オラリオに至る病   作:ヤン・デ・レェ

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予防は治療に優る。

ここ最近の五十年を振り返って、オラリオの神々は、あの女神イシュタルの変貌に驚きを隠せなかった。

 

謎のエルフが恐ろしい力とともに現れて、あっという間に歓楽街を統制したことは記憶に新しいが、それを後押しした後も、イシュタルとその男の関係性は続いていた。

 

男が誰の眷属でもないく、イシュタルの眷属でもないことは周知の事実だったが、神々はイシュタルの神格を気にして、腫れ物に触るような慎ましい交流をエルフの男との間に持とうとした。

 

大抵、どんなに秘密裏にしようともイシュタルにはバレてしまったのだが、彼女の対応は別人のように穏当なものとなっていたために、神々は信じられないようなものを見たように目を丸くしたのである。

 

この話は瞬く間に広がり、今度は命知らずの神々が、真正面からエルフの男への面会をイシュタルに申し込んだ。

 

すると、その申し出は難なく通り、ついでに「次からは彼に直接了解を取るように」といった旨の言伝まで受け取る始末であった。

 

こうなってくると、神々は勘繰りたくなってくるもので、イシュタルは今、奇特なごっこ遊びに興じているのではないか、と神々は口々に噂した。

 

よく見れば、確かに変なところばかりである。

 

服装は以前とは比べ物にならないくらいに布面積が広いし、化粧も日によっては非常に薄い日もあり、色の合わせ方も淫靡さを強調するものというよりも、寧ろ落ち着いた大人の雰囲気を演出するものになっていたからだ。

 

歩き方は誘惑的なものから、歩きやすさと効率に長けたものになり、座った姿勢は背筋に芯が通ったように伸び、浮かべる笑みは凛としていて理知的だ。

 

その変化は上っ面だけのものではないようで、眷属たちに対しても、そうではない者に対しても、模範となるような姿を心掛けているらしく評判も上々だ。

 

極めつけには、あの高慢ちきのイシュタルが、公然とフレイヤの美を賞賛したのだと言う。

 

それは何時ものように、神々か、あるいは誰かの眷属たちが、誰がオラリオで最も美しい女神かを論じている時だった。

 

偶然にも通りかかったイシュタルは、目の前で彼らが、自分よりもフレイヤの方が美しいと言ったのを目撃したが、これに対して

 

「皆、私とフレイヤを比べて、彼女の方が美しいと言うのね」

 

「なら、もうそれでいいじゃない」

 

「だから、次に私と彼女を比べる時も、必ず彼女の方が美しいって、そう口を揃えて言ってあげるのよ?」

 

…そう言って、彼女は柔らかい…実に魅力的な笑みを浮かべたのだという。

 

それは、自分を比べて云々についてではなく、何かと何かを比べて片方を上げたり下げたりする行為そのものを窘めるような響きを持っていた。

 

彼女の言葉を、振る舞いを見た人々は、言われた当人たちも含めて、イシュタルの険の無い笑みを忘れ難く感じたという。

 

そんなイシュタルの変化を、神々の多くは一過性の気まぐれだと認識していたので、時折、茶化すように彼女の今の女っぷりを以前のものと比較して揶揄することもしばしばだった。

 

中にはこんなことを言う神もいて。

 

「おお、イシュタル、今の君のなんと美しいことか。そして、イシュタル、どうかこのままであれ」

 

それは面と向かって吐かれた言葉ではなく、流言のようなものだったが、実に的を得てもいたので、人口に膾炙して大いに広まったのである。

 

当然、彼女自身の耳にも届いたらしいが…今までの彼女だったならば、必ずや流言の原因を探し出し、これを情け容赦なく八つ裂きの刑に処したであろう。

 

だが、今のイシュタルにとって、それは事実であり、自分の状態が非常に好いことを追認するものでもあったため、聞こえてくるたびに苦笑を零すだけで済んだという。

 

神々が気まぐれだと言い続けて、気が付けば五十年余りが経っていた。

 

