彼女のやさしさは一体どこから来るのか。
ミホークは、まだ武者修行を始めて間もない頃、親切を装って自分をヒューマンショップに売ろうとした男を斬り殺して思った。
飯を提供し、外見や鍛えられた武器の技術を褒め、己のテリトリーに連れ込んで拘束。この手の輩はいつも同じ手を使う。それだけその手段が効率的なのだろうが、こうも何度とやられると茶番に付き合う側も飽きてくる。
最初は、ミホークも警戒しつつも受け入れたことがあった。
しかし、不穏な予感、そして食事からする異臭に、成程と思惑を察したのである。偽りの優しさに動揺はしなかった。世界は誰しもが、生きるために他者を食い殺すことが最短であると知っている。
知っていると思っていた。
しかし、己の師匠は違った。彼女は他人の優しさを快く受け取り、また同等の優しさを返す人だ。
その優しさに、毒が潜んでいることを、疑いもしない。
武者修行の為の生きる術を教えるために、師匠は何かと街で医療品やサバイバルの本を買っていた。
街の人も、それを応援し、商品をおまけしたり激励の言葉をかけていた。穏やかな街で、平和。きっと師匠はそう思っていた。
ミホークは知っていた。
薬品店の店主の妻が、師匠が来た時いつでも海軍に通報できるよう電伝虫に手を添えていたことを。
本屋の常連の一人が、彼女をヒューマンショップに売るために偶然を装って何度も話しかけていたことを。
街全体が、格好も口調も異質で、人離れした武力を持つ彼女を薄らと警戒し差別していたことを。
師匠の目には、そんな裏側は見えていない。いつも、街の人に親切にしてもらったと笑っている。
山で過ごすことが多かったミホークが気づいているのに、彼女はなにも、なにも知らない。
優しさを渡したら、優しさが返ってくる。
それを、世界の常識と信じて疑っていなかった。
だからこそ、ミホークはそんな師匠の話に相槌をうちながら、夜中街まで降りて、師匠をつけ狙う男たちの脚の腱を斬るだけに留めていた。
元々裏の世界に半分足を浸している者たちだったから、弱ったとわかればすぐ別の者に食い物にされていた。ミホークにとって、そんな世界の方が余程常識だ。
その者が紹介した本がミホークの役に立っていたとしても、売った肉がミホークの血肉になっていたとしても、こちらが何かを渡さないといけない訳ではない。
冷水の世界は、師匠といる時だけぬるく暖かかった。
だからこそ、ミホークは考えていた。
彼女のやさしさはどこから来るのか。
あのぬるま湯を常識だと思う精神はどこから来たのか。
別に戦いや人殺しに忌避感がある訳でもない。敵には容赦しない方だ。戦闘行動をためらう事もなく、血の気配を引きずり過ぎたりもしない。
しかし、一見、親切な隣人に見える邪悪には、驚くほど気づかない。
危機感という神経が死んでいるのではないか。
ミホークを弟子に取った時も、寝首をかかれる心配も何もしていなかったのだ。当たり前だが、人は寝ている時が一番無防備である。だから、人は寝る場所を他人と分けるのだ。
しかし、彼女は最初から共に眠ることに抵抗が無かった。強いていうなら、こちらの意思を確認した程度で、さして警戒も不信感も抱かなかった。
流石の幼いミホークも、これには内心心配を通り越した呆れもあった。彼女と眠ることは暖かく悪くなかったのは確かだが、やはり危機感が機能していない。
剣客として生きていると、この世界の暗い部分は嫌でも目にする。
彼女も、短くない時間旅をしているのだから、そういう事象にも遭っているはずだ。
しかし、それでも人を信じることを躊躇わない。
ミホークが、こうして強い口調で咎めたのも、その生き方は必ず破滅を導くとわかっているからだ。
見目の綺麗な女で、力量もあり、特異な力を持っている。
好事家に高く売れそうなステータスだ。天竜人は下衆な趣味を持っているものが多く、強く美しい女性を甚振る嗜好なんてマイノリティでもなんでもない。
彼女に嵌められた忌々しい首輪は、その末路の象徴。揺れる鎖が導火線にも思える爆弾そのもの。
背を向けてしまった彼女に、ミホークの中で失態を焦る感情が生まれる。
多少安定したとはいえ、彼女は旅仲間を失くした事で精神が不安定だ。老婆に裏切られたショックもあるだろう。
そんな中、師匠である自分すら彼女を突き放す言葉を放ってしまったのは、逆に彼女の危うさを助長するだけではないのか。
らしくなく、行動の後悔と浅慮を恥じる色が心中に滲む。
薄暗い、影の中のあきつ丸の背中は酷く小さく、錆びついて見えた。
「──っ!」
思わず手を伸ばすと、カチリ、と金属の澄んだ音がする。刀の、納刀の音だ。
あきつ丸は秋茜を触っていない。
しかし、ミホークの伸ばした手には、はっきりと一閃の赤が手のひらを縦断していた。薄く、細く切られたそれは赤い球が零れ落ちた柘榴の実のように浮き上がっている。
確実に、秋茜があきつ丸に触るなと言っている。主人を傷つけたミホークに怒っているのだ。
