化身が去ってからもしばらくの間、ディエゴらは動けなかった。残り香のように、人を圧する気配が濃密に漂っていた。
「……ぷはっ!」
最初にその静寂を打ち破ったのはイザベルだ。口を塞いでいた手を離し、ぜぇぜぇと肩で息をする。
「食べられないように、息止めてました!」
一気に空気が弛緩した。苦笑しながらディエゴが言う。
「分かるぜ。目を付けられたら終わりだと思うよな。ありゃあ、関心を持たれちゃいけない類いのやつだ」
神でも悪魔でも、超常の存在に目を掛けられた者は、大概語りたくもない末路を迎える。否、人が関わるには過ぎた存在をそう呼ぶのだから、因果が逆なのかもしれない。
ディエゴは手の甲で額を拭った。オセロが赤の飾り紐がついた小さな布を差し出す。
「でも、化身様はディエゴにすごく関心があるみたいだよ。それに、ディエゴが竜星軍と戦うのにも賛成してるみたいだったね」
「最悪だ。つーか、喋るのかよって感じだ。変な声出そうになったわ」
「私も初めて聞いた。不思議な声だったね……」
ディエゴは当たり前のように差し出された布で汗を拭い、そのまま懐にしまった。きょとんとした顔のオセロに言う。
「汚しちまったな。王島には良い仕立屋がある。向こうで代わりの買ってやるから許してくれ」
「ええと、王島っていうと……その……いいの!?」
オセロは表情をぱっと明るくした。
「あ! 師匠! 私にも何かください! 何でもいいので!!」
「路上の貧民ですらもっとマシな乞い方するぞ?」
「おかしいですね。私、めちゃくちゃ貰いが多かったのに」
「容姿だろ」
元気よくねだるイザベルに、ディエゴの顔色は完全に戻っていた。
撃鉄を戻し、拳銃をホルスターに戻す。イザベルもマスケットから雷管を外した。三人が話しているのを見ていた職人《カマヨ》が口を開く。
「おい。王島とやらに行くのか?」
「おう。この島の空は、化身様が守ってくださるらしい」
ディエゴはポケットに手を突っ込みながら答えた。職人が頷く。
「トナ・テスカトリクエ様が背中を押した戦いだ。否やはない。すぐに出るのか?」
「支度ができ次第飛ぶ」
「そうか。では、その支度にもう一つだけ加えて貰おうか。渡したい物がある」
◇
互いに時間がかかることを確認し、ディエゴたちは一度解散した。
それぞれが自己流の準備を整えていく。
竈の上では、雑多な穀物が土器でぐつぐつ煮られていた。ディエゴの指示によるものだ。
竜星軍との交戦が始まれば、のんびり食事している時間はない。雑に口に突っ込める携行食を用意しておく必要があった。
ディエゴはイザベルを真っ直ぐ立たせ、ベルトやポーチなどの装具を指さし確認する。
「薬包がべたべたになるまで脂塗っとけ。暴風雨の中で戦うことになるぞ。こことか、革にヒビ入ってるところにも脂突っ込んどけ」
「ひぇぇ、不快なんですよねえ」
「もちろん耳にも入れるぞ」
「最悪です!」
竜星軍が起きれば、空の環境は最悪となる。横殴りの強い風雨に無対策で臨めば、耳の中に水が入り炎症を起こしてしまう。
完全な防水素材が存在しない以上は、飛行帽の耳当てか耳の穴に脂を塗り込む必要があった。
もちろん、べたつく上に嫌な臭いがする。不快だが、諦めるしかないものだ。
「ディエゴ、お粥できたよ?」
「おお、助かる。冷やしたらチチャと混ぜて革袋に詰めるか」
トウモロコシの醸造酒であるチチャと混ぜることで、腐敗を防ぎ、アルコール発酵に切り替えることができる。寒冷な上空を移動していくことを考えれば、あまり高い度数にもならない。
「作りかけの酒」というのは、空を旅する戦士にとって大事な水分であり、大事な食料源だった。
水、食料、武器弾薬に装具。全てを点検した後、ディエゴは自分の飛行帽をオセロに差し出す。オセロは受け取ると、ジャッカルの被り物を手渡した。