イシュタルは今でも、あの日、変わった時から変わらずに、健気にもエルフの男に尽くし続けている。

 

神々の浴場に来る日は多くないが、彼女が来る日を楽しみにする女神は年々増えている。

 

イシュタルはその神としての権能に見合うだけの美しさを元から備えていたが、今や神格のみならず、「人」格とも呼ぶべき部分にも磨きがかかってきていることで、以前とは比べ物にならない魅力を持つようになっていたのだ。

 

イシュタルは娼婦たちの取りまとめをする経営者でもあるから、人の話も神の話も聞き上手であり、豊穣の女神ということもあり太っ腹で、尚且つ懐も深く、慈悲深い振る舞いも目立つようになっていた。

 

彼女の振る舞いは、上辺だけに収まることなく、時にはエルフの男を助け、エルフの男に助けられる形で、歓楽街を中心に、その権能の本来の使い方というものを学んでいった。

 

郊外に購入した大規模な農場の整備のために、イシュタルは自分が汚れることも厭わず、同じく野良着を着たエルフの男の隣で土と格闘したり、酒造施設の見学の折には新しいブランドを創出するために、自分から提案して素足でブドウを踏み踏みした。

 

イシュタルの行動は神々から、いよいよ奇怪の目で見られ始めたが、彼女はそのことを一顧だにせず、ただただ、隣に立つエルフの男のことだけを見つめていた。

 

時に、彼の眼差しを受け、時に、彼の背中に眼差しを向け、時に、隣り合う人と視線が絡むこともあった。

 

そういう時、彼は黙ってイシュタルと見つめあい、試すのではなく、預け、委ねるように瞳を閉じる。

 

そして、次に彼が瞳を開くときには、イシュタルと彼は同じ方向に、眼差しを共有しているのだ。

 

イシュタルは変わった。限りなく好ましい方向に向かって。

 

彼女は時折、自分が女神であることを忘れることがある。

 

そんな時があるほどに、彼女は今の楽しさを実感していた。

 

彼はイシュタルに働けと言うが、それは彼女に出来ないことを無理にさせるというよりは、誰よりもうまくできることを、誰よりも楽しんで出来るような環境を整えてくれる、という意味だった。

 

だから、イシュタルは今が楽しい。

 

毎日のように、彼女は求められている。

 

求められて、この場に居る。

 

求められて、この場で生きている。

 

彼女は、ふとした時に鏡を見る。ジッと見つめて、それから彼に尋ねるのだ。

 

「今の私はどうだ?」

 

「私、綺麗か?」

 

彼の答えは決まっている。

 

「わからない。でも、私の好みだ」

 

イシュタルは、確かめるように何度も聞く。

 

彼の答えはいつも同じで、だから、そのことが、今のイシュタルにとっては何よりも嬉しいことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

イシュタルは眷属たちから慕われることは勿論、南東区画に住まうほぼ全ての人々から、エルフの男に並んで尊崇と敬愛の念を獲得していた。

 

それまでは半ば自称していたような歓楽街の女帝の称号も、今では名実を共に帯びてきたと言ってよい。

 

彼女が道を通ると、人々は思い思いに彼女へ向かって敬意を示すのが当たり前になった。

 

彼女のことを素直に褒めるもの、野次のように万歳を叫ぶもの、名前を呼んで屋台の商品を献上するもの、などなど、その様子は様々だった。

 

イシュタルの街歩きは、大抵、彼との二人きりで行われる。

 

無数の群衆の歓呼に包まれてのデートは、お忍びとも言えないことだが、それでもこの視察を欠かすことはできない。

 

五十年間の付き合いの中で、イシュタルはようやく、彼の隣に居場所を手に入れたのだ。

 

それを内外へと知らしめることができる絶好の場を、彼女に残された可愛げのある狡猾さは逃さなかった。

 

彼はほとんどを学園の内部で過ごすので、街に姿を現すのは非常に稀だ。

 

月に一度くらいは普通で、二週に一度は多い方だ。

 

だから、彼が街を歩くと決まって大騒ぎになる。

 

