当時のオラリオでは、エルフというのは極極少数しか存在しなかった。
理由は明白で、彼らの故郷であるエルフの森が、かれこれ数千年前から大陸で最高の安全地帯としての地位を不動のものとしているからである。
エルフと精霊が暮らす森はリヨス・アールヴの血族が王侯として君臨することは知られているものの、森の外に出るエルフが極めて少ないことも手伝って、その実態の大半が謎に包まれていた。
少し前にもラキア王国による侵略を跳ね返していることから、大陸で最も安全な領域との評判は伊達ではないことは明らかだった。
そんな謎の多いエルフの森から、わざわざオラリオに来るような物好きは少数派と決まっているのだが、オラリオでエルフというものを初めて見た人々はその美しさに驚きを隠せないこともしばしばだった。
外見的に美しいだけでなく、その所作一つを取り上げても非常に洗練されていて、育ちの良さが明らかな者も多かったが、出自を尋ねると彼らの大半は人間の社会で言うところの平民であり、彼らの上には神にも等しいとされるハイエルフたちが君臨しているのだという。
貴種を憎むものがいないとは言えないが、エルフの多くは貴種に憧れを抱くものであるらしい。
彼らの信仰は神々へというよりもハイエルフに、より厳密にいえばハイエルフをハイエルフたらしめている神聖な血統にこそ向けられていた。
人々はこの話を聞くたびに思った。
「あの高慢なるエルフが心服するほどのハイエルフとは、果たしてどれほど美しいのだろうか」と。
オラリオでのエルフは神々にも匹敵するような美貌を、神々よりも間近に見られるということもあって、冒険者のみならず、巷の多くの人々にとって大人気の存在となった。
真新しく、物珍しい美しさに対して分かりやすく熱狂する群衆に対して、相手が神ではないということもあって、神々の中にはこれを面白くないと考えるものもあった。
その中の一人がオラリオの南東部に広がる歓楽街を占めていたイシュタル・ファミリアの主神であるところの女神イシュタルであった。
この女神は自身の美貌に自信を持ちながらも、何かにつけて比較されては自分以上だと評されている女神フレイヤのことが甚だ嫌いであり、常々彼女を貶める種を探すような、非常に悋気な、執念深い性質を持っていた。
イシュタルはそんな性格そのままに振舞うことに躊躇などなかったから、案の定、ちやほやされている新参者のエルフ達のことも好きではなかった。
しかし、イシュタルが支配するファミリアの構成員の多くが娼婦であることもあり、彼女には経営者としての側面もあった。
その手腕の良し悪しはさておき、彼女は経営者として実利を追求しつつ、溜飲も下げることのできる妙案を思いついたのである。
それは、早い話がエルフ達を娼婦として仕込み、目玉商品として売り出してしまえ、という案だった。
彼女は後ろ暗い者たちとの伝手も多く持ち合わせていたので、安全地帯でぬくぬくと生きてきたであろう純朴なエルフを拐すだけの、この計画が成功することに疑いがなかった。
だが、ここで彼女はある私的な欲望がむくむくと盛り上がってくるのを感じていた。
最近の話題であがるエルフというのはどいつもこいつも女ばかりだが、女でさえこんなにも美しいと評判なのだから、きっと男のエルフは全員が美男であるに違いない、と。
また、彼女はこのことを踏まえて男の男娼としてエルフの男を用いる計画を追加で考えつつも、自身の寝台に男女のエルフを贅沢に侍らせて楽しむことを想像し、好色な笑みを口元に浮かべた。
イシュタルは女のエルフと、できれば男のエルフも連れてくるようにと命じ、捕まえたエルフは先ず最初に自分のもとに連れてくるようにも命じていた。
果たして、次の日から、エルフが一人また一人と街角から消えていくという事件が起こったが、話題に事欠かないオラリオでは急流に投げ込まれた枯葉の如く、一顧だにされず過ぎ去っていった。
事件が起こった晩のこと、イシュタルの寝室には十人に満たないエルフが集められていた。
