どぷん、と黒の肢体が海の中に倒れた。
いや、それは倒れた、というよりは落ちた、と形容する方が正しいかもしれない。
まるで足元の床が突然無くなったかのように、崩れ落ち、波を立たせた。
普段、何か得体の知れない力によって水面に立っている筈の彼女が、突如溺れるように沈んでいったことに、ミホークは何があったのかと棺桶船を立ち上がる。
しかし、数秒、数分待ってもあきつ丸は浮上してこない。
彼女は能力者ではなく、寧ろ普通の人間よりも海の上では自由だった。
そんな彼女が、溺れることがあるのか。助けに行くべきなのか。ミホークは体験したことのない目の前の現象に、珍しくすぐに答えを出せずにいた。
常の彼なら、即断即決、鍛えられた判断力でもって分析と解決を行動に起こしただろうが、あまりにも目の前の出来事はあっけなかった。
落としたアイスクリームが地面に染み込むように、倒れたワインがカーペットを汚すように。
一言、「あ」という声も出せないままに、あきつ丸は海の青の中に消えていった。
「おい!」
ミホークは何か、形容し難い不穏な気配に、思わず水中に向かって声を投げかけた。
ミホークは、海に出る者として当然泳ぎの技術は体得している。能力者ではないし、特別水中が苦手というわけでもなかった。
ただ、今目の前の海の中に身体の一部でも突っ込むのは、無謀だと脳が危険信号を発している。
長年の武者修行によって鍛えられた警報は、広がる青色を警戒色に染め上げていた。
声に返事が来ることはなく、不気味なほど凪いだ海水が、不透明に空の色を映して黙っている。
何故か、空をよく飛んでいるニュース・クーの鳴き声が消えていた。
ミホークは無意識に“夜”に手をかけていた。
覇気でもわからない、ただひたすらに生命としての本能が、何かを察知している。
生きた気配ではない。しかし死体でもない。
無機物、あるいは持ち主の手を離れた得物。
海賊に襲撃され壊滅した政府非加盟国に立ち昇る煙。腐った海兵に搾取される町で匂う傲慢なベリー袋。天竜人に遊ばれた奴隷が吐いた嗚咽。
そういった、世界のありとあらゆる理不尽と凄惨を、圧縮し、結晶化させた感情のダイヤ。
硬く、しかしある方向は酷く脆い、呪いの詰まった青色の煌めき。
その瞳は、そんな形容が相応しい。
「っ……なんだ、貴様は」
いつの間にかミホークの目の前には、真っ青な瞳に、真っ白な髪をした女が立っていた。
虚な、どこか力無く水上にゆらりと立っている。
真っ白な、首辺りで切り揃えられた髪とは正反対に、その整った身体は黒い細身のドレスのような物に包まれている。噂に聞く、ワノ国の伝統服を思い出す。
繊細な指先は、一本の切り花を後生大事に持っていた。ミホークは花に詳しくは無いが、放射状に密集した花弁はこれもまた白く、美しいが良いものとは思えなかった。
その花は大輪で、女の口元を秘すように隠している。その下は、笑っているのかいないのか、覇気からは何の感情も読み取れない。
幽霊のような薄気味悪さと、より強くなった脳内の警報が、ミホークに夜を構えさせた。
女は、何も言わない。
ミホークは、その見た目から、彼女があきつ丸であることを考えたが、それにしてはあまりにも纏う雰囲気が違った。
身体は、同じなのかも知れない。しかし、中に詰まった感情や思想、人格はまるで違う。彼女の不幸な一面を、無理やり切り取り一枚の人形にしたかのような歪さだ。
夜の水面のように冷たさを込めた瞳は、誰かを偲ぶように薄く伏せられている。
「何者だ。あきつ丸を、何処へやった」
ミホークは先ほどより強い語気を込めて女に問うた。
しかし、女の口は花に閉ざされるばかりで、息遣いすらもわからない。
敵なのか、何なのか。
それすらもわからないが、纏う空気はまだ日も高いのに重く寒く、あたり一帯が水圧を持つように苦しい。
潮風の匂いがしつこい筈の海の真ん中で、何故か香が燻らせる煙の匂いを幻覚した。
「目的は、なんだ」
最早、返事が返ってこない事はわかっているのに、ミホークは問うことを止められなかった。
