漲《みなぎ》る。
血が駆け抜け、肉は盛り上がる。傷が癒え、全身が熱を持つ。
迸《ほとばし》る。
呼気に炎が混じり、翼の先端は衝撃波で白く染まる。
ツィツィ・ミトルの鱗が逆立ち、裏返った。
尾へ向いていた鱗の一枚一枚が、全て頭を向く。まさに全身逆鱗の竜となった。
胴体が蛇のように伸び、宙に緩いとぐろを巻く。
大きな目の上、頭蓋骨が眉のように張り出し、より凶悪な印象を強めた。
ディエゴは舌打ちを漏らすと、雲を目指し転進する。
「掠るだけで削られるぞ……。なんだありゃ」
同意するように、ワイバーンが低く喉を鳴らした。
ディエゴは愛竜の肩を叩く。
「奴の実力を見極めてる余裕はねえ。まず、一発驚かせるぞ」
手綱と鐙《あぶみ》を複雑に叩き、独特なリズムを刻んだ。本来は言葉を介さない竜に、パターン化された指示を伝える方法である。ディエゴの場合、それが異常なまでに多い。その分、より多くの指示を伝えることが出来た。
「さて、奴の間抜け面を拝もうか」
翼の先すら朧気《おぼろげ》になる、濃い雲の中。ワイバーンが炎を吐き散らす。周囲がぼうと照らされ、瞬間的に彼らの位置を示した。
すぐに明かりは消え、二秒後に再び灯る。ちかちかと灯火が浮かんでは消えた。
ディエゴは舌を丸め、「コッ」と短く音を立て続ける。軽く鐙《あぶみ》を蹴った。ワイバーンが垂直に急上昇する。
ディエゴの体が空に踊る。鞍から飛び出し、片手で懐をまさぐる。取り出したのは竜脂だった。
ごう、と空気が歪む音。ついさっきまで彼らがいた場所を、大きな影が襲う。
断続的に浮かぶシルエットと、ディエゴが発したクリック音に、ツィツィ・ミトルが釣られたのだ。
「ドンピシャだ、馬鹿がよお!!」
翼の付け根という、鱗が薄い可動部に竜角槍が食い込む。膨張した筋肉に阻まれ、切っ先しか刺さらなかった。
ツィツィ・ミトルの背に降りたディエゴは、着地の衝撃に思わず膝をついた。逆立った鱗の縁《へり》が、ツナギを切り裂く。
「いってぇが……逆鱗なのが幸いしたな」
ディエゴは竜角槍を口にくわえると、這うようにドラゴンの背を登っていく。ついに頭部に達しようとしたそのとき、ツィツィ・ミトルの目がぎょろりと後ろを向いた。
血相を変えたディエゴは、全速力で鬣《たてがみ》の中へ飛び込んで行く。ツィツィ・ミトルが、蚊を潰すように首を叩いた。
鬣《たてがみ》にしがみつき、大竜角の根元に隠れながら、ディエゴは肩を上下させる。
「あっぶねええええ!! オラ、ここなら叩けねえだろうが」
煽った直後、ディエゴの真横に爪がガツッと突き立てられた。柱のような大きさである。少し触れれば人間程度なら簡単に吹き飛ばす質量を持っていた。
ジャッカル面の内側を、冷や汗が湿らす。
ツィツィ・ミトルにとって軽く頭を掻く程度の動きが、ディエゴには致命の攻撃になっていた。
「悠長はしてられなかったか……!」
規格外の巨体とは、こういうことだ。
僅かな身じろぎ、指遊び。それら些細な挙動が、範囲攻撃となる。デカいと隙だらけになるというのは、人間の幻想に過ぎない。蟻一匹に喧嘩で負ける人間などいないのと同じだ。
ディエゴは手早く大竜角に竜脂を塗りつけると、槍から火を移す。燃え移るのを確認すると、即座に飛び降りた。頭上を殺意の塊のようなヤスリが通り過ぎていく。
「来い!! エルソル!!」
叫びに呼応し、ワイバーンが足でディエゴを掬い取る。ディエゴは首を丸めたワイバーン――エルソルの頭にしがみつき、鞍の上に戻してもらった。
「エルソル、炎が目印だ。あれだけの巨体に……物理を無視した機動力。大竜角を片方でもへし折れば、落ちるはずだ。ブチかますぞ」
頭上で揺れていた灯りが、ぐんぐんと迫ってくる。ディエゴが持つ竜角槍の小さな光を目印にしたのだろう。
「怪物を見るとき、怪物もまた俺を見ているってか」
ディエゴは躊躇《ちゅうちょ》無く槍を投げた。歩兵隊仕込みの投槍だ。風を呼ぶ竜角槍は滑らかに遠くまで飛んで行く。