彼らの表情は怯えと困惑に満ちており、しかし、その美貌が悲痛な表情さえも視る者の欲望を助けてしまっていた。
イシュタルが姿を現すと、彼女は巨大な寝台の前で堂々と腕を組み、艶を振りまくように見下した視線を配った。
「お前たちを集めたのは他でもない、新参者のお前たちに食い扶持を与えてやろうという私の慈悲によるものだ」
「この街は弱者にとって優しくはないのでな、お前たちはこのままだと故郷に帰るより早く、骨の髄までしゃぶりつくされてしまうだろう」
「そこで私が気を配ってやったわけだ。お前たちには、この街がどんな場所なのかということを、その身をもってしっかりと学んで貰おう」
そこで一旦、彼女は言葉を切り、視線をエルフ達の表情一つ一つに配った。
畏れ。怯え。羞恥。困惑。怒り。
エルフ達の顔に浮かんでいた表情は、どれもこれもが、思い通りにならない現実への苦痛で歪んでいた。
不条理に翻弄される彼女らの姿を視界に収め、イシュタルは自分の中で火にかけられていた溜飲が下がるのを感じていた。
低俗だが、喜んでしまう自分というものから、イシュタルは逃げるでもなく、吹っ切れたように心底からそのざらついた心の感触を楽しんだ。
現金なことに、彼女はエルフ達が不条理に苦しむ感情を見て、そのことに非常に満足していたが、同時に自分に向けて負の感情ばかりが向けられることに不満を抱いていた。
彼女は手始めに飴を使うことにして、声からわずかに力を抜くと、先ほどよりも温かく聞こえるように意識して口を開いた。
「ああ、心配しなくてもいい、そんなに不安げな顔をするな。私は豊穣の女神だからな、慈悲深い上に吝嗇ではない」
「お前たちは真面目に働く限り私からの庇護を受けることができる。その上、私から寵愛を受けるまでになれば、帰るころには故郷に館が建てられるほどの蓄財も夢ではない」
「だから、私によく仕えることだ…さて、お前たちには最初の客として私がついてやろう。女神に手ほどきを受けられる幸運に感謝するといい」
イシュタルは日ごろ娼婦達を統率するような心持で、飴を振りかざした。
彼女が言っていることは事実だったが、同時に、何の保証も伴わない空手形も同然であった。
神の言葉、神との契約はどこまでいっても、神の一存次第だった。
その時だった。
どこかから、知らない風の匂いがした。
「ん?…なんだ…これは…」
イシュタルはふと違和感を感じ声を上げた。いつの間にか、寝室は静まり返っていた。
何も変わっていないように、イシュタルには見えていた。だが、彼女の目に映るエルフたちの様子は明らかにおかしかった。
何かを見つめて目を見張る者、嗚咽をかみ殺して泣きだす者、ただ低く低頭し平伏したまま身動きを止める者、涙をこぼしながら叩頭する者…。
エルフたちに共通するものは、明確な畏れの感情であったが、その質は先ほどまでのイシュタルを相手にしたものとは完全に異質のものであった。
エルフたちがイシュタルに向けたのは恐怖や嫌悪が強かったが、今、彼らが、イシュタルには見えず、彼らには見えている何者かに対して捧げている畏れは、彼女の眷属たちがイシュタル自身に向けるものと同質か、否、それよりも遥かに強大な信仰心に基づくものだと、他ならぬ女神であるイシュタルは理解せずにはいられなかった。
「痴れ者め…姿を表せ」
イシュタルは剣呑を隠そうともせず言い捨てた。イシュタルには、相手が身を隠しているわけではないことを理解できたが、そのことを認めることを、頭のどこかで拒んでいた。
得体の知れない怖気が走るのを無視して、彼女は尚も目を凝らした。
「そこか…いったい、何の用だ?」
エルフの視線の先に目を配り、一点を凝視することしばし、ようやく、その何者かの影が現れた。
つい先ほどまでは何もなかった場所に、フードを目深くかぶった、さもしい旅装の者が立っていた。背丈と体格から見て男に違いないが、いつからそこに立っていたのか、そもそもどうやってこの場所に来たのか、イシュタルには皆目見当もつかなかった。
