蛇の心、世知らず 作:猿を継ぐ男
わたしが魔法力に目覚めた夜は、それはもう散々な目に遭いました。
お恥ずかしい話ですが、わたしは十五歳という節目をなぜかとても大事なものだと感じて、マグルが行える最大の記念的行動を取ることにしていたのです。つまり、日付が変わる瞬間に大地から数瞬のみ足を離す行為……そうです、ジャンプです。
独り自分の部屋で夜更かしをして、時計の秒針に合わせベッドの上から床へ、わたしは跳びました。ただし、折悪くシーツに足を滑らせる形で、頭から。
わたしの運動音痴っぷりはわたしがよく知っていましたが、いくらなんでも、十五歳の誕生日にこんなバカな怪我をすることになろうとは! 妙になめらかとなった頭の中では、なめらかになっただけの無意味な思考が空転していました。
────汝の角度と体勢を見るに、汝は首を折って死ぬであろう。
スローモーションのようにゆっくりと淀んだ視覚は、やがてそういった未来絵図を直感めいて教えてくれました。とはいえ、何ら足掛かりのない自由落下の状態から脱するのは至難です。少なくとも、マグルにはどうしようもありません。
わたしは目を瞑るしかありませんでした。
────諦めるのか?
この時の感覚は、今でも奇妙に感じます。
まるで
────信じろ。
────二秒後の生を、十年後の栄光を、五十年後の幸福を。
────汝は我、我は汝。過去も現在も未来も、汝の傍らに在るもの。
────忘れるなかれ、愛しき■■■!
そうして、わたしは宙に浮かびました。
◇
「ほう、蛇か。悪くない判断だろう」
ナギニさんのケージを抱えて合流したわたしに、スネイプ教授は開口一番こう言いました。
社交辞令ではなく、本心から蛇が好きなように思えます。
「少し前に祖父の本を読んだのですが、蛇の言葉を話せる魔法使いもいると聞きます」
「
「世間では忌まれているらしいですね」
「“闇の帝王”がそうだったからだ。以前からスリザリンの象徴ではあったが……」
「イメージが悪くなってしまった、と」
「そうだ」
仏頂面に隠れながらも、わずかに目を伏せて話すスネイプ教授の様子には、言外に複雑な心境が映し出されていました。
ホグワーツ四大寮の一角にして、闇の魔法使いをもっとも輩出しているスリザリン。その卒業生であり寮監であるからには、やはり様々な事情や物語や苦労があったのでしょう。
そこまで考えて、ふとナギニさんの症状についても聞いてみることにしました。
「そういえば、蛇に変わって戻れなくなる呪いもあるらしいですね」
「変身術の分野ではポピュラーな事故ではある。呪いの特性を備えている魔法はあまりないが。それがどうしたのかね?」
「いえ、何でも。ただこの蛇、やけに賢いように思えて」
ふふっとナギニさんが吹き出すような笑いが、ケージから聞こえてきました。
「ふつう、蛇に変化して戻れない場合は知性も相応に退化するものだ。仮に知性が残っているのなら、実際は自由に戻れる
「高度で、古い呪い……」
「それこそ、ダンブルドア校長でも解呪は困難な類だろうな。そんな例はほぼ無いものだが」
アルバス・ダンブルドア。ホグワーツ魔法魔術学校の校長で、世界で唯一“例のあの人”に対抗できると言われた偉大な魔法使いです。
彼の叡智と力を以てしても困難であるのなら、ナギニさんを人間に戻すのはほとんど不可能に近いということでしょう。
とはいえ、諦める理由にはなりません。
◇
「さて、次は本屋に行きましょう」
わたしは気を取り直して、向かいの店を指差しました。スネイプ教授はもはや異議を挟む気がないようでした。
ナギニさんのケージをトランク(これも財布と同じように、空間が歪められています)にしまうか少し悩み、店員に何か言われてからでいいだろうと思い直します。彼女もきっと、外の空気を久方ぶりに吸っていたいでしょうし。
フローリシュ・アンド・ブロッツ書店には何度か来たことがあります。以前とあまり様子は変わっていないようで、相変わらず静かな雰囲気が流れている場所です。
わたしはとりあえず指定の教科書を揃えた後、『O.W.L対策』と書かれた参考書を片っ端から買い物かごに放り込んでいくことにしました。
どばどば、どさどさ。どさどさ。どばどば。
