――まだ世界が闇に包まれていた頃。
神々は太陽を求め、篝火《かがりび》を焚いた。だが、そこに身を投げる自己犠牲の勇気を持つ者はいなかった。
誰よりも貧しく、小柄で、侮られていた青年がいた。彼だけが恐怖を乗り越えることが出来た。勇気を振り絞り、率先して炎に身を投じたのだ。
青年は灰の中で生まれ変わり、最初の太陽となった。
続けて、富み栄え美しい神も炎に身を投じた。彼の自己犠牲は月となり、太陽を支えることになった。
太陽と月は炎に身を投じた戦士たちの魂を引き連れ、今も夜の闇と戦い続けている。
◇
王城跡地。島喰いの亡骸から、巨竜バアルが大竜角をへし折った。奪った角を両手で持ち上げ、乱暴に島喰いの頭に叩き付ける。砕けた破片が断面からぼろぼろ零れた。
その一つをサンチョが拾い上げる。
「生《なま》ですが、火薬と混ぜれば燃えるでしょう。せめて拭いたいところですが……乾いた布などどこにもありませんな。それに、時間も」
ランタンに紙薬莢と大竜角の破片を放り込み、サンチョはバアルに跨がった。風が渦巻く。
空を見上げた。晴天を背負って飛ぶワイバーンの影に目を細める。
「救われっぱなしでは友と言い難い。まったく、難儀なものですよ。英雄と呼ばれる男に仲良くされるのも」
サンチョはゴツゴツと硬い鱗を撫でた。バアルが首をもたげ、翼をゆっくりと動かし始める。
「バアル。積年の獣性を、ここで発散しておきましょうか。溜め込んでいても体に悪いですから」
翼膜が風に膨らみ、羽ばたくごとに高度が上がっていく。穏やかな顔をした聖職者が見る先には、着弾の体勢にはいったツィツィ・ミトル。
真っ直ぐに空を目指し、サンチョとバアルが垂直に上昇した。
バアルは左腕を前に突き出し、右腕を大きく後ろに振りかぶる。全身を捻り、大弓のように鉄拳を引き絞った。
すでに体を丸めていたツィツィ・ミトルは、瞼《まぶた》を閉じる。覚悟や諦めなのか、或《ある》いは軽視か。
その全てを打ち砕かんと、唸りをあげて巨大な握り拳が放たれた。
空気を揺るがし、激突の一点から蒸気が噴き出す。
鱗と血が飛んだ。バアルの腕が折れ、あらぬ方向にねじ曲がる。ツィツィ・ミトルの脇腹も大きく凹み、鼻から鮮血が噴き出した。
宙に投げ出されたサンチョが、両脚の間からハトメ抜きを向ける。
「オマケです」
放たれた銃弾が、体表で小さな火花を散らした。
仰向けに落ち始めた彼の体を、大きな手が包む。バアルがサンチョを庇うように胸に抱き、背中から墜落した。
石造りの建物をぶち破り、瓦礫の中に埋もれていく。
彼らが砂煙に覆われるのと時を同じくして、ツィツィ・ミトルも王城跡地に着弾した。
これまで以上の衝撃が駆け抜け、さらに広範囲の建物が崩壊する。押し出された水が、津波のように瓦礫を押し流した。
まっさらになった大地の中心で、ツィツィ・ミトルがゆっくりと体をほどく。全身の鱗がひび割れ、満身創痍だった。血と油、瘴気を撒き散らしながら瞳孔の色を白黒させる。
ゆっくりと体色が変わり始めた。
周囲の風景に同化して、輪郭が朧気になっていく。ツィツィ・ミトルは着弾したこの地上にて、姿を消そうとしていた。
パンッ。
激戦の王島にして、あまりに単純で小さな銃声が響く。ツィツィ・ミトルの体表で、か弱い火が生まれた。一気に炎が広がる。瘴気と油に引火し、巨竜の体が炎に包まれた。
ツィツィ・ミトルが怒りに満ちた声で吼える。
不意の一弾を放った相手を探すように、忙しなく眼球が動いた。やがて、犯人を見つけたのか一点を見つめぴたりと止まる。
崩れた建物の間から、毛皮のポンチョを羽織った女戦士と、銃を構えて震える若い竜騎士が姿を現した。