「ここからが本番だというのに…貴様は何者だ?ここまで踏み込んでおきながら、女神の前で素顔を晒さない不遜は度胸として受け取ってやってもいいが…」
「……」
「…おい、聞いているのか?」
「……」
「聞こえているのなら、フードをとったらどうだ?」
「……」
「それとも、フードをとれないほどに醜いおもてをしているのか?」
「…いいだろう」
微動だにせずイシュタルの言葉を受け止めていた影が徐に一歩を踏み出した。イシュタルに近づくにつれて、その輪郭は明らかとなり、影のようなそれは明確な質量と共に彼女の目に飛び込んできた。
「なるほど…お前もエルフか…同族を救いに来たとでもいうのか?それとも、お前もここで働くか?」
長い耳がフードの両脇を膨らませているのが見て取れた。イシュタルは珍しい獲物に関心が湧いたが、主神の寝室に踏み込まれている状況で、ここまで何の騒ぎにもなっていないことに違和感が強まっていくのを感じていた。
イシュタルの困惑を受け取ったのか、その影は彼女に向かってさらに一歩近づくと、言った。
「自分の手で取って確かめるといい」
「いい度胸だ…これで不細工だったら、魅了をかけて一生奴隷として過ごすことになるから、覚悟しておくといい」
「問答はしない。さっさと視ろ」
ざわざわとした胸騒ぎが起こった。イシュタルは表情が硬くなるのを抑えて、不敵な嘲笑を口角に押し込むと、影のフードに手を掛けた。
来りて、視よ。
何が起こっている?
私は何を視ている?
何を、魅せられている?
フードをとった瞬間に、頭の中が真っ白になった。
よく、わからない。わからない、ということしかわからなかった。
光を。温かく、優しい光を浴びたような気がした。
けれど、光っているものなど何もない。
それどころか、私には、この男の、この人の、彼の顔の、何も、何一つも見ることができない。
わからない。
ただ…
「美しい…」
ただ、漠然と美しいと思った。
今まで生きてきた中で、こんなに、素直に、純粋に、美しい、だなんて言葉が、口から零れたことなんて、果たして一度たりともあっただろうか。
いや、無かったはずだ。一度として、たったの一度だって、そんなことは無かった。
私は、生まれた時から女神だった。生まれた時から美しかった。誰よりも美しい存在として、そう望まれて、生まれてきたのだから。
豊穣の女神として、美の女神として。
でも…これは、私はどうすればいい。
説明できない。
何といえばいいのか、ただ…そうだ、ただ、美しいのだ。
子供たちはフレイヤのことを私よりも美しいと言う。
私はそれを耳にして腹を立てる。私よりも美しいだなんて、そんなのあるわけがないから。
もしも、ほんとうにそうなのだと考えることは、本当に恐ろしいことだった。
けれど、そんな不安が、どうしてだろう、今はまるで…まるで、嘘みたいに消えてしまっている。
だって、私は、目の前の、彼のことを見て、ただ美しいと思ったのだ。
何かに比べようだとか、何かに例えようだなんて、そんな陳腐な真似ができるはずもなかった。
『真の美』
そんな言葉が自然と浮かんできた。
悔しいくらいに、少しも悔しくなかった。
妬ましく思うほどに、少しも妬ましくなかった。
美しいということで、こんなにも苦痛を感じなかったことが、今までに一度としてあっただろうか。
…ない、わね。やっぱり、一度だってなかった。
私は、フレイヤのことを思い起こす。
綺麗な顔。天上の美、だなんて言われていい気になってるなんて。それを思えば、私も同類だな…。
だが、私は、彼を知っている。
私は、彼を、見た。
私は、彼を、知った。
自慢してやりたいような気がして…いつもなら際限なく膨れ上がる気持ちが、ふと彼の顔に視線を戻すと、綺麗さっぱり雲散霧消するのを感じた。
「あなた…美しいわね、とっても」
「…ありがとう?」
「女神からの賛辞よ?是非とも受け取って欲しいわ」
「じゃあ、いただこう…」
短い会話だった。
中身なんて、まるで無い。
彼は、きっと明日までには忘れているだろう。
