そして、次の日。
南と喜子達は姫路から新幹線「ひかり」に乗って小郡へやってきた。
「へぇー、SLやまぐち号か。」
「うん、ワクワクしてきたわ。」
「喜子ちゃんも嬉しそうずら。」
と、花丸は言った。
「わぁ、本物のC57だ。」
「ああ。」
「僕、これは貴婦人って呼んでるんだよ。」
「へぇー、何でも知ってるのね。」
「うん。」
そこへ、津和野行のSL「やまぐち号」が入線してきました。
「わぁ、C57だ。」
「貴婦人だ!。」
と、鉄道オタクたちも人気者だ。
「じゃあ、早く乗ろうか。」
「うん。」
「早く乗ろうよ。」
プォーッ
と、警笛を鳴らした。
梨子は、カメラで写真を撮った。
「梨子ちゃん、早くしないと乗り遅れるわよ。」
「うん。」
そう言って、南と喜子達は10時37分発のSLやまぐち号に乗って津和野へ向かって走り出した。
そして、警笛を鳴らしてSLやまぐち号は小郡を発車しました。
「うわー、ロマンチックだわ。」
「うん。」
「何か、昔話の気分だわ。」
と、メイは言った。
「小郡から津和野まで走るのよ。」
「うん、何かワクワクしてきたわ。」
「こんな列車に乗れるなんて、夢みたい。」
「本当だわ。」
SLやまぐち号に乗っていたら、ところが事件が起きるとは予想もしなかった。
「見て、鉄橋だわ。」
「ああ、あれは長門峡よ。」
「凄いわ。」
12時30分、かのん達が乗ったSLやまぐち号は津和野に到着した。
「ついに来たわね、城下町津和野に。」
「ここまで、来たんだね山口から島根県に。」
「うん。」
「とにかく、津和野へ行ったら観光しましょう。」
「うん。」
南と善子と梨子たちは本町通りへやってきた。
本町通り
掘割に色鮮やかな鯉が泳ぐ「殿町通り」、商家や酒蔵などが立ち並ぶかつての商業区「本町通り」。いずれも城下町の名残りが深く刻まれた、津和野観光のメインストリートです。日本遺産のまちとしても知られる町並みからは、建物だけでなく、史跡や細い路地など、時の流れも緩やかに往時の文化にふれられます。
太鼓谷稲成神社
江戸中期の1773年(安永2年)、津和野城の鬼門にあたる方角に、7代藩主「亀井矩貞」(かめいのりさだ)が城の鎮護と藩の安泰を祈願して建てた神社。信仰者により奉納された約1,000本の鳥居が並ぶ様は壮観です。この「太鼓谷稲成神社」(たいこだにいなりじんじゃ)は、日本五大稲荷神社のひとつ。年間の参拝者は100万人を超えると言われ、その数は島根県内では出雲大社に次ぐ2番目を誇ります。なお、通常「稲荷」(いなり)と記すところを「稲成」としているのは、願いごとがよく叶うようにという願望成就・大願成就の意味が込められているとのこと。何か叶えたい願いごとがある歴女の方には、ぜひ訪れていただきたい神社です。
「わぁ、キツネのお面がいっぱいだわ。」
「本当ね。」
「じゃあ、お参りしようか。」
と、梨子は言った。
津和野城跡
標高362mの霊亀山上に築かれた中世の山城跡で、津和野の町を展望するのに最適の場所です。なだらかな青野山の山すそに広がる家並みと、その中をゆるやかに流れる津和野川を一望できます。城跡の石垣が朝霧に浮かぶ姿は、まるで「天空の城」です。紅葉の時期もおすすめです。
太皷谷稲成神社の参道からリフトを降りて徒歩20分で頂上に到達します。現在は建造物は何もありませんが、石垣はほぼ完全な形で保存されており、石組の堅固さ雄大さは比類のないものです。
吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間の後は、明治維新まで亀井氏が11台225年にわたり城主として 在城しました。貞享3年(1686)に落雷のため焼失し、その後再建されることもなく、明治7年(1874)に石垣を残して解体されました。
「うわー、凄いわ」
「長めがいいわね。」
そして、南と喜子達は太鼓谷稲成神社と津和野城を見物をした。
長門峡
そこへ、3人の少年が長門峡付近で遊んでいた。
「ん、何だあれは?。」
「おい、どうしたんだよ。」
「わっ。」
何と、人が倒れて頭から血を流して死んでいたのだ。
「し、しし、死んでる!。」
「わぁーっ!」
そして、事件が起きた。
そして、犯人は誰なのか?