目の前の存在は、危険だと本能が告げているのに、何故か、心の内が酷い寂しさと虚しさに満ちてしまう。
物心ついた時から一人で、それでも生き残ってこうして剣士として未来を駆け上がっているミホークに、寂しさや喪失感というものは馴染みが無かった。
筈だというのに、彼女を見ていると、芯の部分……致命的な己のパーツが、欠けてしまったかのような悲しみで胸がいっぱいになる。
胸を、喉を掻きむしり孤独を叫びたくなるような
そうした体験に疎い頭が、親しい誰かを大勢亡くしたらこうなるのだろうか、と素直な疑問を提示したが、その答えは誰も答えてくれやしないだろう。
女は、ミホークをじっと見つめる。
いつでも応戦できるよう、夜を持つ手に力を入れていたミホークだったが、何分かの後、女はあっさりと目線を離した。
まるで目当てのものとは違うと言うような、観察ののち興味を失ったらしい態度だ。
香の香りはだんだんと強くなり、既に海の匂いは思い出せないほどに嗅覚を惑わせる。
金属音。
刀の触れ合う音ではなく、鐘……どこか異国のものなのか聞きなれない一定の音色が、発生源もわからず聞こえた。
それは暫く鼓膜を震わせたが、綺麗な音だと言うのに胸の中の虚脱は余計悪化する。
女の周りは静かすぎるほどに無音だ。一切音が聞こえないと言う意味では無い、全ての雑音が無意識に知覚から弾き出されている無音だ。
そしてそれは、呼吸の音ですらもその無音を破ってはいけない気がする。
ミホークは胸中に沸騰する孤独感に気力で耐えながら、女を観察しつづける。覇気も何も無い、ただの気合いだ。
女は、鐘の音と共に喚び出したらしい白と黒の二色を組み合わせた旗らしきものを、背後に広げていた。
白黒の球体に人の歯が生えた異形が、二体でその幕を支えている。
また、女の周囲には幕を支える球と同じような異形が、ふよふよと飛んでいる。
それらは、女がゆっくりと一度瞬きをすると、四方に散っていった。
女はもう、ミホークには何の興味も無いのか、背を向けて海のカーペットを歩き出す。
柔らかい風が不穏な幕を薄く揺らし、沈静な香の匂いを攫っていく。
次々と飛び立っていく球体は、女の瞳と同じ蒼を炎のように揺らしている。
異質、異変、異物。
平和とは程遠い色に周囲を染めながら、それでも泣きたい程に優しく悲しい揺らぎを放つ女は、きっと人にとっては害になる。
ミホークはたまたま赦されただけで、アレは人類の敵になりうる。
あきつ丸に似た、しかしあきつ丸とは違う何か。
ミホークは、その夜をいつでも振るえた。手には未だに力も入っていた。
しかしそれができなかったのは、彼女がミホークを「見逃した」ことで、己がどれだけあきつ丸にとって大切な存在だったかを知ってしまったから。
今胸にある離別の悲しみは、喪失の痛みは、ミホークのものではなく、あきつ丸が今までに感じてきたものの一部なのかもしれない。
ミホークはただ茫然と水平線に消えていく女の姿を見つめるばかりで、球体の行方を追うとか、女の後を尾けるとかそういう事も頭から抜け落ちていた。
鼻腔に残る煙たい香りがぼんやりと苦く喉を通る。
それはあきつ丸が普段纏っていた硝煙の香りとも似ていたが、これはそれよりも戦いからは遠く、感情と理性を切り分ける。
あきつ丸は、人を護り、戦う船だ。
だが、あの女は戦うよりも、その後の色を強く持っている。
戦争には、必ず死体ができ、そしてその死体は運が良ければ遺族の元へ送られていくのだろう。
そして、その遺体は葬られ、遺された者たちはただ泣くのだろう。
帰る場所の無い死体は、海に捨てられて沈むだろう。
この海の下にも、海賊や市民問わず様々な人間が沈んでいるだろう。
彼女は、それを抱いて眠る墓の姿をしていた。
モチーフは葬式。
持っている花は菊。
ミホークが見逃された理由は「あきつ丸にとって大切な人だったから」。
大切な人以外は、深海の意思の思うままになるでしょう。
葬式は、死者には見られない最上の愛の伝え方です。