魔術と聞くと、凡その日本人であればファンタジーにおける戦う力と考える。
国民的RPGがその認識の礎になって、ファイアーとかサンダラとかヘイストとか、魔物や悪者との戦闘で使用する技の一つとして認識する人も多いだろう。何かそれっぽい呪文を唱えて、決め台詞と共に発動する。斯く言う俺も5歳になるまではそういう認識だった。
しかし現実は違った。
魔術ってのはこの世界において特別なものではない。生活を便利にする利用方法の方が寧ろ一般的で、魔物を倒すとか戦闘で用いるとかは二の次三の次であるということを人生で初めて知ったときの俺の落胆のしようといったらなかった。更に妹のアステリアなんかは露骨にがっかりしては数日間元気を無くすほどだった。
それから思えば十年以上が経って。
流石にこの世界の常識にも馴染んだ俺は、今じゃ目の前の土木作業で魔術という前世のファンタジー要素でばんばん使われる様子に何一つ疑問に思わなくなっていた。
「風が強えよ馬鹿野郎! 砂埃で土石流見えなくなんだろうが!」
「す、すみません!」
「風の扱いは女と同じだ! もっと繊細に撫でるように操るんだよ! 風を綺麗に喘がせろ! 返事は!」
「はい!! 頑張ります!」
土方の体育会系らしい少々下品なやりとりをしながら、シュツット街道にて土砂崩れの撤去をすべく呼んだ冒険者は風魔術で大きな石を崖下に転がしていて、俺はそんな彼らの様子を漫然と監視していた。
本当は専門の土木業者を呼びたかったのだ。土木工事を請け負うギルド組合であれば土魔術や木魔術に精通した魔術師も多く、もっと効率的かつ安全な撤去作業を期待できたのだが、見積りを取れば金貨10枚と言われたため即断で諦め。
冒険者ギルドであれば土木の素人ばかりではあるが、こういう力仕事に慣れた輩も多く、熟せないこともないので仕事は雑だろうが完遂は期待出来る。お値段はなんと金貨2枚。8枚もお得だった。予算的には畑違いといえど冒険者ギルドに依頼するしかなかったのだ。
そしてやってきたのが風魔術師二人組。一人はまだ若く駆け出しと言った風貌で、もう一人は年齢的にはベテランだがどこか粗雑な印象を受ける。ちぐはぐな二人組だった。
値段相応と言うべきか、仕事はちゃんとしているのだがやはり風魔術で土砂をどうにかするというのはかなり難儀な要件みたいだ。大岩は中々転がらないし土砂も水分を含んで重くなったからか固まって風に靡きづらい。風魔術を使えば土砂崩れの表面の砂だけが浚われて視界がさながら砂嵐になって、その度に先程から工事監督を気取っている片割れからの怒声が地面を揺るがす。
「……非効率すぎやしないかい?」
ひたすら風魔術で土砂や折れて流れてきた樹木を地道に撤去する作業を眺めていれば、横にいるテトアがボソリと言った。
「仕方ないだろ。専門のギルドに依頼する金が無いんだから」
「この規模の土砂崩れに2人は無いだろう。何日掛ける気で作業を発注したんだいお前」
と、言われてもだな。
「さあ」
「はあ?」
「とにかく最安値でやってくれと言ったらこうなった。良く分からんがあと5日で片が付く計画らしいぞ」
「……どれだけ愚かになれば気が済むんだい人間って種族は」
テトアも無茶の工程計画と思ったのか呆れ切った眼差しを投げかけられて、俺は肩を竦めた。これに関しては一理あるとは思うが、一つ言いたいのは俺は悪くないということだ。金が無いのは本当だし、5日で出来ると言ったのは冒険者ギルドだ。どう見ても人員も工期も計画倒れしているように見えても冒険者ギルドが出来るというのなら出来るのだろう。知らんけど。
どうあれ早く直して欲しいもんだ。既に食糧や日用品を運ぶリュンネ商会の定期輸送を1度スキップしている。2、3回スキップしたところで備蓄の大勢に大きな影響は無いが、それでも限度はある。
「私がやった方が断然効率が良いな」