あの日から五十年…彼は、名実と共に全オラリオの主人なのだ。

 

イシュタルは、その地道で、膨大な、気の遠くなるような作業を、およそ人知を外れた速さと質と量を以て、次から次へと完成させていく様を間近で見続けてきた。

 

彼女は、彼が何か一つを成すたびに、自分が神であることも忘れて、純粋な尊敬の念をその人に抱くのである。

 

神でいる。神である。

 

そのことが、今の彼女には、どうしようもなく些細なことに思えてきて、少なくとも神として在ろうとしてきた自分の振る舞いを思い返すと、顔から火が出るような羞恥を覚えるまでになったのである。

 

今の彼女にとって、『神様ごっこ』で遊ぶことよりも、人間として生きる努力をすることのほうが、比べるべくもなく、幾ばくかの、名状し難い、だが確かな真実を帯びているように思われたのである。

 

そして、その真実様の感覚からは、彼女があの日、正に目にした美と、或いはよく似た心地よさのようなものが感じられるのだ。

 

故に、この、柔らかさと温もりとを捨てることなど、イシュタルには、今となっては到底出来ようはずもなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イシュタルの根城からほど近くにこじんまりとした建屋がある。

 

黒く塗られた四角い箱のような平屋で、飾り気は一切ない。なんだったら窓もない。扉しかない。

 

そんな変な小屋が、エルゴの執務室だった。

 

わざわざ壁を黒く塗ったのは腐食に堪えるためであり、この粗末な小屋が可能な限り長持ちし、オラリオの予算を圧迫しないように、との配慮の結果だった。

 

彼は光源だけは贅沢に利用して、明るい部屋の中で書類を捌きつつも、今日は客人を相手にしていた。

 

緑色の髪を持ち、神にも勝る美貌と称えられており、百名の屈強な兵士を率いてこの街にやってきた。

 

今や時の人である、リヴェリア・リヨス・アールヴだ。

 

「久しいな、元気にしていたか?」

 

「はい、太祖様。故郷はこともなし。太祖様の徳治が隅々まで行き届いておりますれば」

 

「面映ゆい…残してきた人々が真摯に努めた結果だろう。君も、長旅ご苦労だったね」

 

五十年ぶりとは思えない淡白なやり取りだったが、互いを見つめる目は温かかった。

 

「リヴェリア…前から思っていたんだが、太祖はよしてくれ。頼むからエルゴとよんでくれないか?」

 

「エルゴ様が望まれるのでしたら、そう致します」

 

「ただのエルゴ…ほかの何でもないつもりなのだが…拝まれるに足る働きをすることで代えて、応えることにするよ」

 

意気込みのような言葉に、リヴェリアが食いついた。

 

「私もエルゴ様の一助となるべく、この場に馳せ参じました。どこまでもお供いたします。あの日にお任せいただいた師団将軍位に恥じぬ働きを見せて御覧に入れます」

 

「ですから、どうか、貴方様の帷幄の一席を私に頂戴したく…」

 

リヴェリアの真摯な懇願を、エルゴは静かに聞き届けた。

 

「ああ、こちらこそ、どうか君の力を貸してくれ」

 

「はい!」

 

リヴェリアとエルゴは最低でも十年間は同じ時間を過ごした仲だが、その大半はリヴェリアの幼少期でのことであった。

 

だが、故郷に残してきた股肱の麾下である老親衛隊を任せるのに足る人品の持ち主の中で、エルゴのお眼鏡に最も適う存在はリヴェリアを置いて他にはいなかった。

 

そこには、エルゴらしからぬ色眼鏡もあっただろうが、言い換えればそれほどまでにエルゴにとってリヴェリアの存在は大きなものだったのだ。

 

そのことを、リヴェリアはこの短い時間の中で確信することができた。

 

だが、リヴェリアの中でのエルゴの存在は、エルゴの中のリヴェリアと同じか、否、それ以上に巨大で、替えが効かないものだった。

 