でも、私はこんなにも晴れやかで、情けないくらいに、目の前のあなたに惹かれている。
正直、理解が追い付かない。だって信じられない。
ついさっきまで、私は彼のことを痴れ者って呼んじゃってたし。嗚呼、本当にどうすればいい…。
私はこれまでの自分の振る舞いを猛烈に後悔している。
が…果たしてどうしたものか…もはや、フレイヤとのことなど、どうでもよくなってしまっている。
彼のことが、知りたい。
なんでもいい、全てじゃなくていい、貴方のことを、その一欠けらでいいから、自分の中にある、静かで優しい場所にしまっておきたい。
「一つ聞いてもいいか?どうして、ここへ?」
気づけば私は、ぶっきらぼうにそう口走っていた。
彼の長い耳が可愛らしく震えた。
見ればわかる。彼はエルフだ。
しかも、ただのエルフではないだろう。
こんなに美しい…こんなにも。
それに、エルフたちの反応は尋常ではない。拝み倒す勢いだし、火が出るくらいに床に頭を擦り付けて平伏している者も少なくない。
こんな反応はゼウスやオーディンを目の前にした眷属でもしないだろうな。呆れるほどに真摯で、痛切な信仰心をひしひしと感じる。
久しく、感じていなかった、古き信仰の匂いがした。
エルフにとって、目の前の彼が特別な存在だということは明らかだ。
そんな彼が、私がこれから犯そうとしていたエルフたちの前に現れたのだから…もはや、何が目的かなどと聞くまでもないことだった。
「聞く必要はないと思うのだが…エルフが攫われてるのを目撃して、これを追ってきたら君の部屋に辿り着いたわけだが…」
彼の言葉は端的だった。厳しさと、それでも事情を聴こうという努力が垣間見えた。
私は死にたくなった。
今まで、こんな感情を抱いたことは終ぞなかったというのに。
今の私は、まるで生娘も同然だ。
目の前の、この、美しい人のことが気になってしまって仕方がない。他のことはどうでもいい。
嗚呼、私はなんと愚かなんだろう…だというのに、どうして今、私は喜ばずにはいられないのか。
あの射すくめるような視線が、私を視ていることが、この上なく有難いことだと感じてしまっている。
私は自分が非常に愚かしいことを仕出かしたうえで、剰え、恐らくは私を懲罰するために来たであろう人に強い感情を、未だかつて経験したことのない激しい感情を向けているのだ。
物語の中にも存在しない馬鹿者だという自覚はあるが…この際、このことは甘んじて受け入れるほかない。
あれほど、当然のことだと考えていたことが、今では酷く具合の悪いことに思えてきたし、今まで非常に刺激的だと思ってきたものが、恐ろしく陳腐なものだったと感じられているのだ。
なにより、彼が怒っているのだから、何かしら悪いことをしてしまったに違いないのだ。
そうだ。そうに違いない。
私は酷く殊勝な、素直な気持ちだった。父神に叱られても、こんな気持ちになったことはなかった。あまりに鮮烈で、私は夢中になって胸の痛みを嚙み締めた。
きっと、嫌われてしまうだろう。けれど、彼は私を嫌うべきだと感じている自分さえ居るのだから、私はお手上げだった。
だから…私は犬のように、ご主人様に向かって腹を見せることにした。
「悪かった。私がすべて悪かった。もう二度としない。今後、私が何かしようと考えた時は必ずあなたに好いことか否かの伺いを立てると誓う。何に誓ってもいい」
「いや、何か起こる前だったから、今回は厳重注意で済ませるつもりだ。次は無いけど」
「次は無い。これから先は、貴方に喜んで服従する。いや、服従させてほしい。まだ、他には貴方の奴隷になると誓った女神は居ない、そうだろう?」
「いや、確かに居ないが…。まだとはなんだ、まだとは…」
「別に娶れとも、抱けとも言ったりしない!なんでも捧げる。好きに使ってくれていい。私の眷属にはそういうことが得意な子も多い、だから、必ず役に立つはずだ。だから!」
「……」
「どうか、またあなたに会うことを許してほしい…顔を見て、話がしたいんだ。本当に、それだけでいいんだ…」
何が起こっている?