「丸腰になっちまったな」
小さな光点を追う、大きな光。その頭上を取るように、エルソルが懸命に羽ばたいた。
竜角槍の炎が砕け散る。追いつき破壊したツィツィ・ミトルの光が止まる。
「戸惑ったか?」
好機。そう言わんばかりに、エルソルが蹴りの姿勢を取った。目標は大竜角を焼く炎だ。最大加速の突進を開始した瞬間、炎がふっと消えた。
蹴りが空振り、虚空を騎竜が通り過ぎる。
「なんだ!?」
焦りを顔に浮かべ、ディエゴは頭上を見上げた。
「――っ」
目が合う。宙で上下逆さまにひっくり返ったツィツィ・ミトルと。
眼球、鬣《たてがみ》、大竜角だけが炎に照らされ、ぎらぎらと輝いていた。
指と爪を伸ばし、長大な腕が振り抜かれる。エルソルは翼を畳み体を丸め、ぎりぎりで攻撃を躱《かわ》した。
その無理な機動すら予見していたのだろうか。舌が伸びた。柔らかく粘着質な舌の先端が、ディエゴのツナギに絡みつく。
ディエゴがエルソルの背から引き剥がされた。ツィツィ・ミトルの眼前にたぐり寄せられ、じっと見つめられる。
空戦は、一度の予想外がそのまま死に直結するのだ。
「クソが……!」
ディエゴが吐き捨てる。ツィツィ・ミトルは、見せつけるように大口を開いた。ねっとりとした粘膜と、凶悪な牙がディエゴを迎える。
「なんか……、なんかねぇか……!?」
叫んだディエゴの手に、細長いものが落ちてきた。撃鉄の起きたマスケットだ
。
小柄なワイバーンが、ツィツィ・ミトルの大竜角に蹴りを浴びせ、反動で跳ね返る。じたばたと不器用に藻掻くワイバーンの背で、顔を真っ青にしたイザベルが叫んだ。
「師匠の切り札こと、イザベルです!!」
ディエゴは口の端を吊り上げ、マスケットを構える。銃口が、たった今つけられた大竜角の傷に向けられる。
「不本意だが、昇格してやるよ!! 勇気を出したお前は、紛れもなく切り札だ、イザベル!!」
撃鉄が落ちる。叩かれた雷管が火花を散らす。竜火薬が炎に変わる。
金色の閃光は、過《あやま》つことなくイザベルが付けた傷を突き刺した。
柔らかで重たい弾丸が潰れ、衝撃を余すことなく内側へと叩き込む。
傷口から光が飛び出した。バシバシと乾いた音を立て、大竜角に亀裂が広がっていく。生まれたヒビの全てから炎が吹き出した。
パァン、と不可逆な破裂音を最後に、大竜角の一本が爆散する。
炎と破片を浴びながら、ディエゴは目を逸らさなかった。
結果の全てを受け止める彼の体が、舌の拘束から解放される。宙に投げ出された主人を、エルソルが素早く拾い上げた。
「よく来たエルソル!!」
ディエゴとイザベルが、衛星のようにツィツィ・ミトルの周りを旋回する。
ツィツィ・ミトルは額を手で押さえ、体をうねらせ悶えた。飛び出した目が充血している。
巨竜は怒り狂ったように吼えた。鉄板を引きちぎるような絶叫だった。放たれた発条《ぜんまい》のように、理性も制御もなく全身を使って大暴れする。
飛行を忘れ隙を見せた巨竜は、絶大な重力という摂理に引かれて墜落を始めた。
イザベルは固唾を呑んでそれを見守る。ふと、指を広げて宙に手を伸ばした。
「師匠! 風が……!」
「ああ。それに雨も止み始めたぞ!!」
落ちていくツィツィ・ミトル。ディエゴはそれから目を離し、上を見た。
空が、どんどん高くなっていく。黒雲が遠くなり、それにつれて白くなり、やがて青空に溶けるように霧散した。
青空だ。少しだけ西に傾いた太陽が、天に輝いている。
あまりの眩しさに、ディエゴは手で目を覆った。
「師匠、師匠。太陽です……!」
イザベルの声が、凪いだ空に響き渡る。
◇
無数のドラゴンの間を潜るように、第一竜騎士団は一塊となって飛んでいた。
急激に弱まった風雨に、竜騎士たちは空を見上げる。
「雲が……」
「おい、なんか落ちてきたぞ」
激しく藻掻きながら落ちてくるツィツィ・ミトルが、薄く差し込む光に照らされていた。レオン将軍が叫ぶ。