オセロが静かな声で言う。
「まだ私たちしかいないね。時間稼ぐよ」
「大き過ぎます。死ぬ、絶対に死にます。勝てるわけがないですよ」
「一秒でも長く稼いでね」
「死ぬ前提だ……!」
ペドロは震える手で次弾を放った。
あまりの巨体。見えてさえいれば、適当に撃ってもどこかには当たる。
オセロが感心したように頷いた。
「素質あるよ、君」
オセロは投槍を手に握り、ツィツィ・ミトルに駆け出す。
見上げるだけでは到底足りぬ体格差だ。島落としよりも手足が長いツィツィ・ミトルが地に立つと、恐ろしいほど高い位置に頭があった。
蛙のように、後肢は折りたたんで尻を地面に付けている。長い腕で上体を支え、体を起こしていた。
巨大な眼球がオセロただ一人に向けられる。
バアルの突進すら甘んじて受け止めたツィツィ・ミトルが、警戒していた。
オセロは右手で持った槍を大きく後ろに引きながら、這うように体勢を低くして走る。オセロットの毛皮が派手にたなびいた。
押しのけられ、すっかり浅くなった水たまりを踏みつけ、ぐんぐんと距離を詰めていく。
ツィツィ・ミトルが口を開けた。砲弾のような速さで舌が伸びる。オセロはじぐざぐに走り、容易く避けた。
オセロは怖じけることなく、柱のような腕の間に飛び込む。懐に潜り込み、黒曜石の刃を一閃した。
割れた鱗の隙間を、人類史で最も鋭い刃が引き裂く。真っ白な脂が溢れた。
「原初、私たちには騎竜も銃もなかったんだよ」
燃えるドラゴンの下。赤い光を弾き、黒い刃が踊る。
槍を振り回すオセロの周囲に、ボタボタと油脂が降り注ぐ。ツィツィ・ミトルが纏う炎が脂を舐め、火の手が広がっていた。
焦げた山猫の毛皮が、強烈な悪臭を放つ。それでも、オセロは表情一つ変えず刃を突き立て続けていた。
呼吸が浅い。玉のような汗があごから滴る。それでも機敏な動きは鈍らない。人が竜に生身で抗うならば、無茶を押し通す心身の強さが必要だ。
小さな傷だが、際限なく繰り返されることに耐えかねたのか、ツィツィ・ミトルは大きく身じろぎした。蛇のような胴体が振り回され、オセロが吹き飛ばされる。
抉られ岩盤が剥き出しになった地面を跳ね、腕の皮がべろりと剥けた。
「痛ったぁ……」
ぷつぷつと滲んだ血の玉を、伝う汗が飲み込んで押し流す。染みるのか、オセロは顔を歪めた。
立ち上がり、再び槍を強く握り締める。オセロの視界の端に、大きな影が映った。今まさに振り抜かれんとする、ツィツィ・ミトルの尾だ。
オセロの目が見開かれる。
彼女は迷うことなく、槍を投擲《とうてき》した。黒曜石の刃は、瞬膜を貫いて眼球に突き刺さる。
薙ぎ払おうとしたツィツィ・ミトルは、痛みに体を丸めた。狙いがはずれ、尾はオセロの足下を叩く。
「わっ!?」
撥ねられた土砂に巻き込まれ、再びオセロは地面を転がった。激昂したツィツィ・ミトルが、拳を振り上げてオセロを見下ろす。
慌てて飛び退いた彼女は、再び余波に巻き込まれて吹き飛んだ。慌てて立ち上がろうとし、がくりと膝をつく。
「何が……あ、ああ」
脚に薄く割れた石が刺さっていた。包丁のようなそれは、肉付きの良いふくらはぎを貫通し、真っ赤に染まった切っ先を覗かせている。
オセロは小さく笑みを浮かべた。
「何秒稼げたかな、ディエゴ」
怒り狂う竜の追撃が迫る。
オセロの後ろ襟がぐいと引かれた。がりがりと乱暴に引きずられ、死の射程からすんでのところで逃れる。空ぶった拳が轟音を立てた。
「だ、ダメです! まだ死んじゃ、ダメです!!」
ペドロがあごを突き出し、ぜいぜいと掠れた息を漏らしながら、オセロの体を引きずる。