ジャッカルの口の奥に、ディエゴの鋭い眼が覗く。
「師匠、なんか怖いです。一〇人くらい殺してそうです」
「もっと殺してるから安心しろ」
「ひぇぇ」
ディエゴはジャッカル帽子を撫でながらスンスンと鼻を鳴らした。不快そうに眉をひそめる。オセロが申し訳なさそうな顔をしながら、受け取った飛行帽を被った。
「ごめん、臭いよね」
「まぁ、獣の皮だもんなぁ……」
「どうせ戦ったらみんな臭くなるので一緒ですよ!」
やけに元気なイザベルが、一足先に外へ飛び出す。
家の近くに繋いでいる竜たちのそばで、職人《カマヨ》が待っていた。
「お嬢ちゃん、これ持ってけ」
渡されたのは、何の装飾も施されていない、単純な黄金の球体だった。急拵えらしく飾りっ気はないが、非常に滑らかで正確な球だ。
何発か入った巾着を受け取り、イザベルは満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう、おじさん!」
「おうおう」
遅れて出てきたディエゴがわざとらしく不満げな態度をとった。
「俺には何かねぇのかよ」
「ある」
「嘘だろおい。あんのかよ」
ディエゴに渡されたのは、穂先にねじくれた緑の角が使われた投げ槍だった。
「竜角槍。いいのか?」
「知っていたか。必要だろう、使うと良い」
「恩に着る。必ず帰ってくる」
ディエゴと職人は拳を突き合わせる。
最後に出てきたオセロが、小さく頷いた。
「いつもありがとうね」
「ようやく整備が終わった」
オセロのドラゴンは、前肢の指に金色の輪を嵌められていた。青銅のナックルダスターである。
三者三様の強化装備が、ナステカの職人によってもたらされた。
竜騎士たちは、それぞれの愛竜に跨がる。一番明るい表情を浮かべているのは、イザベルだ。
「イザベル。なんか嬉しそうだな。大活躍して見せつけてやるつもりか?」
「違いますよ。師匠が臭いからです!」
「はぁ?」
「ふふふん!」
イザベルは第二竜騎士団で、ずっと一人で戦っていた。当然、すれ違う誰もがイザベルよりも小綺麗で、清潔だった。
傷、汚れ、臭いとは、積み重ねた貢献の残滓だ。だが、快適な屋内で過ごす者に、汗の価値は伝わらないのだ。
だからかもしれない。イザベルは目を輝かせながら、飛行帽の耳当てに脂を塗りたくり、べたりと耳に貼り付けた。
「久々に、皆で出撃って感じがするんです!」
◇
この日。薄明かりの下で王島は静かに震えていた。
肌を焼くような日差しと、砂が混じる風――それら王島の日常はなりを潜め、非常の霧雨がすべてをしっとり濡らす。
大きな荷物を背負った避難民たちが、俯きながら粛々と同じ方向を目指し歩いていた。
揃って地を踏み鳴らす足が向かう先は、王都の外縁に位置する教会の荘園だ。
荘園の地下には、広大な共同墓地――カタクンバが存在する。土を掘り起こし、その下の砂岩まで掘り抜いた、洞窟のような墓地だ。
空からの襲撃を、地下に潜ることで凌ごうとする避難民。その流れに乱暴に逆らう者たちがいた。第二竜騎士団長エルナン・デ・バルボアと、付き人の竜騎士たちだ。
エルナンが丸い拳を振り上げながら怒鳴る。
「どけ! どかんか! 撃たれたいか!?」
竜騎士たちが見せつけるように、繊細な彫刻の入ったライフルを掲げる。避難民は怯えた顔でぞろぞろと道を譲った。
エルナンはすれ違う老婆に唾を吐きかけた。
「最初からそうしておけ、これだから平民は頭が鈍くて敵わん。厠の糞を食っているから、頭に蛆が湧いているのだろうな」
周囲から殺気の籠もった視線が向けられた。
塩が貴重な中で、
平民を銃口で威嚇しながら、竜騎士が問う。
「しかし、バルボア卿。どうしてまた、カタクンバに香辛料なぞを隠されたのですか?」