「やりやがった!! ディエゴと小娘がやったぞ!! 追撃しろ、地上の奴らを楽にしてやれ!!」
隊列が素早く方向を変えた。徐々に明るくなる視界の中、ツィツィ・ミトルの落ちてくる場所を予測し、飛び込んで行く。
ツィツィ・ミトルの至近距離を通りながら、一斉掃射が行われた。無数の銃弾が浴びせられる。巨竜は恨みの籠もった低い声を上げながら、さらに下へと加速していった。
一撃入れて離脱した第一竜騎士団に笑いが広がる。
「晴れた、晴れたぞ……!!」
「あのクソトカゲ、無様に落ちていきやがった!!」
「空に太陽があるだけで、こんなに戦いやすいのか」
彼らが見上げた先。太陽と重なるように、二頭のワイバーンの影が浮かんでいた。
レオン将軍が、白煙の立ち上る砲口に火薬をねじ込む。
「クソトカゲは下に任せるぞ!! 儂らは引き続き、この空を掃除する!!」
◇
教会騎士団本陣。
五〇人の教会騎士を率いるフランシスコ枢機卿は、原型が分からないほど叩き潰されたドラゴンに腰掛けていた。
ハウンスカルを、両手でゆっくりと外す。空を見上げた。
「雨音が止んだと思えば……」
空の色が変わっていく。未だ戦いは続いているとはいえ、間違いなく天災の終焉《しゅうえん》が近いことを示していた。
「ディエゴ、やったのか。やってくれたのか。これだけ遠くとも巨大に見えるドラゴンを、お前が落したのか。ディエゴよ」
フランシスコ枢機卿の顔は不思議と曇っている。
「幸か不幸か、お前の輝きは強すぎる。英雄が英雄であり続ける限り、我らは誇りを持って地に立つことが出来ない。希望とは、天に舞う英雄でもなければ、神の奇跡でもない。我ら矮小《わいしょう》な全ての手の中になければならぬ」
教会騎士たちは素早く装備を再確認した。枢機卿も立ち上がる。
「征くぞ、お前たち。英雄の帰還は喜ばしいが、それだけで終わっては人間としての誇りがあまりにも無い。主はあまねく全ての命に暴力を与え給《たも》うたのだ。主の恩恵にかなう自助努力を……範を見せよ!!」
「応!!」
枢機卿はハウンスカルを被り直した。か弱き人の子の希望を、人の子の手に握り続けるために歩む。
圧倒的な強さなど持っていなかった。ただ暴力的な人間の集まりだった。それでもなお、戦いの場に身を置くことはできる。
教会騎士団は粛々と、ツィツィ・ミトルの着弾予測地点へと進軍を始めた。
◇
地に自身の足を付け騎竜を休ませていたオセロは、強い日差しに目を細めた。ディエゴから借りた飛行帽を脱ぎ、鞍に結びつける。濡れた髪を掻き上げた。
「晴れた、晴れたよ……! 太陽は負けない!! ディエゴ!!」
同じように竜から降りていたペドロも目を細め、小さなワイバーンの影を見る。
「竜騎士、イザベル」
掠れた呟きだった。様々な感情を含んだ音は喉を締め付け、散り散りな音になる。
丸まった背中を、オセロが強く叩いた。
「名誉を取り戻したい? 戦った者の中に名前を連ねたい?」
ペドロはすっかり自信を失った目でオセロを見上げる。オセロは嫌みを一切感じさせない快活な笑みを浮かべた。
「うじうじしてても、どんどん戦士から遠ざかっていくよ。弱虫だね」
「僕は……」
「意気地無しより、太陽を追う戦士の方が格好良いよ。格好良く死ぬのも、私たちの仕事だよ。じゃないと、太陽が簡単に死んでしまうからね」
「おかしいこと言ってますよ」
オセロは槍を小脇に抱え、ペドロの額を指で弾く。
「どれだけ強くて大きくて輝いた存在でも、孤立無援だと死んじゃう。そんな変な話かな?」
「いや、それは……」
「勇気を出すなら今だよ」
オセロは未だ冠水した道路を走り出す。ペドロはその背中を見て、頭を抱え、胸を叩き、背中を丸め、苦悶の声を漏らした。
「僕は……僕は……っ、弱い……怠惰で意気地無しの、第二竜騎士団だ……!」
そんな声と裏腹に、一歩、足が前に出た。
前のめりになりながら、もう一歩踏み出す。
あまりにも情けない顔で、涙を浮かべながら、ペドロは走り出した。勇気と誇りに続く道だ。