「わかんないですけど、たぶん、まだなんです!!」
すっかり混乱し、意味の通らないことを口走っていた。だが、本気だ。迫る殺気を背中に浴びながら、足下だけを見て懸命に引きずる。
「何してるの!? 私は見捨てて、君は君で時間を稼がないと!」
「適応変態ですよね!? わかってます、わかってます!! でも、体が動いて……!!」
口角に泡をつけ裏返った声で叫びながらも、ペドロは手を離さなかった。どん、と重たいものにぶつかり、ペドロは足を止めて仰け反る。
「痛っ、ええと……」
「良き献身でした。主も汝らの活躍を見ていたことでしょう」
ふらつくペドロの肩を、金属のガントレットががしりと掴んだ。
十字のマントを背負った騎士団がずらりと並ぶ。
フランシスコ枢機卿はペドロとオセロを後ろの教会騎士に預けた。
「たった二人で時間を稼ぎ、適応変態を阻止したのは、まさに賞賛に値します。確か第二の小僧と……異国の戦士、か。誰もが戦っている。ここまで積み上げた犠牲、無駄にはせぬ」
傷だらけの金属鎧が、ぎらりと剣呑に陽光を弾いた。一斉に戦槌が掲げられる。
「一口とて島を喰わせるな!! 回復の時間を与えるな!! 殉教するのであれば、今!! 信仰を示せ、教会騎士団!!」
「ゴラァァァアアアア!!!!」
空気が震えた。ハウンスカルが怒号を反響させる。無謀な突撃が始まった。
鉄の獣による襲撃へ、ツィツィ・ミトルが拳を打ち込み迎え撃つ。
「指潰したらァ!!」「削れ削れ、足を削れ!!」「鱗壊せ!!」
打撃を喰らった騎士が、地面の染みと化した。薙ぎ払いの爪を腹に受けた騎士は真っ二つになる。
足下に群がるまでに、およそ半数が原型不明の肉塊にされた。だが、取り付いた教会騎士たちは一度とて振り返らない。
フランシスコ枢機卿が思いきり戦槌を振り下ろした。地に着いた膝から、鱗の一枚が剥がされる。
「蟻の一匹に殺される者はいないが……巣に踏み入った者が死ぬことはある。ここで死ねぇ!!!!」
全身に小さな痛みを浴び続け、ツィツィ・ミトルがのたうち回る。その質量に――そして振り回される巨腕に、次々と犠牲が増えた。
隣で戦友が金属混じりの肉塊にされても、教会騎士団は止まらない。
彼らは、主が作り給うた人の世の為にいるのだ。
「くたばれゴミトカゲ!! ゴラオイ!!」
「傷口に火薬ブチ込んでバコバコ言わせてやるよゴラ!!」
「よがってろ、罪の塊が!!」
回り込んだフランシスコ枢機卿の鉄槌が、ツィツィ・ミトルの肛門に突き刺さる。悲鳴のような咆哮が上がった。
離れた場所から、オセロたちは濃密な暴力を眺めていた。
ペドロが細い布でオセロのふくらはぎを縛る。石は刺さったままだ。不衛生な環境で無理に抜けば、余計ひどいことになる。
オセロは教会騎士団の暴れっぷりに、曖昧な笑顔を浮かべた。
「なんか、ここの土地の神官様も凄いね」
ペドロは疲労の滲む声で答える。
「知りませんでした。穏やかな方々だと、今日の今日まで思っていました。知らないことばかりです」
「そう。知れて良かったね」
「知りたくありませんでしたよ」
ツィツィ・ミトルが地面に向け炎を吐き出す。巻き込まれた教会騎士が藻掻き苦しみながら倒れた。
続々と増える殉教者たち。
「このままじゃ、全滅待ったなしですね」
「そうしたら、また私たちが戦うまで……と言いたいところだけど、あれ見て」
オセロが指さす先には、泥水にまみれ疲れ果てた大集団がいた。誰もが肩で息をしながら、両腕で何本もの槍を抱えている。
「歩兵隊と陛下……!」
王都の全戦力が、崩壊した人間の城に集結した。