ハンモックが揺れる。まだ日も昇らない薄暗い部屋で、ディエゴは目を擦った。
甘い香りが漂っている。花や果実のように華やかなものではなく、慎ましやかなものだ。
ディエゴは立ち上がろうとし、大きくバランスを崩す。咄嗟にハンモックを掴んで耐えた。
「……忘れてたな。なんだよ、この寝具」
島落としの影響が抜けたのか、急に涼しくなった空気に身を震わせる。これが本来の高山らしい気候だった。
ディエゴは体に掛けていた、リャマの毛を織った柔らかい布を羽織る。
「ああ、起きたんだね。おはよう」
火の気配があった。背の低い竈の上で、土器の鍋がことこと柔らかい音を立てている。
「いま、パパでお粥作ってるから少し待っててね」
煮られているのはジャガイモだった。トウガラシ、トマト、刻んだインゲン豆がもったりとした粥の中で鮮やかな色を浮かべている。
「ああ……飯の用意まで。ありがとうな」
「いいの。ずっとしてきたことだから」
ディエゴは口を半開きにして寝ているイザベルの唇をつまみ、勝手に閉じた。手持ち無沙汰な様子でうろうろと歩き回る。
オセロが大きな瓶を指した。
「水はそこね。金の容器はだいたい危ないものが入ってる。土器はだいたい安全。そんな感じ」
「ああ、すまん」
情けない顔をしながら、持ち手のついたコップで水を掬い、喉を潤す。小さな溜息をついてから、オセロの横にしゃがんで火を覗き込んだ。
「平和な目覚め過ぎて調子を崩しそうだ。儀式で少しは引き締まると良いんだがな」
「荒んだ暮らしをしていそうだもんね。蛇みたいな目をしてる」
「蛇?」
「見てないようで全部見てる。どこからどこまでが視界なのか、誰もわからない目だよ」
ディエゴは小さく喉を鳴らした。
「俺の目を見ている相手は全部見えてるぞ」
「じゃあ、今は私の目も見えてるんだ」
「もちろん」
火を覗くディエゴの横顔を、オセロがじっと見つめている。顔色を変えない二人の間に、独特な空気が流れていた。
それをイザベルの呻き声が断ち切る。
「うぅん……捕虜は食べないですよぉぉ」
ディエゴが吹き出した。その横で、真顔のオセロが言う。
「腕と脚はもらえるのに」
ディエゴは目を剥く。
「俺は食わねえからな!?」
「はっ、ご飯ですか師匠!? 私は食べます!」
「良いのか!? お前それでいいのか!?」
事情も知らずに単語だけに反応したイザベルは首を傾げた。
◇
食事を終えた三人は身支度を調え、それぞれの竜に跨がった。竜同士は夜の間に親睦を深めていたのか、どことなく距離感が近い。同じ戦場で戦った竜にはよくある話だ。
斜面から飛び立ってすぐに、オセロを先頭に綺麗なくさび形の編隊が出来上がった。
連なる尾根に沿いながら飛んで行き、大地の裂け目を利用して山脈の反対側に回り込む。山脈の裏側で、風の流れが変わった。吹き付ける風が山肌に当たり、上昇気流となる。
編隊は急速に高度を上げて、神殿の建つ峰を目指した。
山頂付近に広がるなだらかな地形を活かした神殿都市。その上を竜騎士達は旋回する。
野生のドラゴンは都市の上で旋回などしない。隙だらけと見るや、その傲慢さを剥き出しに真っ直ぐ滑空してくるのだ。
旋回することで敵意がないことを示すのは、どの土地でも共通のようだった。
都市の中でも特に高い位置にある広場目掛けて、三人は滑空を始める。
「竜のための広場か?」
「球技とか闘技とかの広場だよ!」
「へぇ、楽しそうですね!」
イザベルが朗らかに言った。ディエゴは顔をしかめる。
石畳で丁寧に舗装された広場に降り立つと、すぐに戦士たちが集まった。戦士らの頭上で、孔雀の尾羽に似た飾りが揺れる。
竜騎士はいないらしく、全員脚を出した薄着だ。スカートに、竜の革鎧と毛皮の羽織り物だけ身につけていた。手には黒曜石の刃を埋め込んだ棍棒を持っている。原始的だが、人間を痛めつけるのには強力な武器だ。