エルゴにとっては、数千年ぶりに強い愛着を抱いた子孫がリヴェリアであったように、リヴェリアの幼少期の大半を彩るのは、御伽噺の大英雄が自分だけを見てくれているという、そんな至福の時間だったのだ。

 

「リヴェリアと老親衛隊を召喚した理由は他でもない、組織的な戦術行動が必要になったからだ。意図せぬ形でな…」

 

「と、いいますと?音に聞いた『闇派閥』ですか?」

 

エルゴは小さく頷いた。

 

「遠からずだな。相手がモンスターならば向かってくるのを切るだけで済むから私一人でもよかったのだが、相手が賢いとそうも上手くいかないのでな」

 

「だが…より大きな問題は相手ではない。問題は、彼らの根城がダンジョンの中にある、人工ダンジョンにあるという点だ」

 

初めて聞く単語にリヴェリアが首を傾げた。

 

「人工ダンジョンですか?」

 

「ああ、クノッソスとか言うらしい。大分複雑な構造のようでな」

 

「ダンジョン内部のことは、本来ならば冒険者とギルドの領分であると思いますが…」

 

リヴェリアの指摘に対して、エルゴは真顔で頷いた。

 

「その通りだ。だから彼らには我々が勝手にすることだから気にしないでくれと言ってある」

 

「向こうはそれで納得したのですか?」

 

「いや、納得はしないと思う。けれど、こういうことは出来る人とやりたい人と、やらなければならない人の内の手空きの奴がすればいいんだ。面子を理由に問答している暇はないだろう。問題が表面化してからでは遅いし、被害が出てからでは遅すぎる」

 

「なるほど…予防は治療に優ると?」

 

リヴェリアの言葉はエルゴにとって聞き覚えがあった。その言葉を彼女に教えたのは、他でもないエルゴ自身だったからだ。

 

「そうだ。殊に治世における最重要事項は、正に予防にある。何も起きるべきではない。明日も今日と同じ平穏が訪れることを、日没と日昇にも等しい自然なものとして維持することも為政者の責務だ」

 

「我々は国家の主治医である、と…」

 

「そうなるな。明日からダンジョンに潜るぞ。最初は慣らしも兼ねて上層だけだが、一年以内に行動を起こすからな。先々までの物資の準備は既に済ませてある。探索である程度の目途がついたら本格的に攻め入るぞ」

 

「ああ、それと、必要なら神々の誰かから恩恵をもらっておくように。不要ならばそれでいいが、安全対策としてやらないよりはやるべきだろう。兵士たちの分は希望者にはイシュタルが与える手はずになっている」

 

「リヴェリアも考えておいてくれ」

 

「わかりました」

 

そこで二人の話は終わった。

 

エルゴはリヴェリアが変わりなく自分を慕ってくれていることを嬉しく思ったし、リヴェリアはエルゴから頼みにされているという実感を得て歓喜していた。

 

「明日に向けてゆっくりと休むように。兵士たちには私が会って直接声を掛けるから、リヴェリアは先に休みなさい」

 

「いえ、私も御供します。父帝から直々に師団将軍へと親任されたのですから、然るべき義務を果たさねば」

 

「なら、一緒に行こう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのまま兵舎へと向かうかと思われた時だった。

 

部屋の扉が開け放たれて、上機嫌のイシュタルが現れた。

 

露出の少ない、動きやすそうな衣装に、控えめで上品な化粧、顔に浮かんでいるのは穏やかな微少だ。

 

快活な足取りで、女神は当然の如くエルゴの隣に収まった。

 

「その子が例の、貴方の愛し子か?」

 

「ああ、紹介しよう。リヴェリアだ。リヴェリア、こちらはイシュタルだ」

 

エルゴが言い終わるか否か。イシュタルは慣れた素振りで自分から手を差し出した。

 

「ご紹介に預かった、イシュタルだ。リヴェリア…ふむ、噂に違わぬ美しさだな。これには並みの神々では太刀打ちできんな」

 

「森の皇女リヴェリア・リヨス・アールヴだ、以後、お見知りおきをイシュタル、様」

 