私は白昼堂々、同族が攫われるのを見かけたから解放するために下手人の後をついてきただけなのだが…。
なにがどういう訳かは知らないが、オラリオに来た初日の夜に、露出の多い女神を屈服させてしまったようである。
目の前の女神…イシュタル…は、かなり名の知れた大物だと記憶していたが、彼女は今、まさに跪いて私の足に縋り付く勢いで再会を懇願している。
私は天界に強制送還した後で基盤ごともらい受けようかとも考えていたのだが…これは、手間が省けたと考えるべきだろうか。
…真実を見抜く目は持たないが、直接本人に尋ねる以上に確実な方法を私は知らない。
まあ、欺瞞だった場合は、この手で天に送り返すとしよう。
「イシュタル」
彼の声が聞こえた。よく通る声だ。澄んだ声だ。何より、彼の顔を見た時と同じだ。
例えようもない。比べられようもない。ただ、美しい声だ。
「イシュタル」
再び呼ばれて我に返った。
「あ、ああ…それで、どうだろう?」
「いや、また会うのは構わないのだが、さっき言っていたことに嘘はないんだな?君のものを全部使っていいんだな?」
彼は淡々と私に尋ねたけど、私は前半の「また会うのは構わない」の部分から一歩も進めていなかった。
イイの?イイのね?本当に?
私の頭は一面の花畑で彩られた。
「捧げる!全部…全部あなたに捧げる!」
頭が追いつくより先に、体が返事をしていた。
恐る恐る彼の顔を見る。そこにあるのに、手が届きそうもない。
私のものには、私だけのものには、絶対にならない。
そう、わかりきっているのに…だのに、そのことに酷く満たされて、安心している自分がいた。
子供たちが私たちを見上げる『眼差し』の奥には、きっとこんな感覚が棲んでいたのだ。
私以外に、一体どれだけの神々がこのことを知っているのだろう。
「…わかった。一週間後、少し大きな騒動を起こすから、その後で私に協力してくれ。必要な金と物と人を用意してほしい。その後の方針は、とりあえず騒動が片付いてから話す」
「それよりもまずは…エルフたちを解放してくれ。正当な補填を行ってから、安全に大通りに送り届けるように。俺も同行する。以上だ。では一週間後に会おう」
彼は淡々とそれだけを告げると、宣告通りに一人当たり百万ヴァリスの補填が恙なく行われたのを見届けてから、畏まるエルフたちを甲斐甲斐しく支えつつ私の寝室を後にした。
私は、館のバルコニーからエルフを大通りへ送る彼の背中が見えなくなるまで見送った。
彼は振り返らなかった。さみしく感じて、考えてみれば当然だと思い、なんだか可笑しさを感じて笑いが漏れた。
…。
…。
あの日から、フレイヤの名前を聞いても、フレイヤと比較されても、私の胸は何の痛痒も感じなくなってしまった。
引き換えに、私は別の痛みを胸に飼っている。
私は、神でさえも太刀打ちできない不条理があるのだと知った。
私は、何を間違っても、何を捨てても…神であることを捨てても、この胸の不条理に否を突き付けることだけはできそうになかった。
こんなに愛おしい悩みが、他にあろうか。
私は『真の美』を知った。
そして、私が『真の美』を知ってからちょうど一週間後のことだった、昼前の澄んだ、嘘みたいに澄んだ青空を突き抜ける光の柱が地上から立ち上がったのが見えた。
それは十数度も繰り返され、オラリオを激しく揺さぶった。
私はその日が来たことを悟り、一時間と経たずに彼は約束通りに私の前に現れてこう言った。
「最長で一月以内に歓楽街を掌握する。手始めに、イシュタル・ファミリアは主神を失った元眷属を糾合して歓楽街の権力構造を一本化しろ」
