――英雄イツコアトルは、己の腕を捧げた。次に脚を捧げた。それでもなお足りず、妻子を差し出した。ようやく腹を満たした悪意は眠りにつき、それをジャガーの戦士が突き殺した。こうしてツィツィ・ミトルは滝の下に沈んだ。
西の空。レオン将軍は巨竜から目を離せずにいた。
最も濃い積乱雲から出てきた巨竜――ツィツィ・ミトルが、砕け散った若い竜騎士の残骸が風に広がるのを、興味深そうにじっと眺める。
瞳孔がカクカクと動き、生き物というよりも絡繰り人形を思わせる動きだった。
レオン将軍の喉仏が上下する。乾いた浅い呼吸を繰り返した。
「もう……竜の域を超えている……」
小さく漏れたのは弱音。だが己の頬を殴りつけ、気丈にツィツィ・ミトルを睨み上げる。
竜騎士たちが集まり、レオン将軍を守るように隊列を組んだ。壮年の竜騎士が震えの混じる声で訊ねる。
「将軍、どうされますか?」
「どうもこうもない!」
レオン将軍はわざとらしく快活な声で答えた。
「相手が何者であろうと、退路が無い以上は倒すしかあるまい!」
竜騎士は苦笑いを浮かべる。
「一応、我々だけに関して言えば退けますがね」
「がはは! 退けても退かない。自ら退路を閉ざすのが貴族だ!」
「まぁ、そうなんですよね。悲しいことに、今飛んでいるのは全員貴族家出身です。退けませんな」
貴族の本懐は、死ぬことにあり。
貴族の筆頭たるバルボア家の遺した教訓であり、なぜか第二竜騎士団ではなく第一竜騎士団に伝わった誇りである。
平民を死地に送り込み、時には撤退を許さず玉砕を命ずる。国のため他人に死を覚悟させる身分だからこそ、誰より死を覚悟して生きるのだ。
「散開せよ! まずは様子を見る。威力偵察から入るぞ! 儂が信号弾を撃ったら、全員で特攻する……!!」
「承知!」
これまで二騎ずつで行動していた竜騎士たちが、単独で自由な軌道を描き始める。同時に四騎のドラゴンライダーが、別の方向からツィツィ・ミトルに襲撃を仕掛けた。
「四騎がかりなら、手数が足りねえだろ!」
「対応力を見せて貰おうか!」
見るからに射撃など利かない相手だ。腹を括った、ドラゴンライダーらしい迫撃戦闘を挑む。
ツィツィ・ミトルの鮮やかな青色の鱗が波打った。虹色の輝きを放つ帯が、頭から尾の先までを走る。鱗が急に彩度を失い、薄暗い青色に変色した。
姿がぼやける。色味の抜けた鱗が、曇天の空に同化した。変色による迷彩だ。
眼球と鬣《たてがみ》だけが宙に浮いて見える。
「なっ!?」
「消えやがった!?」
混乱した竜騎士たちが声をあげた。
竜騎士が混乱したということは、騎竜もまた混乱している。
殺意と闘志、何よりもドラゴンらしい「殴り倒してやる」という意思が先行し、唯一見えている頭部に進路を変えた。
「あ、おい待て!」
竜騎士が慌てて手綱を引く。だが、既にそこはツィツィ・ミトルの懐の中だった。
薄らぼけた影が動く。不可視の手のひらが、四騎の竜騎士をまとめて包んだ。そのままブチリと球状に握り潰す。人と竜の絞り汁がばしゃばしゃと溢れ出した。
レオン将軍が絶句する。
数十の戦に耐え。数百の狩りをこなし。数千の緊急出撃を行った。歴戦の将軍の指が震える。
ツィツィ・ミトルが、見せつけるように鱗の色を戻した。挽肉の塊を手でこね回し、醜悪な笑みを浮かべる。飽きた、と言わんばかりに、犠牲者たちを後ろに放り捨てた。