戸惑いを隠して、リヴェリアは手を握り返した。

 

「いや、お前はエルゴが可愛がってる奴だろう?だから、様は不要だ。ただのイシュタルでいい」

 

気さくな笑みは嘘には見えない。イシュタルには陰湿な雰囲気など微塵も残っていなかった。

 

リヴェリアも、上品な笑みを口元に浮かべて友好に応じた。

 

「わかった。私もただのリヴェリアだ。よろしく、イシュタル」

 

「ああ、よろしく、リヴェリア」

 

唐突な女神の登場はリヴェリアを僅かに動揺させた。

 

理由は、かの女神とかの御仁との距離感の近さだった。

 

幼少期、その寵愛を一身に浴びてきた時でさえ、リヴェリアとエルゴの間には見えない溝があった。

 

それは年の差であり、立場の差であり、そして血の差だった。

 

年の差がありすぎることも、立場の差がありすぎることも、時間と努力でどうにかできるかもしれないが。

 

今尚、血の差が『無さすぎる』ことだけは如何ともし難かった。

 

リヴェリアの身体に流れる血は、余りにも濃い。

 

そして、その血の濃さこそが、寵愛の一端を担っていることも否定できないことであった。

 

愛情を惜しみなく注がれてきたリヴェリアですら、まだ味わっていない情がある。

 

それを、欠片なりとも目の前に居る女神は、エルゴから受け取っているのだ。

 

リヴェリアは、そのことを瞬時に理解した。せざるを得なかった。

 

「二人きりでどこに行くつもりだったんだ?」

 

「兵達に会いに行こうと思っていた。二人で激励でもと」

 

「へえ…殊勝な心掛けだ。流石と言うべきだな」

 

「出来ることだからな。するだけだよ。リヴェリアに経験を積ませる意味もある」

 

リヴェリアの目の前で話す二人は自然体だ。互いに繕うところなく言葉を交わしているように見えた。

 

イシュタルがエルゴに向ける視線には確かな熱があり、対してエルゴがイシュタルに注ぐ視線には影も力みもなかった。

 

それはあっさりとしていて、物知らぬ人が見れば無関心の冷淡をさえ感じるかもしれない。

 

だが、リヴェリアはエルゴという男が、非常に堅固な要塞のように隙を見せないことを知っている。

 

だから、イシュタルに向けているエルゴの視線が、安全地帯だと認識した存在にしか向けられない眼差しであることは彼女を動揺させるのに十分だった。

 

それはこれまで、彼女が、リヴェリアだけが、自分だけが浴びることを許された眼差しだと思っていたものだったからだ。

 

「ああ、そういえば、今度の視察は延期にするのか?」

 

イシュタルは徐にそんなことを言って、慣れた素振りでエルゴの肩に手を置いた。

 

「立て込んだ場合は、そうなるだろう。予備日を踏まえて計画しているものの、クノッソスの全容は不明だ。最悪の場合は出入口を埋め立てることも視野に入れているよ」

 

腕をその胸に抱いたわけでもない。ただ、エルゴの肩に手を掛けているだけだ。

 

「へえ…大変そうだが、何か手伝うことはあるか?」

 

手を掛けてすらいないかもしれない。ただ、戸惑いがちに載せているように見える。

 

「そうだな…問題行動を起こす連中が出たら、魅了を掛けてでも止めてくれると助かる」

 

それは手を繋ぐことにも至っていないが、イシュタルの手が自分の皮膚に触れることを、エルゴは受け入れているように見えた。

 

「そんな、神の力を使ってもいいのか?」

 

「品格の為だとか言われても、な…それを使うことが世の中を混乱させるならともかく、混乱を鎮静させるために使えるならば積極的に使うべきだと思うが…」

 

「わかった。貴方の言うとおりにする。貴方を信じるよ」

 

「うん、頼んだ」

 

二人の、互いが距離を測り合うような仕草に、リヴェリアは胸がぎゅっと収縮するのを感じた。

 