私は自分の『魅了』の力で統制することを提案したが、彼は首を振り言った。
「兵士の忠誠心は自力で手に入れる。これまでも、これからも」
私は彼に言われたとおりのことをした。彼も、自分で言った通りに元眷属たちを見事に統御した。
仕事を終えて、彼は私が彼に対して誠実だったことを認めてくれた。
私は、あの日の懇願を繰り返した。
今度こそ、彼は断らなかった。
そして、それは叶えられた。
膝を屈した私は、彼の足の指先に唇を捧げた。
その日、私と彼は、何らの神の名のもとに結ばれる契約にも縛られず、互いへの誠実のみを恃む、主従としての関係を得た。
あの日から三年が経つ頃。
彼は神でもないのに実質的なファミリアの主人となり、その勢力範囲は彼がその手で殺した神々の領域全域と、彼らが司っていた産業全体にまで及んでいた。
彼はイケロス・ファミリアの荒くれ者共を私兵として再教育しつつ、娯楽産業に造詣の深い人材を抽出してオラリオの内外に向けて芸能産業を中心に娯楽を提供する事業を幅広く展開している。
また、デュオニュソス・ファミリアとソーマ・ファミリアは完全に作り酒屋として再編され、依存性を抑えた神酒をオラリオの外では高級ブランドとして、オラリオの内部では地酒として比較的安価に流通させることで双方において莫大な利益を得ている。
他にも、オラリオ内の不動産価格の高騰に伴い、郊外の土地を一早く獲得して観光客向けの安価な宿泊設備として提供して独占的な利益を得てもいる。
郊外での成功は他にもあり、農業と畜産の為に広大な土地を購入し、オラリオ近郊でとれた新鮮な野菜を、食料自給率の向上も兼ねてオラリオ内部で安価に流通させており、彼が言うところの安全保障のための商業も確実に成果が出始めていた。
以前までの南東部は歓楽街を中心に、活気はあるがどこか淫靡な雰囲気が漂っていたが、今となっては表通りにも負けない闊達さを備えていた。
道路は見違えるように清潔になった。これは清掃業者自体が彼の肝いりで十倍以上に増えたことでもたらされたことだろう。
これだけの規模の事業を動かしているのだから、当然ながら彼は多忙だ。
だが、常に働いているように見えて、しっかりと暇な時間を確保していることを私は知っている。
たまに、彼は私の元を訪れる。
訪れて、他愛のない話をするときもある。
専ら、仕事の話が多いのだが。
こんなに働いているのは、神生を振り返ってみても初めてのことだろう。
でも、悪くはない。
少なくとも、私が誠実である限り、私は、彼と正面から顔を突き合わせて話すことができる。
最近、彼は私に露出の少ない服を着るようにと勧めてくることがあるが、私は断っている。
なぜか?
…。
私は知っている。
私が誠実である限り、私は、私のはだけた肌を見た彼の耳が、ほんのりと赤くなるのを見ることができることを。
この調子でいけば、私が彼と体を繋げることを許されるまで、最低でもあと千年はかかるかもしれないが…そのことに対して、私は何らの不満を抱かないばかりか、その瞬間が、少しでも遠いことを望んでさえもいるような気がする。
ふと窓の外を見る。
遠くに見える巨塔は霞がかっていて、なんとなく、みすぼらしく見えた。
バベルを見上げなくなって久しかった。
子供たちは、私が優しくなったと口々に言う。
どうしてそう思うのかと尋ねると、笑顔が増えたからだと眷属たちは口を揃えた。
最近、晴れの日が多い。
夏だからだが、陽射しが強くて暑い日が増えると、どうしても化粧崩れが増える。
彼は、気にしない。
すっぴん『も』好きらしい。
…なら仕方ない。
明日も晴れればいい。