レオン将軍は震える手で信号銃を構える。手のひらから指先にいたるまで、汗がべっとりと染みだしていた。
「勝てる相手じゃない……」
近くを飛ぶ竜騎士が叫ぶ。
「将軍! 突っ込みますか!?」
「――当然だ!! 例え全滅しようと、奴は倒す!!」
レオン将軍は片手で十字を切った。苦悶の声を漏らし、顔色が悪いまま、自棄っぱちで声を張り上げる。
「お前ら、ここで死ぬぞ!! 奴が竜星軍の本体だ!! あれさえ殺せれば、あとは陛下と教会がどうにかしてくれる!! どうにかしてくれるはずだ!!!!」
「承知、未来の為に!!」
「未来の為に!!」
決死の覚悟を決めた第一竜騎士団。一人残らず顔は土気色で、体は震えていた。過呼吸のように首を揺らしながら浅い息をする者すらいる。真に死を知るからこそ、恐怖と覚悟が同居していた。
そんな、矮小な生物の意地を見たツィツィ・ミトルは首を傾げる。何か名案でも思いついたかのように、目をぱちくりと瞬かせた。
ツィツィ・ミトルが喉を鳴らす。民謡の一節のような、穏やかな音の調べだった。響き渡る低音が、積乱雲に吸い込まれていく。
レオン将軍は目を細めた。
「……何だ、何の鳴き声だ」
信号弾を誰もが見やすいよう、低い角度で構える。そして、見てしまった。
積乱雲が赤く光る。
雲を灼く、無数の火炎。
炎が霧を焼き払い、光の切れ間が生まれた。
数えるのも馬鹿らしい、中小さまざまなドラゴンが滑空してくる。
人間ごときの覚悟と意地を嘲笑う、全戦力の同時投入であった。
赤く染まった空。満ちる黒点。
王島で戦う全ての者が、第一竜騎士団を襲う絶望を共有していた。
誰も見たことがない景色だ。ただの曇天ですら珍しいというのに、赤く燃えさかる雲など、
王も聖職者も異邦人も貧民も、揃いも揃って空を見上げている。
だからこそ、誰もが同じ光を目にした。
東の空に浮かび上がった緑の光が、空を切り裂き西へ向かっていく。
薄く細く、頼りなく明滅する光だ。
吹けば消えそうな、弱々しい光だ。
だが――誰もが手を組んだ。
希望。あるいは祈り。言葉にならない内心を絡めた指先に込め、額を当てた。
太陽は消えない。消えるな。
ディエゴが、天変地異に満ちた空にいる。
◇◇◇
「バケモンいるな。サンチョにハトメ抜きやったの失敗だったか?」
ついにディエゴがツィツィ・ミトルの姿を捉えた。素早く目と首を動かし、周囲の状況を確認した。
ワイバーンは鉤爪に力を込め、背中を向けるドラゴンを、通りすがりに蹴り落す。
包囲を外側からあっさり食い破り、ディエゴは第一竜騎士団の中に飛び込んだ。
竜騎士たちはびくりと肩を跳ね上げ、焦った仕草で銃を向ける。だが、緑のランタンを目にし、すぐに銃口を降ろした。
緑の光を見た者は、目を見開き、歓喜に顔色を明るくしていく。
「……おい!」「嘘だろ、夢じゃないよな!?」「俺にも見える!」
「蛍火だ!」「ディエゴ、帰ってきたのか!?」「なんだその頭!?」
ディエゴは全員の注目を受け止めるように、わざわざランタンを頭上に掲げ、竜騎士たちの間を縫うように飛んだ。
ゆっくりとセバスティアン・デ・レオン将軍の横に並ぶ。
「セバスティアン、のんびりしてるじゃねえか。長生きしすぎて時間の間隔鈍ったか?」
レオン将軍は不敵な笑みを浮かべるディエゴを見て、深々と息を吐き出した。
「これから死ぬところだ!」
「死神にキャンセルの手紙出しとけよ。急に言い出したら迷惑だろ」
「なに?」