中でも最も多くの毛皮を纏う戦士が、オセロに声を掛ける。
「オセロトルヨトル……そいつらは、外の者か?」
「そうだよ。昨日の島落としを倒した竜騎士。私よりも強く、そしてこの領地《ワマニ》への帰属を求めている。今日は戦士の儀式をしに来た」
戦士は頷いた。ディエゴたちが信用できるかなど、あえて問いただす真似はしない。
「予言の日と一致する。七の暦と五〇の暦が重なり、空には彗星龍がいる。地殻龍の使者で間違いない」
ディエゴは小さく首を傾げたが、口はしっかりと噤んだままだ。その様子を見たイザベルも大人しくしている。
戦士とイザベルの目が合った。
「そちらの少女は……使者の子どもか。見学か、ゆっくりしていくといい」
「あー……うん。まあそうだ」
「そうなんですか!?」
「そうだ」
嘘である。血縁関係は一切無い。
「予言では、五人の生け贄と戦うことになっている。言ってはなんだが……大丈夫か?」
戦士はやや不躾に感じられるほど、ディエゴの体をまじまじと眺めた。
腕、首、脚。どれも太く、野生を感じられるほどに鍛えられている。だが身長が低かった。ディエゴは標準的なカスティラ王国人男性より、二回りも小さい。
ワイバーンライダーとしては有利な特性だが、地上で白兵戦をするにはいささか頼りなく見えるのだろう。
ディエゴは口の端を曲げた。
「そいつらが島落としより強いとでも言うのか?」
◇
領主《クラカ》の館は広場とすぐ近くにあった。
領の中心地であるこの街では、多くの建造物が土台と石壁を共有している。広場に使われている石畳が、そのまま領主の館と神殿の土台となり、領主の館と神殿は同じ壁で繋がっていた。
戦士たちに案内されて館に入ったディエゴたちは、すぐに饗宴用の部屋に通された。
開放的な空間。一段高い場所には精緻な彫刻が為された石の椅子が置かれている。窓にはガラスも鎧戸も嵌められておらず、開放的な印象を与えていた。
床に敷かれた鱗付きの竜皮の上に立ち、ディエゴらは領主《クラカ》を待つ。彼らの左右では、三体の神が掘られた石灯籠が煌々と光を放っていた。
「イチ領主というには大がかりだな」
ディエゴが囁いた。オセロが頷く。
「ここもそうだけど、だいたいの領地は平地の民と交渉や小規模な戦いを通してひとつの国になったの。大きな街の領主は、もともと王様だったんだよ」
「想像以上にでけぇ国だったんだな」
ディエゴの喉が上下する。
複数の民族が共存する巨大国家というのは、武力だけでは成立しない。広大な土地と莫大な人口、それらを支えるための行政システムという、文化的な成熟が必須である。
また、通信網やそれらを実現するための、道というインフラ工事も必要だ。多くの労働力をかき集められる「何か」――食料の余剰であったり、王の求心力であったり――も持ち合わせていることになる。
鉄や火薬の気配がないとはいえ、カスティラ王国に匹敵する力を持つ国家の可能性があった。
「イザベル。忠誠を求められたら、お前は躊躇わずに誓え」
ディエゴは険しい顔をした。
「誓いますけど……師匠は違うんですか?」
「一応は陛下に恩がある。穏便に取引で済ませてくれることを願っているが……」
「私、師匠は食べたくないですよ」
「勝手に殺すんじゃねえよ」
部屋の奥。戸のように掛けられていた布を戦士がめくり上げた。
一目で権威を感じられる男が、四人の戦士に二人の神官、二人の侍従に付き添われて入ってくる。
コンドルの羽根飾りに、竜牙のネックレス、そして金の装身具に彩られた華やかな姿である。上質な純白の綿布に身を包んだ領主《クラカ》は、仰々しい椅子に座ることなく、真っ直ぐディエゴの前に歩み寄った。
