トラファルガー・ローは医者になりたかった。
両親が大きな病院を経営しており、自分も大きくなったら医学の道に進むことを期待されていたし、自分も望んでいた。
子どもながらに文字を勉強し、たまに父親に基本的な応急手当てや人体の仕組みなんかを教えてもらっている。
ローは地頭が良く、また知識に貪欲だった。
だから、教えられた事はスポンジのように吸収したし、自分の力として真面目に考えていた。
大人が読むような医学書を読み始めたときは、優秀な子どもだと近所の大人に褒められて、誇らしかった。
ローの家は裕福だが、その豊かさに胡座をかくことはしなかった。
ローは好きなものをなんでも買ってもらえるわけじゃなく、ちゃんとお小遣い制だったし、支出の記録をちゃんとつけることを約束させられていた。
ローもそれは大人になってから大切なことだと理解していたし、きちんと自分の欲しいものを決めて浪費することはなかった。
そんなローが、お小遣いを何ヶ月も貯めてまで欲しかったのが「医学会名論文集」という本だった。医学の世界で名文、改革とされるような論文をまとめた、分厚い医学書だった。
論文というのはまだ自分には難しいかもしれない。でも、ローは今は理解できなくても理解できるよう努力すればいいと思っていたし、本屋の隅っこで薄く埃をかぶっているあの本は自分を待っているのだと思っていた。
だから、旅人の女の子がそれを買ったと聞いたとき、ローの目の前は真っ暗になったような気分だった。
あの本は本屋の在庫にも一冊しかなく、売れてしまったら再入荷も難しいだろう。珍しいというわけではなく、あの本屋は必ず売れるような本ばかりを仕入れるので、子どものローが注文したところで素直に仕入れてくれるとは思えなかったのだ。
親を頼るのは、なんだか情けなくてしたくなかった。そもそも両親に、「おれはこんな難しい本だって読めるようになったんだ」とサプライズしたかったという気持ちもあったから。
だから、本当に残念だった。別に、あの本に人生を賭けているわけじゃないけれど、あの本以外にも良い医学書はたくさんあるけれど、あれは初めてローが「本当に欲しい」と思えた本だったのだ。
しかし、そこに光がさす。
女の子──ロビンは、その本をローに貸してくれるというのだ。ローより幾分か年上の、大人びた少女だった。
彼女の持つ本はどれも高度な学術書で、ローはもしかしたら自分より頭のいい歳の近い相手かもしれないと、密かに焦ったりもした。
教会ではローが一番成績が良かったから、ここで自分と同等かそれ以上の知能を持つ相手というのにローは慣れていなかったのだ。
別に、教会の他の子どもたちを下に見ていたわけではないが、話が合わなかったのだ。海の戦士ソラは好きだけれど、教会では嘘つきノーランドのほうが流行っていた。そんな、軽いズレだ。
ロビンは言った。「知りたいと思う気持ちを無下にはできない」と。
街から離れた森に住んでいて、なにやら黒い外套に刀を持った女の人と行動しているあたり、訳アリってやつなんだろうかとローは察していた。
しかし、それを指摘して本を逃すのは惜しかったから、黙って借りた本を開く。
やはり論文はローには難しく、頭を捻ってもわからない文章があった。言い回しが難解で、頭の中で整理するのに手こずってしまう。
眉間に皺を寄せて読んでいたら、ロビンが「どうしたの?」と聞いてきた。そんなに表情に出ていただろうか? と恥ずかしくなりつつ、ローは素直にわからない部分があることを伝えた。
わからないことを恥じないこと。それは父がよく言っていた言葉だった。
「わたしも医学に詳しいってわけじゃないのだけれど、これは海水による脱水症状……腎臓の塩分濃度の話をしているんだと思うわ」
「なるほど……」
他にもわからない部分を聞けば、ロビンは論文の大筋をざっと読んで簡単に要約してくれた。随分と論文を読むことに慣れているようだった。
ロビンが読んでいる本に目を向けると、「世界の建築様式と津波」というタイトルだった。今のローは医学の知識にすべてのコストを割いていたから、建造物の話なんて数ページめくっただけで飽きてしまいそうだ。