思案していれば、テトアは悠々と作業風景を見下して言った。
「なんだ、やってくれるのか?」
「相変わらず頭が悪いね。事実を口にしただけだろうに。それにそんな契約は結んでないだろう、お前と私は」
「俺のも言っただけだ。頼んだわけじゃない」
「ふん。私をこんな廉価な労働力と等価と思う思考それ自体が不愉快だ」
機嫌を損ねたように口元の窪みを深くして鼻を鳴らした。
何故テトアが嫌々と言えどこんな場所で土木作業を見てるのかと言えば当然理由が存在する。
テトアを一泊させた後、俺達はクレスケレスからエンドリッケまでの旅路を地図上に線を引いた。リュンネ経由でなく東のイスレウィッチから渓谷を辿ってオイパル国境を越えてエンドリッケへ向かうルートがある。だが大回りだ。クレスケレス経由で向かうよりも2カ月は追加で掛かるのだから、シュツット街道が修復されるのを待った方が良い。そういうことでテトアはクレスケレスに滞在することを選んだのだが如何せん金も無ければ宿も無い。エウテゥが妙に入れ込んでいるのもあって、仕方無しに俺はこいつを居候させてその代わりに仕事を頼もうって寸法だった。働かざるもの食うべからず、だ。
当然こいつはシュツット街道が復旧するまで連泊することに難を示したが、ここでも強引に反骨心を仕留めたのはエウテゥである。
『───野宿させませんよ? 逃げだしたら……ね?』
そんな抽象的な脅しにテトアはブルブルと立場を分からされた野犬の如く首を縦に振ったのだ。あの短い時間で何をしたエウテゥ。
とまあ、そんな経緯もあって今日はテトアに現場監督をしてもらうことにしたのだ。
「だが本当に手伝ってくれても良いんだぞ。金は払えないがその方が早く終わるだろうし」
「お前の愚考に溜息が止まらないよ。さっきも言った通り、何故私が無償で働かねばならない。馬鹿が」
吐き捨てるようにテトアはケッと言った。美少女な見た目もこの時ばかりはヤンキーのような歪み方をしている。
「提案しただけだよ。故郷に早く帰りたいならそういう手をあるってだけだ」
「それこそ余計なお世話だね。反吐が出る」
「ああそうかよ」
居候の癖に減らず口が止まらない奴だ。ったく、エウテゥが何も言わなければ放逐してたからなお前。逆切れしそうだから言わんけど。俺が平和主義でよかったな。
必死に俺が口を噤んでいると、テトアはそれで何をすればいいんだと言わんばかりに俺を射貫く。
「私はここで立っていればいいのかい?」
「基本はそうだな。後は形だけでも良いから作業終わったら進捗だけ聞いといてくれればそれでいい。ようはサボってないか監視するだけの役回りだしな」
「ふーん。そんな詰まらない業務を私に振るとは贅沢極まりない話だ。効率性という言葉を母親の胎内で欠如してきたド田舎の低能らしい人員配分ではあるがねえ」
「じゃあ今度なんか頭脳労働振ってやるよ。帳簿とか付けれる?」
「余所者の私に財務を扱うような重要な業務を任せるとか正気かい? さながらゴブリンの血潮で煮込んだ脳味噌から考え出されたような一等グロテスクな発案じゃないか。流石だ。諸手を上げて賞賛しよう。馬鹿の極み至れりだね」
「うるせえ! じゃあどうしろと!」
本当に諸手を上げてニヤニヤとじめったい視線を送られて俺は琴線が切れかける。
もう一々罵倒が鬱陶しいなコイツは!
何言うにも俺相手だと絶対に嫌味言いやがって……!
「どうするか考えるのかが領主たるお前の務めだろうに思考放棄するのかい。本当に愚昧だね、呆れ返るよ。こうピクピクとな」
そう言って挑発するようにひっくり返ったカエルの手足を思わせる仕草で両腕を震わせてみせた。
だがそんなのを見るまでもなく、今もなお俺は怒髪天が飛び出さないよう自分自身を律するのに必死だ。
本当俺、なんでコイツを居候させてるんだろうか?
いや分かってる!
エウテゥから頼みこまれたってのは分かってんだが!
理解と納得は別問題だろ!