主人の言うことを聞かず、持ち主を呪い殺す妖刀はよく聞く話だが、持ち主を守る為に勝手に人を斬る妖刀をミホークは初めて見た。
痛みとしては軽く、しかし冷たさをもって手のひらに引かれた赤線は、彼女との間にできた溝のようにも思える。
先の、押し出したような吐くような台詞を呟いた彼女はらしくなく、普段のどこか呑気な態度を出せないほど意思がぐらついていたのだろう。
やはり今話すべきではなかった話題だ。
師匠というのは時に厳しい言葉を吐くものだが、弟子にトラウマや精神の傷を負わせたいわけではない。
コミュニケーションが上手くないと自他共に認めているミホークも、先ほどのやり取りが余計であったことをじわじわと手のひらの痛みと共に体に焼きついていった。
月明かりがいっそ憎たらしいほどに輝いている。
(あの男の言葉通りか……)
大航海時代が始まって数年、今からあまり遠くない頃に、ある男に言われた言葉を思い出す。
既に海兵狩りとして磨き上げられたミホークの剣と同等の実力を持つ、赤い髪の男だ。何度かの死合ののち、ここで互いを終わらせるのは勿体無いと、剣を鞘に収めたのである。
海賊として順調に成り上がっているらしいその男は、ミホークに負けず劣らずの口下手……というよりはデリカシーの無い男だったが、宴の時、からかい混じりに言われたのである。
「お前って、どっかでタイミングも言葉選びも全部間違えて女泣かしそうだよなー」
あの時はその目立つ頭を酒瓶で殴ったものの、今となっては予言となってしまった。
ミホークも負けじと「お前は大事なところで何も言わなかったせいで誤解を産みそうだな」とは言ったものの、あの偏見は地味にミホークの記憶に刺さっていた。
副船長が、なにやら納得したような理解を示すような頷きを見せていたのも腹立たしい。
あきつ丸とミホークは、コミュニケーションに於いてはあきつ丸の方が圧倒的に上手い。容易く他者の懐に入り込み、警戒心を湧かせず、確実な跡を残していく。
多弁ではないが自分から喋る方であるし、基本無視はしない。
師弟としては逆転したものの、ミホークは未だ会話においてはあきつ丸に頼っていたのだ。
そうして、タイミングも言葉選びも全て間違えた結果がこの沈黙と手のひらの傷である。
数分で血が止まった赤線を握り込み、眉間に谷を作るものの、あきつ丸は何も言ってこない。
その背中は、錆びついてボロとなった鉄片の如く哀れさを帯びている。
彼女の懐の広さが危険を招くことは変わりない。それがいつか本当の破滅へ至るのではないかという暗路も見える。
しかし今、この言葉で、言うべきでは無かった。
驚くほどに傲慢で、我を通し抜くミホークにとって、一生にあるかないかの反省である。
ひたすらに剣を磨き、研いできた男にしては、崩れた細い声が月明かりの中手繰られる。
「……すまなかった」
「……?」
らしくない、変に音程が歪んだその声に、彼女は思わず、と言ったように振り返った。
その黒い瞳はぽかんと見開かれている。
「今、言うことでは無かった」
「え……」
「師匠として――いや、ひとりの人間として、お前の危うさに焦った、ようだ」
「ミホーク殿……」
「早まった言葉でお前の芯を揺らしてしまった。師匠のやることではない」
ミホークにとって、何処までも果て無く続く戦闘意欲と向上心が芯ならば、あきつ丸にとっての根幹は優しさだろう。
本人にとって一本通ったものを砕くのは、敵ならともかく、相手を導く師匠としては失格ものだろう。
俯くミホークに、呆気に取られつつも言葉の意味を理解したあきつ丸が、ぷっと噴き出した。
「ミホーク殿は、まだまだ師匠初心者でありますからなぁ。しょうがなし、今回は元師匠兼弟子として、許してあげるであります」
先ほどまでの虚な空気感は何処へやら、にんまりと調子づいた笑みを浮かべたあきつ丸が、高くにあるミホークの顔を覗き込む。
声色にも、もう不安定なブレは乗っていなかった。
「ふふ、謝るミホーク殿なんて、珍しいものが見れたであります。まぁひとつ、首輪をかけられた甲斐と数えましょう」
「…………」
「――私の意思が危うかれ、その先にあるものが
あきつ丸の外套が、ふわりと揺れる。同時に揺れた鎖は、首に繋がれていると言うのに彼女を縛るものには見えなかった。
「気を取り直して、これからの作戦を考えるであります」
「そうだな。よく考えれば、寄る虫は翅ごとおれが斬ればいい話だ」
「ん??」
部屋を出ていくあきつ丸に、ミホークは続く。
(師匠初心者か……)
重いドアノブの金属音が、鎖と刀の音と共に鈍い音を引き摺る。
揺れるあきつ丸の髪。
黒刀の光沢を思わせるそれに、ミホークは目を細めた。
(一度に二人……いや、三人の弟子を取ったことは、きっとお前にも無いだろう)
光を浴びる束の影に隠れたものを、今のミホークは己の中だけに仕舞っておく。
タイミングも、言葉も、今ではないだろう。