『あなた、そんな無造作に突っ込んでたら腕が折れるんじゃない?』
そんなナギニさんの声が聞こえてきたので、独り言のふりをして答えます。
「大丈夫です。わたし、実は腕力強いので」
『あら、そうなの』
実際、わたしの身体能力は不思議なほど高いです。運動センスが壊滅的なので、力仕事はできてもスポーツはできなかったのですが。
これも魔法使いとしての特質なのかもしれません。
概ね必要なものを揃えたところで、趣味の本を覗くことにしました。この半年で祖父の蔵書をたくさん読んだので、魔法界の読書は胸を張って趣味と云える楽しみになっています。
わたしは魔法史と魔法生物の分野が好きです。
魔法理論はまだ実践が伴わず、娯楽分野はマグルの方が優れています。世間では大人気らしいギルデロイ・ロックハートの伝記など、素人眼に見ても誇張が過ぎるように感じます。
そんなわけで、魔法史の棚に向かいます。お目当てはバチルダ・バグショットの新作です。
少しうろうろして、辿り着くとそこには小さな先客がいました。
せっかくなので、話しかけてみます。
「それ、面白いですか?」
「……あなたは?」
先客は、ブロンドの髪と青白い肌が特徴的な、感受性が豊かそうな少年です。細い腕(わたしが言えた筋合いではありませんが)で分厚い書籍をめくっています。いくぶん重そうに見えました。
「ああすいません、怪しい者ではないのです」
「怪しいのは事実じゃないかな」
「わたしはエイリアス・ストーリーと申します。恥ずかしながら、ホグワーツの新入生にあたります」
「新入生…………?」
少年は狐につままれたような顔で、わたしの背格好をじろじろと視線を往復させています。
推し量ったわたしの年齢と、常識との齟齬により困惑しているようです。
「わたしも戸惑っているのですが、五年次からの編入にあたります」
「五年から……ああ、そういうことか。そういえば、そういう特例措置を承認させられたと父上が仰っていたっけ」
「お父様はえらい人なのですね」
「栄光ある聖28一族の一つ、マルフォイ家当主さ。ホグワーツ理事の一人でもある。そして僕がその嫡男、ドラコ・マルフォイだ」
得意げな顔で、少年は名乗りを返しました。
「えーと、あなたも新入生ですよね。その雰囲気は」
「そうさ」
「じゃあ、これからよろしくお願いします。で、その本なんですが……」
「よろしくするかは、あなた次第だね。ストーリーとは聞かない姓だけど、純血の旧家かい? もし“穢れた血”の分際で僕にすりよろうってなら、無駄な試みと言わざるを得ないけど」
「ああ、あなたは純血主義の方ですか」
「その通り」
高慢な口調と、“穢れた血”という差別用語(本で読んで知りました)を平気で口にする価値観。
あまりにも時代遅れの選民思想だったので最初は冗談かと思っていたのですが、案外こういった人物は多いようでした。
とはいえ、賛否を強調するほどわたしはこの思想に関心がありません。
「わたしの両親は……たぶん、魔法使いです」
「たぶん?」
「グリンゴッツに口座が残ってたので、おそらく」
「ははあ、なら少なくとも“穢れた血”ではないんだな。それなら最低限、僕と会話する資格くらいはある」
「そうなんですね。で、その本は面白いですか?」
「……そこそこだね」
どこか恥じるように、ドラコは持っていた本を棚に戻しました。
わたしは新聞広告を見て知っているのですが、あれは純血主義にどっぷり浸かった著者の新刊です。第三者による言説により、彼はきっと価値観の再確認を行っていたのでしょう。
それか、著者とのわずかな思想的差異を探していたか。仲間内ですら格付けやら何やらで揉めるのも、選民主義ではありがちな動きです。
わたしはぼんやりとした好奇心に駆られ、少し問いを投げかけてみることにしました。
「ドラコはマグルが嫌いですか?」
「……嫌い、という形容は正確じゃないな。下等な存在を下等だと扱うのに、そういった感情は要らないんだ」
「では、マグル生まれは?」
「そっちは嫌いかな。下等な生まれのくせに、僕たちの高貴な血を侵してくるんだから」
「では、あなた方と交わらなければそれでいいのでは?」
「そうもいかない。血統も能力も劣っているのに僕たちの猿真似をするんだ、許せないだろう」