「はぁ……」
「溜息とは随分と心労を溜め込んでるようだね。脆弱な人間が幾らでも働けるなど思い上がりも甚だしい」
「誰のせいだ誰の」
「話を戻すとだね。エンドリッケの民は交わした契約は破らない。やることは概ね理解した、ここは私がやっておこう」
無言で土魔術を行使して地面を椅子状に盛り上がらせ、そこにぽふりと小ぶりな尻を乗せて、さながら本物の現場監督のようにテトアは鋭利な視線で作業風景を眺める。
……まあ言葉通り、仕事はしっかりと熟すつもりはあるのだろう。この様子を見る限りは。
俺はその場をテトアに任せ、クレスケレスの街へと引き返した。
─── ─── ───
「りょうしゅさまだ~! こんにちわ!」
クレスケレスの中心部までやってくると、そんなあどけない声が俺へと向けられた。
当然俺はこの声を知っている。人口少ないクレスケンスでここまで元気が良い挨拶を俺にしてくる子供など一人しかいないのだ。
「よお、リーナ。お使いか?」
「うん! 野菜が足りないから私が買いに行くの!」
ぱあっと純粋無垢な笑みを咲かせると、全身を使ってリーナは肯定した。
金髪おさげがトレードマークなこの少女の名前はリーナ・ルルニルーナ、街唯一の酒場『リルナの酒場』の一人娘である。くりくりとした緑色の瞳に希望を一杯詰めて、誰にでも嬉しそうに挨拶するその幼く可愛らしい姿は誰から見ても天使そのもの。その天使っぷりは酒場に留まらず、最早住民全員を魅了するクレスケンスの看板娘と言っても過言ではない。住民全員から愛される少女、それこそリーナだった。
「偉いなぁ、クレスケンスの希望の星だよお前は」
俺は頭でも撫でてやりたい気持ちを堪えてリーナの顔の位置まで屈んだ。リーナは照れくさそうにえへへと笑っている。あーもう、盛大に甘やかしたくなるなあ!
「そんなんじゃないよ~! でも言われるのは嬉しいからありがとうだよ、りょうしゅさま!」
「ああ。気を付けて行けよ」
「だいじょうぶだよ! この街に悪い人なんて一人もいないんだもん!」
健気すぎる……!
ホント、こんな良い子がこの世に実在するなんて奇跡と思わざるを得ない。リーナの誕生日をクレスケレス特別記念日にしたいくらいだ。
「それでも町の外から変な人が来るかもしれないからな、用心するように」
「うん分かった! 気を付けるね!」
「ああ、頑張ってな」
じゃあねとリーナはパタパタ走って行こうとして、急にUターンをするとこちらへ声が届く距離まで俺へと近寄ってきた。
なんだなんだと思えば今日一番の笑顔を浮かべて。
「りょうしゅさま、いつも街の平和を守ってくれてありがとうだよ! 今日も頑張ってね!」
そう天真爛漫に言ってパタパタと去って行った。
──────っ!
その姿を呆然と見ながらも俺の心臓が急激に熱を持つ。
込み上げてくるこの感情は高揚感というか、仕事へのやる気というか。
老人ばっかりだし産業は廃れてるし後1世紀もすれば廃村まっしぐらであること疑いようも無いどうしようもないクレスケレスではあるが、それでもこの街を好きな子供が存在すると思うと、まだ捨てたもんじゃねえなクレスケレス。
俄然意欲が湧いてきた。
よっしゃ、今日こそは本気でクレスケレスの金策を考えて解決策を見出してやる!
意気揚々と仕事場である自宅に帰ると、俺は早速書物庫に足を運んだ。
書物庫といっても蔵書数は1万冊にも満たないので中高の図書室よりも規模的には小さいだろう。それでもこの街で最も本が蔵書されている場所と言えばこの書物庫だ。あまり管理をしていないため所々で埃が溜まっており、換気も稀にしかしないからじめっとした古文書の匂いが室内を充満している。
ちゃんと計測した訳じゃないが部屋の広さは約20畳ほど。壁に沿って置かれた本棚の天板は天井とぴったり接しており、中にはぎちりと分厚い本が詰まっていて、入らない物はすぐ側の床に何冊も重なって安置されている。
汚い部屋と言えばそうなのだが、俺としてはそこまでこの書庫が嫌いじゃなかった。親父の鍛錬から逃げるために子供のころから良く逃げ込んでいたからかもしれない。この薄暗くて仄かに片付いていないこの部屋にいると包まれたように安心感が湧くのだ。昔懐かしい記憶だって幾つもある。それこそアステリアとの思い出も。
と、感傷に耽ってる場合じゃないな。
俺はお目当ての本を探して開く。
何度も読んだ本だ。
