王都のそば。スラム街に地下墓地などという大層なものは存在しない。
地べたに直接建てられたバラックは、容赦ない豪雨に沈もうとしていた。この地で唯一まともな建物といって良い粗末な教会も、例外ではない。
足首の高さまで水に浸かった礼拝堂で、サンチョは胸に手を当てた。
「なにかと都合良く事が運びましたね。これもご加護でしょうか」
多くの貧民がいたはずのスラム街には、サンチョ司教以外に人っ子一人いない。
早い段階で教会を通じて一般市民の避難を誘導し、空き家になった建物に貧民を潜り込ませたのだ。
「主よ。墓地にすら招かれぬ孤独な者たちに、せめてもの慈悲を」
サンチョは説教台の上から、白い革の飛行帽を手に取った。
祭壇前に置かれた燭台から脂をとり、耳たぶを縁取るように厚く塗りつける。飛行帽を被ると、法衣の前をはだけた。
革のツナギ。吊り下げたランタン。そして、対竜単発式リボルバー『ハトメ抜き』が姿を現す。
「おいでなさい、バアル」
轟音を立て、祭壇が崩壊した。粉々になり剥がれ落ちた壁。その向こう側から、深緑色のドラゴンが姿を現す。
手足に鎖を巻き付け、角が折れたドラゴンだった。
島落としに匹敵する巨体だ。しかし、サンチョを見る目には、恐れの色が浮かんでいる。様子を窺うように、おずおずと足を踏み出した。
サンチョは柔和な笑みを浮かべる。
「恐れることはありませんよ。久しぶりに空を飛ばせてあげましょう」
妙な臭いの泥水すら厭わず、ドラゴンは床に伏せた。サンチョが悠々と鞍に跨がる。
「知らしめましょう。騎士団に守られぬ者たちのために……主の手が届かぬ場所にいる者たちのために、我ら僕がいるということを」
手綱を一振り。ドラゴンは翼でサンチョを包みながら、力任せに教会を打ち砕いて飛び出した。風が濁った水面を一直線に切り裂く。
ランタンの光に照らされ、灰色の法衣が朱のマントとなってはためいた。
◇
「どけやゴラァ!」
「主の許《もと》へ送られてぇのか!?」
「主の御意思だカスゴラオイ! 背信の者か? 異端審問されてぇのか!? ケツから焼き鏝《ゴテ》突っ込まれて背骨ゴリゴリされてぇのか!?」
第二竜騎士団が管理する尖塔で、鈍い音が響く。
フルプレートアーマーの集団が、鉄製のガントレットで警備の竜騎士を叩きのめしていた。
鈍く輝く拳から返り血をぼたぼた垂らす彼らは、十字に染め抜かれた白いマントを背負っている。
階段の上段で最も元気よく暴力を振るっているのは、フランシスコ枢機卿だった。とても高齢とは思えぬ元気さで、竜騎士の前歯を吹っ飛ばしている。
血に塗れたガントレットを突き上げ叫んだ。
「この塔は、これより教会騎士団が使用する! 砲を運び込め!」
教会騎士は、これまた金属で覆われた爪先で竜騎士を蹴り飛ばす。
法衣を身に纏う神官たちが青銅の砲を担ぎ、尖塔を登っていった。竜騎士は腕で頭を庇いながら、ただ震えて乱暴狼藉を見守ることしか出来ない。
砲の設置を確認したフランシスコ枢機卿は、大きく頷いた。
「次の設置場所に向かうぞ! 地上に降りれば不敗と思い込んだ傲慢なドラゴン共に、神の鉄槌をブチかましてやるのだ!」
教会騎士団が吼える。全員目が血走っていた。
紛れもなく、精兵と呼べるであろう。彼らは戦働きを、誰よりも待ち望んでいたのだ。
◇
第一竜騎士団のワイバーン部隊は、既に高高度で竜星軍を待ち構えていた。
騎竜の体力を温存するように、乱気流に身を委ね、木の葉のようにふらふらと旋回し続ける。
「なるほど、体が重たい!」
第一竜騎士団長セバスティアン・デ・レオン将軍がぼやいた。
抜いた大ぶりなナイフで、ツナギの足首に穴を開ける。ざぶざぶと水が噴き出した。首元から入り込んだ雨水が、ツナギの内側をしとどに濡らしているのだ。
