……?」
「彼女は……今、病院に運ばれたよ」
「えっ」
「君を運んできてすぐ倒れたんだ。意識が完全に無くて……すぐに医者を呼んで、運んでもらった」
頭の中が真っ白になった。
あの人がもしかしたらいなくなってしまうかもしれない。それはこの島を出るとかじゃなくて、本当に世界から消えてしまうと。
そう考えると発狂して、頭の中がぐちゃぐちゃになって、思考と身体が切り離されたみたいに自分が変貌してしまう気がした。
固まった自分に、学者さんは続ける。
「海で溺れていた君を助けて、ここまで運んで来たんだ。どこか怪我してたり、疲労が度を過ぎててもおかしくない。それを確認するために病院に運ばれたんだ、心配だけど、まだ最悪を想像しちゃダメだよ」
宥められても、素直に気を取り戻すことができない。
あの人になにかあったら、わたしは、わたしは。
「落ち着け、ロビン。自分を責めるな。この町の医者は腕がいい、きっと大丈夫じゃ」
クローバー博士の言葉で、ようやく呼吸が正しいリズムに戻っていくけれど、やはり動悸はしたままだった。
自分はいても立ってもいられなかった。白湯で十分身体が温まったから、一度着替えに家に戻ると伝えた。ベタベタの服では簡単に身体が冷えてしまう。
「ただいま……」
薄暗い家はいつも以上に暗く見えた。
自分の部屋で、服を着替える。似たような黒の服だ。あきつ丸さんとお揃いでいられるみたいで、自分はいつも黒の服ばかり買ってもらっていた。
服を着替えてしまえば、もう体に寒さは残っていない。あるのは彼女を失ってしまうかもという怖気だけ。
自分は病院に向かって走り出した。
「あきつ丸さん……彼女の体、おかしいのよ」
病院では重体の人にはまだ会わせられないと面会を拒否されてしまった。
せめて状態だけでも知りたくて、能力を使い診察室を覗き見する。黒いあの人は病院着を着せられてベッドに横たえられていた。
「身体が頑丈過ぎて点滴の針が刺さらないし、心拍も異様に下がって……ほとんど止まってるのに、息は普通にしてるのよ」
「呼吸は平常だ。しかし明らかに脈拍は危険域だし、体温も低すぎる。……生きているのか、死んでいるのか」
「彼女、もしかしたら人じゃない別の人種なんじゃないかしら」
医者とナースがそう話している。
自分は医学には明るくないが、その内容と困惑気味な表情から彼女が普通ではないことが察せられた。心拍がほとんど止まっていると聞こえた時は自分の心臓も止まりそうだった。
彼女の体を温めるために毛布やお湯の入った皮袋なんかが添えられていたりしたが、一定の温度から一切上がってこないのだという。
冷たい冷たい身体。ほぼ止まっている心拍。それなのに普通に眠るように呼吸しているという不可思議な状況らしい。
「種族が違うとなるとワシらでも手出しできんぞ。打つ手無しだ」
「そうですねぇ……あんまりですけど、お家に帰してそこで死ぬまで待っててあげるっていうのが、優しさなのかもしれませんね」
ゾッと体温が急低下した。血液が海水になった気分だ。
思わずそこで能力を打ち切ってしまう。
死ぬ、死ぬのかな、あの人が。
このまま、わたしを助けて、わたしのせいで。
診察室の前でうずくまった。
もう、目の前がぼんやりして、焦点が合わない。
自分の人生を呪った。本当は自分はほんとに悪魔で、そのせいで彼女を死なせてしまったんじゃないかと生きることを後悔した。
いじめっ子に対抗しなきゃよかった。あの場所を本を読むところに選ばなきゃよかった。あの人と出会わなきゃ良かった?
出会いだけは否定したくなかった。確かに自分の救いになっていたから。あの人の善意を否定したくなかった。
看護師さんがあの人を担架に乗せて診察室を出てきた。
うずくまっていた自分に驚いていたが、すぐに「彼女の家はどこか」と尋ねてきた。きっとこの人は自分と彼女が一緒に住んでいることを知っている。
家へは大人しく案内した。
彼女の部屋のベッドに寝かされて、看護師の人は表情を曇らせたまま、何も言わずに出ていった。
わたしが何らかの方法で話を聞いていたことを察したのかもしれない。
あきつ丸さんの手を取った。冷たい。
およそ人の体温ではなかった。まるで冷たい冬の水に手を突っ込んだみたいな冷たさ。その冷ややかさに触れた自分の手に痛みすらあった。
眠るように呼吸をしているのに、こんなにも死体に近い。
ふと、今朝読んでいた本のことを思い出した。
彼女を弔うなら、何がいいだろう。
土葬は、ちょっと違う気がした。火葬はもっと違う。鳥葬は彼女が食べられるというのが嫌だった。樹葬はオハラなら似合う気がしたけど、旅人の彼女には似合わない。
水葬。そうだ、水葬がいい。
冷たい彼女を冷たい海の中に沈めるというのはとても酷いことに思えたけど、なんだか水葬がしっくりきたのだ。
それに、水の中で眠る彼女はきっと綺麗だ。彼女が生前研究していた水中考古学の一部になるというのも、また一つの運命な気がした。
「ごめんなさい……」
気づけばその言葉が口から漏れていた。
冷たい彼女の手を握りながら、ベッドの隅に顔を埋めて。
この出来事は、私に刻まれる永遠の業だと思った。
「……そんな事、言わないでほしい、であります」
だから、返事が返ってきた時。
「おはようございます、ロビン殿」
大泣きしてしまったのは、どうか許して。
またファンアートいただきました。
あらすじ及び12話のほうに掲載してあります。
キャッホーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!