中身にはクレスケレスの産業の可能性と、経済発展のシナリオについて事細やかに記載されている。既に幾度となく読み返した内容は俺にとっては既知のものであるが、何処かにヒントがあるような気がしてならないのだ。
この本の結びは、クレスケレスの銅山にこそ可能性があると占められている。そう、昔ここら一帯は銅山だったらしい。らしいというのはもう何百年以上も前に閉鉱してしまっているからだ。原因は二つ。一つは銅が効率よく取れなくなったこと。もう一つはその当時、銅山では炭鉱作業者の死亡事故が多かった。しかし蘇生魔術によって死んだ炭鉱作業者を生き返らせて、マンパワーをやりくりしていたのだ。
閉鉱となった最初のターニングポイントは後者であったと言われている。或る時、シードゥス皇国の国教として聖堂教会の経典が採用された。聖堂教会では蘇生魔術は生命に可逆的性を持たせ、それが神への反逆に繋がるとして禁術に位置づけられており、当時の王は騎士団や冒険者ギルドと言った最前線で戦う人間の反対を押し切り蘇生魔術を全面的に禁止とした。それに伴いクレスケレス銅山でも蘇生魔術が使えなくなり、死亡事故多発による炭鉱作業者の減少が拍車をかけたとクレスケレスの歴史書に記載がある。追い打ちをかけるように銅産出量も目減りし、赤字を出す前に早々に見切りをつけて当代の領主は閉鉱としたとか。
しかし、この本の著者は見切りを付けるのが早すぎたと主張している。曰く、本来投下出来た労働力を持ってより深部を開拓すればまだまだ銅を産出する希望はあった。クレスケレス銅山は今も尚金になる山だとか。
───長々と説明してしまって恐縮だが、メインはそんな論旨だ。
だが俺としてはその部分はどうでも良かったりする。
本題は脇に追いやられた部分。銅山以外の一次産業は今のクレスケレスとも状況は似通っている。林業、漁業、農業を中心に何が出来るかを考えた時に、この本のシナリオは参考になりそうなのだ。
当然そのまま引用すれば良いって訳でもない。この本の結論は再度言うように銅山に希望を見出すのが最善策とある。その他の産業については綿密に可能性を検討した上で否定的な論旨の記述となっている。
ただこの本が書かれたのは100年は前のことである。当時と状況が違うからこそ打てる布石は変わってきていて、そこに可能性が存在する気が俺はするのである。具体的に何が良いとか言われるとそりゃ分からんけども。
取りあえず今書庫にある本で一番役立ちそうなのがこの誰が書いたか分からない名前も無い書物なので、領主になったこの3カ月、俺は何度も読み返している。
「スノウ様、またここにいたんですか。せめて執務室に居てください、お客様が来たら苦情が来ますよ?」
「んなもん来ないっての。来ても追い返してくれ、今は決算期で非常に忙しいとか適当に理由付けて」
「会計分野は殆ど全部私に任せてるスノウ様が忙しい訳無いじゃないですか」
暫く書庫の椅子に腰を下ろしてページを捲っていると、重々とした戸が開く音と同時にエウテゥが入ってきた。床で胡坐を掻いて読書に励む俺を呆れた目で見つつ、隣まで来て俺の読んでいる本を覗き込む。
「何か案、思い付きましたか?」
「いや……。参考になりそうな気はするんだがイマイチ具体的な施策に結び付かないんだよな」
「その本結構古いですよね。流石にそこから何か有用な指針を見出すのは難しいんじゃないですかね?」
「エウテゥ、お前クレスケレスでずっと生まれ育って理解してないの?」
「はあ。何をですか?」
「確かにこの本は百年以上前のもんだが、クレスケレスがたった百年で何か変わるような文化の集積地だと思うのか?」
エウテゥは俺の言葉に悩ましな顔をして顎に手を当てた。エウテゥはこの地の若者には珍しくクレスケレスで生涯を過ごそうと考えるくらいに愛郷心が深い方ではあるが、流石に閑散としたド田舎という事実を覆す反論は出来なかったんだろう。
数秒して不承不承と頷いた。
「それもそうですね! まあいいです。スノウ様が本気でクレスケレスのために取り組んでいるのは悪いことじゃないので」
なんで上から目線で語るんだろうかこの臣下は。俺の幼馴染と言えど臣下だろお前は。
とか更に上から不満を垂らすのは格好が付かないと考えて、仕方なく肩を竦めて見せる。
「へぇへぇ。精々エウテゥが安心して暮らせるように頑張りますよ」
「とりあえず執務室に戻りましょうねー。本持って行ってもいいですから」
「ここ俺の書庫なんだけど」
まるで自分の物を貸してるみたいな口ぶりに思わず率直な言葉を漏らしてしまう。