力強い目の男だ。顔全体は無骨な印象だが、目は大きく丸く、澄んでいる。皺《しわ》が深く頬は痩《こ》けているものの、覇気が漲っていた。
領主とディエゴの視線がぶつかる。
羽根一枚ほども頭を下げないディエゴの裾を、イザベルが一生懸命に引っ張っていた。
「師匠、師匠……!」
領主がその手をそっと押して離させた。
「良い。互いに下げるべき頭ではない」
ディエゴの表情が和らいだ。
「助かる。随分と寛容だ。強者の余裕というものか?」
「神々の啓示を受けた者に、何かを強要できる身ではない。身の程を知っているだけだ。それに……偽物であれば、時の流れに淘汰される」
領主は真面目な顔で、自分の言葉に一度頷く。
「平地の王もそうであった。あれは真に、羽毛を持つ蛇だった。瞬く間に争いに満ちたこの島を平定した。余は、身の程を知っているのだ」
ディエゴの額を冷や汗が伝う。
「それほどの指導者がいるのか。だというのに、カスティラ王国の竜騎士が無礼を働いたと」
「戦いの前に会っておくか?」
「お言葉に甘えて」
領主は館まで案内してきた戦士に、ディエゴと捕虜を面会させるよう命じた。挨拶は済んだとばかりに、背を向ける。
「儀式を見守らせて貰う。それ以外は好きに過ごすが良い」
後ろ姿を見送りながら、イザベルが首を傾げた。
「なんか、私は戦わなくて良い流れになってませんか?」
「そんな感じだよな。良かったじゃねえか」
「竜騎士的にどうだろうって思いもしますけどね」
ディエゴはイザベルの金髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「構わねえよ。必要になったときに殺せばいい。必然性が低い殺しに慣れると、ちょっとしたことで殺しが選択肢に上がる。それを人は『人間性』と呼ぶんだ。そのままでいればいい」
イザベルは嫌そうな顔で首を引っ込めながら、「そうなんですかね」と不満そうに言った。
◇
ナステカの戦士二人に挟まれながら、ディエゴは薄暗い廊下を歩いていた。
捕虜を収監している牢獄は、館の離れに作られていた。急峻な傾斜に面した半地下部分に作られているらしく、天井付近の窓からは土っぽい香りが吹き込んでいた。
「ここだ」
先を歩く戦士が、竜脂の燭台で牢の一つを指す。格子などのない開放的な部屋だった。
虫の繭のようなものが五つ転がされていた。大きな布袋で、体育座りのように手足を曲げられた状態で詰められ、頭だけ出た状態でしっかりと縛られているのだ。
排泄物の臭いがひどい。ディエゴ顔をくしゃりと歪め、鼻の穴を細めた。
「捕虜ってぇのは、生け贄にすると決まっていようが、もう少し丁重に扱うもんじゃねえのか?」
案内した戦士は肩をすくめる。
「自ら志願した生け贄や、服属都市から差し出された生け贄は丁重に扱う。国のために戦った勇ましい戦士もそう扱う。一騎打ちに敗れた者、球技の敗者もそう扱う。だが、この者達はそうではない。ただの野卑な略奪者だ」
「相応しい扱いってやつか」
「理解が早い。感謝する」
「いや、こちらこそ余計なことを言った」
ディエゴは転がされて浅い息をしている捕虜の髪を掴んだ。引き起こし、顔を覗き見る。それなりに長い間捕まっているのか、髭《ひげ》がぼうぼうに伸びて顔を覆っていた。
ディエゴは捕虜の頬を軽く叩きながら声を掛ける。
「よお。俺はカスティラ王国の竜騎士ディエゴだ。お前らの所属は?」
捕虜は虚ろな目でディエゴの顔を見た。急速に焦点が定まっていく。
「ディエゴ……ディエゴ!? 蛍火の!?」
「そうだ。所属を言え」
「た、助けに来てくれたのか!? 俺たちは第二竜騎士団の外征部隊だ!」
ディエゴの瞳孔が小さくなる。
「ほう、第二か。どおりで」