彼らは地下墓地に胡椒やクローブ、カルダモンなどの香辛料が入った瓶を隠した帰りだった。
「簡単なことだ。王島が残れば、あれらは大きな価値を持つ。それこそ屋敷なんぞよりな。だが王島が落されるようなことがあれば、もはやゴミも同然。植民列島には唸るほどあるのだからな。だからこそ、持ち歩かずカタクンバに隠したというわけだ!」
「なんというご慧眼! お見それいたしました!」
「植民列島用の金細工はちゃあんと身につけているぞ。なははははは!」
竜騎士の分かりやすいおべっかで、エルナンは上機嫌に笑う。
彼らとすれ違った避難民の少女が、雨に濡れた目元を拭いながら、空を見上げた。
分厚い黒雲が空を覆い尽くし、不吉な雷鳴を響かせている。
「太陽が食べられちゃったみたい」
少女の呟きは、誰の耳にも届かなかった。
◇
エルナンの下らない資産運用など露知らず、第二竜騎士団の詰め所では、竜星軍迎撃の準備が進められていた。広い更衣室の壁際に並べられた木箱の前で、各々が着替えや銃の動作確認をしている。
ペドロはレザーのツナギに、入念に薄く脂を塗りつけていく。隣で同様の準備をしていた若い男が首を傾げた。
「あれ? 竜火薬って濡れたらマズイよな?」
「マズイ。濡れたらというより、竜火薬同士の隙間に水が溜まったら撃てないか……撃てても銃身が破裂する」
「げげっ。俺、旧いマッチロック式なんだけど」
マッチロック式というのは、いわゆる火縄銃のことだ。
「なんでそんな骨董品を……」
「バルボア家と違って貧乏貴族なんだよ」
「せめて、なんかで覆った方がいいと思う」
「それしかないかぁ」
緊張とも違う、妙に弛緩した空気が流れていた。この中に、実際の竜星軍と戦った者は一人もいなかった。
装具の確認をしていた竜騎士が、ランタンを吊るベルトをガチャガチャ引きながら大声を上げる。
「おい! なんだよこれ、虫に食われてるじゃねえか!」
「こっちじゃ銃が錆びてやがる。撃鉄落ちねえぞ」
別の竜騎士も不機嫌そうに唸った。
あちこちで装備の不備が起きているらしく、不満や疑問の声が次々に上がる。
「なんでこんなことになってんだ」
「誰も整備してねえのかよ!」
「おい、ペドロ。最後にここ使ったのお前だろ。知らないか?」
ペドロは小さく舌打ちをした。立ち上がり、鋭い口調で言う。
「知るかよ。というか、装備品の手入れは各自だろうに。なんで自分で確認してないんだよ」
問いかけた竜騎士は狼狽えた。
「なんでってそりゃあ……あ。あのガキがいなくなったからか」
「いなくなったんじゃなくて、やらせてたから、だろ」
「み、みんなそうだったろ!」
「少なくとも、僕は自分でやっていた。だから、僕の装備は全部動く」
「なんだよ、俺らが悪いとでも言いたげじゃねえか」
「その通りだよ」
ペドロと騎士は数秒の間睨み合う。今にも殴り合いに発展しそうな、冷えた空気だ。
膠着を打ち破ったのは、警鐘が打ち鳴らされるけたたましい音だった。甲高い連続音に、両者ともびくりと肩を上げる。
「来たか」
ペドロはランタンのカバーを開き、ガラスの小瓶から竜酸を垂らした。すぐに蓋を閉める。パチパチと沸いて弾ける音が響いたあと、ぱっと炎が灯った。
獣脂を燃やす臭いが広がる。慣れていない竜騎士たちは眉間に皺を寄せた。
「先に出る!」
厩舎に向かい一足先に飛び出したペドロは、急激に強くなった雨脚に怯んだ顔をした。落ちる雨粒が、はっきり目に見える大きさだ。豪雨が水たまりを叩く音は、それだけで危険を予感させる。
昼間だというのに、白く煙る世界はランタンを灯しても見通せるか怪しいものだ。
ペドロは恐れを振り払うように、首を左右に大きく振ってから、駆け足で厩舎に向かった。