胸が詰まったような痛みに襲われるが、それをおくびにも出さずに、リヴェリアは出発を促した。

 

「エルゴ様、さあ、行きましょう。イシュタルも一緒にくるか?」

 

リヴェリアの言葉はなんとも固さが抜けていないものだったので、イシュタルは機敏に反応して誘いを断った。

 

「いや、私にはこれから仕事があるからな。農場に、娼館に、税務署にと大忙しだ。だから、二人で行くと好い」

 

「そうか、それじゃあ、また後で」

 

「ああ、貴方もな。リヴェリアも」

 

「ええ…では、また」

 

イシュタルが去る。

 

その背中をじっと見つめてから、リヴェリアは思い切ってエルゴの手を取った。

 

「リヴェリア、どうしたんだ?」

 

エルゴは純粋に疑問を抱いた様子で問うた。

 

「いえ、少し、小さい頃を思い出して…」

 

「あぁ…そうだね」

 

リヴェリアはエルゴと手を繋いでしまった事実に照れまくり、次いで理由を言うのを日和った自分に顔を赤くしたが、それ以上の勇気はまだ出せそうになかった。

 

「さあ、行こう」

 

「はぃ…」

 

俯いて顔を上げないリヴェリアをしばし見つめてから、何かを納得したエルゴはリヴェリアの手を、柔らかく包むように握りなおすと、淀みのない足取りで兵舎に向かって歩みを進めた。

 

少し遅れながら、リヴェリアはエルゴの背中を見つめて、ただそこだけを見つめて歩き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リヴェリアと老親衛隊はエルゴに先導されながらダンジョンの探索を決行し、鍛錬と探索を並行して継続すること九か月ほどでクノッソスの過半を捕捉した。

 

元より全体の完全殲滅を視野に入れていない彼らは、秘密の入り口を見つけ次第これに投降勧告を行い、時間内の投降者に対して適切な保護と罪の一部減免を約束した。

 

そして、勧告が受け入れられずに定刻を迎えれば、即座に出入口を爆破した。

 

この作戦の為に用意された膨大な火炎石の量は、その日のダンジョンへの立ち入りをギルドが禁じるほどの地響きを連日もたらすほどであった。

 

この際、クノッソスを破壊するために使用した大量の火炎石によってダンジョンの各所が崩落した。

 

この崩落現場からは、それまでの類例に見られない強力なモンスターが発生したため、一時は撤退も視野に入れられたが、脅威の登場と同時に駆け付けたエルゴによってその都度、適切に排除された。

 

クノッソスに対する破壊工作は一週間ほど続き、その結果、一般に『闇派閥』と称される組織は、事実上殲滅された。

 

だが、この時点での闇派閥には、既に主神と呼べる存在も、旗頭と呼べる存在もなく、形骸無実化していたのが実情であった。

 

また、前述の主神も、旗頭と呼ぶべき存在も、その大半が五十年前のエルゴの襲撃に遭い、その大半が天界に強制送還済みであるか、或いは彼の部下として心を入れ替えて働いているような現状にあった。

 

果たして、クノッソスの破壊の真の目的とは、もはや残滓にも満たない闇派閥を名実ともに消し去ると共に、その大義を借りて、南東区の勢力がダンジョンの現況を把握するために行った工作であり、同時にギルドによって隠蔽されている何らかの事柄を調査するための大規模な軍事行動だったのである…と、世間一般には解釈されることとなった。

 

その根拠として、ダンジョンの破壊と整理を終えた一団が帰還したときの彼らの列には、当初ダンジョンに入った者の名簿に含まれていなかった者たちまでもが含まれていたからである。

 

存在しないはずの帰還者が、一団を減らすどころか増やして、地の底より舞い戻ったのである。

 

彼らは異形の者どもであった。

 

世に言う、後の異端児…ゼノス…である。

 

彼らはどこからどうみてもモンスターであった。

 

そのため、勇者たちを歓迎する為に集まった群衆は一時的に恐慌に陥りかけた。

 