「なるほど」
ドラコとの会話を通じて、平均的な純血主義者の思考を知ろうとする試みはここまで成功していました。
わたしが次の言葉を探そうとして、別の声に割り込まれた時までは。
「────滑稽ね、“血を裏切る者”」
自分でも奇妙な感覚だと思うのですが、その女性の声は
ぱっと振り返ると、不思議な青い光がちらついて消えました。人の姿はありません。
ドラコに向き直ると、少しばかり硬直していました。わたしと同じく、突然の声に驚いたのでしょう。わたしが何度か声をかけると、はっと世界が動き出すように我に返りました。
「今のは、何だったのでしょう」
「今の? さあ、世間話じゃないか?」
何となく出鼻を挫かれたような気分になって、わたしは会話を終えることにしました。
「そういえば、マグル生まれの能力が劣っているという研究はどの文献をあたればいいのですか?」
「……研究? 文献?」
空の青さに根拠を聞かれたような、不思議そうな表情で問い返すドラコ。
その顔を見て、わたしは彼の“常識”をおおむね推し量れたような気がします。きっと、彼は彼の両親や周囲の人間から純血主義という“常識”を受け継いだのでしょう。
その思考がいずれ変わっていくのか、そして間違っているのかは、わたしの知るところではありません。
わたしから見れば怪しげな考え方ですが、彼らにとっては論ずるまでもない厳然たる事実なのでしょう。
人の“常識”、あるいは“世界”と呼ぶべき価値観はそれぞれが尊重されるべきものです。
わたしの感情や利害と衝突するのなら、わたしが彼の“世界”を打ち砕くこともあるでしょう。しかし、今は違います。
それにたぶん、彼と対決すべき者がいるとするならば、わたしではありません。おそらく、教師でもなく。また“生き残った男の子”でもないと思います。
わたしが思うに。
個人の“世界”を真に打ち砕く他者は、その相手と対照であるべきなのです。
たとえば、マグル生まれの秀才少女のような。
『若いわね、やっぱり』
手持ちのケージから、見透かしたような(もしくは呆れたような)声が響きました。
◇
◇
◇
◇
ホグワーツの校長室には、時折奇妙な青年が訪れる。
その噂は“秘密の部屋”や“特急の販売員伝説”と同じく何十年と語り継がれていて、同じように真実の一面を伝えていた。
応接スペースのソファに寝転ぶ青年は若々しく、黒い髪には老いの一つもない。
だというのに途轍もない叡智と老獪さを感じさせ、信じられない気安さで部屋の主を呼ぶ。
「突然の来訪すまないね、
「あなたに関してはいつものことじゃろう、
相対する老人は、こちらも類を見ないほど遠慮のない口調で返す。
白い髪、白い髭、青い瞳に折れた鼻。いかにも魔法使い然とした老翁で、実際に最も著名で偉大な魔法使いの一人である。
名を、アルバス・ダンブルドア。
「して、今夜の用は何かのう」
「孫の件だよ、私の。礼と労いを言いに来た」
「ああ。ルシウスめを説得するのは大変じゃったよ」
「ルシウス……今のマルフォイか。ありゃ意外にやり手らしいな、はは」
ラウールと呼ばれた青年は軽く笑い、そしてすぐに表情を引き締めた。
「孫を……エイリアスをよろしく頼んだ」
「大丈夫じゃ、任せておいてくれ」
そうして青年と老人は視線を合わせ、どちらからともなく微笑む。
彼らの絆を、物語るように。
「────よし、それじゃあ呑もうか。あと最近日本語の新訳も出たし、もらっておいてくれ」
「わしは呑まん」
「知ってる。私だけ呑むから。そうだ、ランロクから奪った金で買った100年物のワイン開けちゃおっと」
「………………」
老人はため息をつき、青年はトランクから瓶と本を取り出した。
知られざる彼らの絆は、確かなものだ。
たぶん。きっと。
「ああくそ、『アンベール夫人の金庫』がまた半端な順番に並んでやがる」
そう呟く青年の正体を知る者は、限りなく少ない。
◇登場人物紹介②◇
ラウール・ダンドレジー
エイリアスの祖父。まだ言うほど紹介できるところがない、詳細不明の怪人物。
まだ本編では言及されてないがダンブルドアより歳上なので、血統的には義理の可能性が高い。
外見上若さの理由は不明だが、年甲斐もなくニンファドーラ・トンクスと仲良し。