「団長、火薬濡れてませんか!」
近くを飛ぶ竜騎士が叫んだ。
「なんだ! 聞こえん! 声が小さい!!」
「お前がデカすぎるだけだろ。普通こんな状況で声通らねえよ――火薬!! 大丈夫!! ですか!!」
「悪口だけ聞こえたぞ! がはは!」
「ざっけんな!」
レオン将軍は油紙に包まれた竜火薬を見せつける。
「わからん、撃ってみればわかる!!」
「了解!」
竜騎士は敬礼だけし、素早くレオン将軍から距離をとった。第一の竜騎士は判断力も優れている。
「各自、自由に撃て! 流れ弾は諦めろ! 水平戦闘も意識しなくていい!」
レオン将軍は割れ鐘のような大声で怒鳴った。
彼らワイバーン部隊の目には、雷雲から覗くドラゴンの群れが見えていた。雲の内側を雷光が照らすたびに、竜のシルエットがチカチカと映るのだ。
竜星軍の先陣を切るのは、滑空の制御が甘い若いドラゴンの群れである。真っ黒な体色の、小柄なドラゴンが雲の谷間から飛び出した。
小型のドラゴンは翼を畳み、急降下によって竜騎士を襲う。ワイバーンに跨がる竜騎士は、ひらりと身を躱した。
「小さいのは下に任せて良いんですよね!?」
「あのくらいの奴は歩兵部隊に任せておけ! 落ちたら手に負えないのをやるぞ!!」
大物を受け止めるための、目の粗い網として第一竜騎士団は空に居座る。彼らの目的は、竜星軍の本隊となる島落としだった。
第一竜騎士団が見逃した小型のドラゴンが落ちる先で、剣山のように槍の穂先が並び立つ。
歩兵隊。
一人二本の投げ槍だけを持ち、生身で竜を迎え撃つ、最も死傷者の多い平民の部隊だ。その先頭にカスティラ王国で最も高貴な男がいた。
ナスパーニャ三世は、足首まで浸かる泥水に自身の足で立ち、投げ槍を掲げる。
「
◇
竜星軍。その先鋒が落ちてくる様を、王は口角を吊り上げながら眺めていた。王の背後に並ぶ兵たちは、歯を食いしばり投げ槍を強く握り締める。
小型のドラゴンは空中で翼を畳み、体をくるりと丸めた。闘竜状態のように、全身の筋肉を怒張させる。
着弾地点は、歩兵部隊のすぐ近くだ。
不細工な球体となったドラゴンが、三階建ての建物に突き刺さった。
轟音に合わせ、壁が撓《たわ》み膨らむ。内側に引きずり込まれるように、上から順に崩れ落ちた。
一瞬だけ巻き上げられた砂塵が、すぐに雨に叩き伏せられる。
破壊の衝撃も水に吸われ、辺りには雨音だけが残った。
首をすくめていた兵たちが、恐る恐る崩落した建物を覗く。王は兵たちの心に忍び込もうとする弛緩を断ち切るように、投げ槍を振り下ろした。
「出てくるぞ。投槍準備、構え!」
まごつく歩兵たち。王は落ち着かせるように、大きくも柔らかな声で言う。
「ドラゴンは着弾の瞬間にだけ、体を硬くする。あの程度では死なないさ。元気いっぱいで出てくる。その瞬間に、槍を叩き込んでやろうじゃないか」
ようやく歩兵たちは、槍の重心に掛けてある金属の輪に指を通した。
彼らは職業軍人ではない。基本的には、季節単位で農業や工業などの仕事に就いている、期間雇いの労働者たちだ。
自分の家を持たず、税のひとつとして必要なときに徴兵される。
歩兵たちはすり切れた丈の長いチュニックと、半ズボン、羊毛のタイツを身につけていた。革鎧すら持たず、投げ槍を除けば普段の格好となんら変わらない。
彼らは豪雨に打たれ、戦う前から情けない顔をしていた。
がらり。瓦礫の山が動く。緊張が走った。
大きな石材を押しのけるように、ドラゴンが顔を出す。右半分を覆う濡れたシーツを前足で引きちぎった。
体をびくつかせる兵たちを、王が宥める。