片方の眉を上げ、まじまじとディエゴの顔を覗こうとした。ジャッカル面の奥には鋭い気配を放つ目がある。レオン将軍は生唾を呑んだ。
「やらせて、いいのか?」
「やらせる? 別に俺は第一の指揮下に入っちゃいねえよ。見りゃ分かるだろ?」
「ナステカの戦士になったのか。ならば、なおさらこんな場所に来る意味はないだろう!! まだイザベルの名誉回復はされておらん!!」
ディエゴは鼻で笑った。
「おおかた、陛下が小難しい理屈こね回したんだろうが、知ったことじゃねえんだ。サンチョも、お前も、陛下も、スラムの奴らも死なせねえよ。死なせたくねえと、この俺が思ったんだ」
「お前……誰から人の心を奪った!?」
「元からあったわクソが!!」
愕然としたレオン将軍に、ディエゴは歯を剥き出しにして吼える。
「とにかく、あの調子に乗った馬鹿ドラゴ……ドラゴン? あのきもきも生物に、空は俺のものだと教えてやる。でけぇツラしてんじゃねえってな!!」
ディエゴの小脇に構える槍が、火の粉を撒き散らす。放り投げたランタンを穂先で突いた。砕けたガラスが光を乱反射しながら、赤と緑のコントラストを生み出す。
竜角槍が二色の炎を纏った。
「あ、おい!! ランタン!!」
焦り上ずった声をあげたレオン将軍に、ディエゴは軽く手を振る。
「構わねえよ。どうせ空は晴れる。晴天の空にランタンは要らねえだろうが!」
翼で風を捕まえて、ディエゴのワイバーンが加速した。
レオン将軍も第一竜騎士団も、ドラゴンの群れも置き去りにして、一直線にツィツィ・ミトルに向かっていく。
大きな眼球がぎょろりとディエゴを追いかけた。
「体の色を変えるやつ、俺にも見せてくれよ」
頭上を取るべくさらに加速しながら上昇するディエゴ。ツィツィ・ミトルが首をもたげた。
不気味な巨竜が翼を振るう。風を叩く音は破裂音のようだった。
ディエゴは目の端でツィツィ・ミトルを確認する。
「デカイくせに、意外と速いな。いや、それともデカいから速いのか?」
ツィツィ・ミトルが薄く口を開いた。ディエゴは素早く手綱を操り、バレルロールで螺旋を描く。ついさっきまでディエゴがいた場所を、桃色の舌が貫いた。
「舌が伸びるのかよ!」
素早く放たれた二発目を、竜角槍で打ち払う。火花が散った。
硬質でざらざらとした舌の表面が、槍の表面を薄く削っている。ディエゴは舌打ちした。
風に乗ったワイバーンと同じ速さで追い上げてきている。このまま上昇していけば、やがて空気が薄くなり、先にディエゴが参るのは明白だった。
手綱を引き、水平方向に向きを変える。
「同速で背後取られるとやりづれぇな……」
ワイバーンに上下を逆転させ、滑るように高度を下げた。一気に失速したディエゴを、ツィツィ・ミトルが追い越していく。
「速けりゃいいってもんじゃねえのよ、野生個体」
巨竜は不利をとったことを悟ったのか、速度を落して振り返ろうとした。その顔面をワイバーンの鉤爪が蹴り飛ばす。ツィツィ・ミトルの眉間に深い裂傷が走った。
ツィツィ・ミトルはまるで人間のように、己の額に触れて傷を確かめる。
べろり。血を舐め、口を歪めた。
鬣《たてがみ》の中から、木のようにねじくれ枝分かれした大きな角が伸びる。
島落としの大竜角を凌駕《りょうが》する角だ。
ツィツィ・ミトルの周囲から風が消え、空気が凪いだ。
空が静まりかえる。
ツィツィ・ミトルはひどく落ち着いた様子で、闘竜状態に移行した。