そのことを伝えれば、ロビンは「いろんな知識を得たいの。あきつ丸さんのために」とニコニコと笑った。
あきつ丸さん、というのはあの黒い刀を持った旅人のことらしい。不思議な喋り方をする、真っ黒な人。
ロビンはあきつ丸のことを随分慕っているようだった。恩人らしい。
ローはあきつ丸に対しては特に興味は無かった。真っ黒な姿は海の戦士ソラのステルス・ブラックみたいだと思ったが、ローは海の戦士ソラの正当な読者だったので、なんだかちょっと怪しいな。とすら思っていた。
ロビンには、流石に言わなかったが。
分厚い論文集を一日で読み切れるはずもなく、ローは足繁く森に通った。もともとカエルの解剖なんかでよく来ていたから、両親には何も言われなかった。
お弁当のおにぎりを持って、森に行けばロビンが待っている。
そして、本を貸してもらって、あとはそれぞれでひたすら本を読んでいる。
たまにローがロビンに助け舟を求めたり、ロビンの雑談に付き合ったりした。
穏やかな時間は案外すぐに過ぎるもので、きゅるきゅると腹時計が鳴る。
ローは持ってきたおにぎりを黙々と食べる。
ロビンは、お弁当を持ってくる時もあれば一度家に帰る時もあった。
彼女が持ってくるお弁当はサンドウィッチが多く、米好きのローとしてはなんとも言えなかった。ただ、サンドウィッチの日はロビンの機嫌がとても良い。好物なのだろうか。
あきつ丸さん、は家に篭っているのか、そうそう会うことは無かった。
ローとしては、友達の保護者というのはなんだか気まずい相手で、そこまで干渉してこないことに助かっていた。
森の中はいつも静かで、白い町とは違う緑が目に優しく、空気もおいしかった。
ローは白い町が嫌いではなかったが、この緑もまた嫌いではなかった。
しかし、だからだろうか。森の危険性を忘れていた。
「なんだ、ガキがいるじゃねぇか」
ザッと、茂みから複数人の男が出てきた。
その人相の悪さと、彫られた刺青に、ローは身を固くした。
あの男たちは町で危険人物として指名手配されている人攫いだったのだ。両親に会ったら逃げろと強く言い聞かせられていた。
しかし、いざ対面すると体が動かない。座り込んでいたのもあって、ローは完全に固まっていた。
「ちょうどいい、コイツらを『仕入れ』の商品にするか」
リーダーらしきスキンヘッドの男が下卑た笑いを浮かべる。それに余計、ローは恐怖心を刺激された。
せめて、ロビンだけでも逃がせないか。そう思考が回ろうとするが、身体は錆びたようにぎこちなく、本を握りしめていた。
「ロー、立って! 逃げて!」
「う、あ」
ロビンが立ち上がって叫ぶが、ローはそれにすら怯えてしまった。武器、ならある。いつも持ち歩いているメスだ。しかしこれは人を傷つけるものではないし、こんなちっぽけな刃ではまともな抵抗もできない。
ロビンはローが動けないのを察すると、ローと男の間に立ち塞がった。
「
「なんだぁ? やるのか?」
「スラスト!」
ロビンが両腕を構えると、男の肩と胸に腕が生えた。肩に生えた腕は頭を掴み、胸に生えた腕が指を二本突き出し……男の眼球を思いっきり突いた。
「うっぎゃああああ!?!?」
「立って、ロー! 逃げるよ!」
「あ、ああ!」
本を置いて、ロビンはローを立ち上がらせた。ローは何が起きているのかわからなかったが、とにかく動悸のする心臓の焦りに従うままになんとか足に力を込める。
森の奥深くへ逃げるように、ロビンとローは駆け出した。
「こんのガキャアー!!」
男の怒号が聞こえてくる。複数人の男たちがこちらに全速力で向かってくるのが振動で分かった。
逃げ切れるだろうか。こんな森の中では助けも来ない。
ローは必死にここから助かる方法を考えようとするが、足場の悪い森の中を走るのに酸素がどんどん消耗していく。うまく頭が回らない。
「あきつ丸さん!!」
ロビンが叫んだ。
それとほぼ同時に、男たちがロビンとローに追いついてしまった。振り上げられた棍棒に、来るであろう衝撃に目を閉じた──1秒未満のこと。
「オゴォ!?」
黒い外套が、視界の端に映った。