「まだだ、まだ引きつけるんだ。余の号令に合わせよ。突っ込んでくる勢いを利用せねば、槍が通らん」
這い出したドラゴンが顔を振った。細められた瞳孔が王を捉える。
全長四メートル程度の、ドラゴンにしては小柄な体格だ。それでも人間より遙かに大きい。地上で相対すれば、生物として格が違うことをまざまざと感じさせられる。
ドラゴンは肘をぐっと外側に曲げた。
濁った飛沫が上がる。ドラゴンが走り出した。
陸地を泳ぐように、バタバタと手足を振り回しながら迫り来るドラゴン。対峙する王は揺らがない。
「まだだ、逸《はや》るな。逸《はや》るなよ…………放てぇぇえええ!!」
一斉に投げ槍が飛んだ。
半分は見当違いの方向に飛んで行き、四分の一は先がブレて刺さらない向きで飛んでいる。数本だけ、完璧な角度と勢いの槍が顔面に命中するものがあった。
練度こそまちまちだったが、総勢二〇〇名から放たれた槍の密度は圧巻だった。
ドラゴンの顔面が、肩が、前肢の上腕が針山と化す。力が抜け、つんのめるように倒れた。勢いの乗った巨体が、大きな波を作りながら歩兵隊に突っ込んでくる。
「避けろ!!」
王は泥水の中を転がるように、ドラゴンの進路から逃れた。しかし、遅れた数人の兵が轢き潰される。水の中から飛び出した手が、救いを求めるように指を動かした。
目も鼻も潰れた竜が、豪腕を振り回す。頭に掠った兵の耳から上が消し飛んだ。
ドラゴンが耳障りな声で吼える。空気がビリビリと震えた。近くに居た兵たちが腰を抜かす。
「ひ、ひあぁあ」
「助けてくれ! 助けて!」
「む、無理だこんなの!」
たった一度の衝突で、士気が底にまで落ちた。兵たちが逃げようとする。そんな中、竜の眼前に歩み寄る者がいた。ナスパーニャ三世その人だ。
「なるほど。生きるも死ぬも運次第といったところかな。確かにあまり楽しくない兵種かもしれん」
凶悪な牙が並ぶドラゴンの口に、投げ槍を叩き込んだ。喉の奥に深く刺さったのか、ドラゴンは大袈裟に仰け反る。
「だが、勇気次第で死人は減る。自分の死も遠ざかる!」
王は隣に立つ兵士から槍を奪うと、ドラゴンに向けて駆け出した。棒高跳びの要領で、高く高く飛び上がる。
「逃げるなよ!!」
その声は、ドラゴンにかけられたものか――それとも、兵たちにかけられたものか。ただ、声に振り返った兵たちはその光景を見た。
ランタンの炎が軌跡を描く。宙を飛ぶ王が、片手で大きく槍を振りかぶった。天を仰ぎ大口を開けたドラゴンに、真上から二発目を叩き込む。
伸びきった喉の奥へと、投げ槍が吸い込まれていった。
ドラゴンが口と鼻から血を吹き出し、どうと大きな音を立てて横に倒れる。その上に着地した王が拳を突き上げた。
「やれば出来るもんだ。恐れるな、お前たちは余の兵だ! カスティラ王国は竜星軍などに負けない!」
「おおおおおおおお!!」
「た、倒した! ドラゴンを倒した!!」
「陛下! 陛下!」
歩兵たちの喝采を浴びながら、王はドラゴンから飛び降り、兵たちの肩を叩いた。
「よしよし、いいぞ。全員、あのドラゴンを一回刺してみるといい! 怖くないぞ! ほら、君も行け。刺してこい」
兵が群がり、ドラゴンに次々と刃を突き立てる。血飛沫が上がる度に、熱気のようなものが広がっていく。空間の温度が上がり始めた。
血に、肉に、殺しに兵が慣れていく。その様《さま》に、王は厳しい顔で頷いた。
遠くで竜が落ちる音が響いた。王が顔を上げる。
音の方向に立つ尖塔から、真っ赤な炎が噴き出した。間延びした、どーんという砲声が響く。
教会騎士団による砲撃が始まったのだ。
「小物相手でこれか……。戦いの中で成長、なんて現実は甘くないだろうしな。困ったぞ、ディエゴ君。歩兵隊、面白くないかもしれない」