エウテゥは暫し考えるように手を止めると、自分の口に手を当てた。
「そうでしたね……一年前までは違ったのに」
言いながら近くの本をエウテゥは取り出して、表紙を優しくなぞった。良く見れば俺とエウテゥ、それにアステリアが良く読んでいた童話だ。
一年前……まだ親父も生きていた頃だ。親父は几帳面だったから書庫の本を勝手に持ち出す俺を見つけてはその度に大声で怒鳴なって鍛錬と称してキツイ折檻をしてきたもんだ。
エウテゥは俺が親父にしばかれるのを目撃する度に呆れたように溜息を吐いていたが、偶に共犯となる瞬間もあって、それが今エウテゥが手にする童話を書庫の外で読む時だった。この本は俺にとってもエウテゥにとっても思い入れが深い。何せアステリアとの思い出が籠っている。ふとした瞬間にこの本を開きたくなったとき、こんな薄暗い場所で読み返したくないと言う思いが俺やエウテゥにはあって、その時だけ俺達は協力してこの本を外へと持ち出していた。
エウテゥは昔の調子で口走ってしまったのだ。
しかしそんなエウテゥの言葉は文鎮みたいに俺の心の中に勢いよく沈んでは、水面を打った。
たった一年。
それで大きく状況が変わってしまった。
親父が病気で死んで。
エウテゥは本格的に俺の臣下になって。
俺は領主を継いでしまった。
もうあの頃の時間は帰ってこない。
この何にもないクレスケレスでもアステリアとエウテゥがいれば十分だと感じた。安穏としていて充実した時間は過去に置き去りにしてしまった。
ふと、俺はエウテゥがどう考えているか気になった。
「エウテゥはその……あの頃に戻りたいと思うことはないか?」
「あの頃……かあ」
ちぐはぐな手作り感の強い装丁をしたその本をエウテゥは思い出を回顧するように慈愛の目で見遣った。いつの間にかあの頃のように敬語は取れている。エウテゥの表情は仄かな温もりに包まれたみたいに穏やかで、柔らかな瞳がその古ぼけた童話へと揺蕩っている。
「私は……戻れるなら戻りたい。スノウのお父さんもいて、アステリアちゃんもいて。充実してたよね。でも、今はそんな優しい過去に浸ってる場合じゃないと思うんだ……クレスケレスにとって今が重要な転換期でしょ。どれだけ楽しかった過去だとしても、過去に足を縛られ続けて未来が無くなるんだとしたら、私は未来に生きたいよ。だから過去は過去で今は今。私はこの先のクレスケレスをちゃんと真っ向から見据えたい」
言葉では強い意志を秘めつつも、優しい優しい眼差しをしてエウテゥは徐に胸元のネックレスをそっと握った。
……やはりというか、エウテゥはそう言うと俺は思っていた。
「強いなエウテゥは」
「そんなことないよ……やるべきことがあるんだから前しか向けないってだけだから」
「そんなことはない」
俺と違ってな。
見るだけで汚してしまうような気がして、思わず俺はエウテゥから目を反らした。
エウテゥがこの先のクレスケレスの将来に目を向ける隣で、俺は未だに過去に焦点を合わせ続けている。
この三年間、俺の存在価値はアステリアだけだ。
なんならクレスケレスという土地も愛着と言うよりかは、アステリアに対して蘇生魔術を行使するうえで中央から目が届きずらいという価値の下で定着しているに過ぎない。理由が無くなれば俺は容易に故郷を手放すことを厭わないだろう。
「じゃあ俺は執務室戻るから。エウテゥは?」
「私も戻りますよ、スノウ様」
幼馴染モードからすっかり板についた臣下モードに移行したエウテゥに対して俺は胸が一瞬チクリと痛くなる。その上で後ろめたい気持ちから逃れるように俺は席を立った。
───アステリアの蘇生を試みていることをエウテゥには話していない。
青銅教会の教えを信仰しているエウテゥにとって死者蘇生とは考えるまでもなく禁忌だ。
それでも話せば一定の理解を示してくれるのは予想がつく。
だが俺は怖い。
アステリアがいなくなって、親父が死んで、エウテゥとまで喧嘩別れをしてしまうことを恐れている。
理解を示したとしても、それは表面上はそう見えただけで内心では反感を覚えていて最終的に縁が切れてしまう可能性。
1%でも無いと言い切れるか?
言い切れるはずがない。
可能性は真っ白にはならない。
だからこそアステリアの蘇生の件は、現実となるまではエウテゥには秘密にしておく。
そういうわけで、この三年間エウテゥには申し訳ない感情をずっと持ち続けているわけだ。
一旦ここまでとなります。
良ければ評価お願いします。