だが、これをエルゴは一喝し、その異形の者どもを老親衛隊の林の中から引き出すと、その肩に手を乗せて声を張った。

 

「ここにいるものはモンスターである。それは間違いがない」

 

「しかし、彼らの多くは会話が成立する者もいるし、物事を理解する能力も決して人間には劣らないだろう」

 

「否、一部においては人間よりも優秀な部分さえ持っているのだ」

 

「私は彼らに問うた」

 

「諸君は、南東区役所において戸籍を登録し、一住民として、一人間存在として、秩序を順守し、互いを尊重する社会契約を我々と結ぶ気はあるか?と」

 

「諸君が我々を尊重し、社会契約を順守する限り、我々もまた彼らを尊重し、社会契約を順守するだろう、と」

 

「彼らはこれに応じた。私は彼らのことを我が民と呼び、その自由と尊厳を何人からも防衛維持する責務を負うものである」

 

「私は、彼らが貴方方と同等のものを支払い、同等の振る舞いを心がける限りは、彼らのことも貴方方と同じように扱うつもりである」

 

「これは、貴方方にも言えることであり、秩序を紊乱する者、他者の尊厳を蔑ろにする者には、それが何者であれ、私は彼の振る舞いと同等のものを与えてきたつもりである」

 

「さあ、諸君、考えてくれたまえ、これまでにモンスターと隣人になったことが皆無であると、そう誓って言えるものがどれだけいるだろう」

 

「貴方の財産や命を脅かし、その尊厳に突き付けられた脅威とは、多くの場合は人間の形をしていたのではなかったか?」

 

「モンスターが貴方を殺すから恐ろしいというのならば、私は人間にもエルフにもドワーフにもパルゥムにも同じことを言うことができる」

 

「彼らの存在を隠しておく必要はない。なぜならば、私の人生の大部分において、最大の脅威はモンスターではなかったからだ」

 

「私の人生の大部分において、私の尊厳に対する最大の敵は、常に人間であったからだ」

 

「モンスターが生まれる以前からの最大の敵は人類であり、今尚も森に攻め込んでくるのは多くの場合は人類である」

 

「であればこそ、私はモンスターを民として、個人として扱うことに些かの不安もない」

 

「私がエルフや人間やドワーフやパルゥムにすることと同じことを、善い場合にも、悪い場合にも、適用するだけの話である」

 

エルゴの澄んだ美声は街中に響き渡り、その一言一句を神々も、街に暮らす人々も、誰もが耳に聴いた。

 

静寂の中で、エルゴが手を挙げると、モンスターたちは従容とした態度で老親衛隊の林の中に身を戻した。

 

そして、隊列の中心にモンスターたちの巨体が収まるのを待ってから、エルゴの一団は南東区の本拠地へと向かって整然たる行進を始めたのである。

 

 

 

 

 

 

 

クノッソス攻囲戦と呼ばれる一連の騒動は、公式的な戦役として歴史書に刻まれた。

 

主な戦闘は全てダンジョンの内部で行われ、リヴェリアに率いられた老親衛隊が主要な役割を果たした。

 

特にリヴェリアの実力は神々の恩恵を受け取ってから数か月の状態にもかかわらず、特筆すべきものがあった。

 

ただ、老親衛隊の大半がエルゴの用意通りに、イシュタルからの恩恵をその身に刻んでいたのに対し、リヴェリアばかりはイシュタルではない別な神の恩恵により、その身に宿る力を開花させたことが後に明らかとなった。

 

彼女の強力な魔法の力によって、道中のモンスターへの対処は極めて円滑かつ危なげのない状態で終始していたようである。

 

帰還後、投降者の多くは罪状に応じた懲罰を与えられたが、死刑は皆無であった。

 

引き換えに、彼らには労働奉仕と介護助手として贖罪することが求められた。

 

一般知識に加えて、倫理と道徳の講義を学園で丸一年間も叩き込まれてから、更に一年間の病院と孤児院での実地研修を経て、彼らは贖罪の為の道を歩み始めた。

 

モンスター改めダンジョンの原住者やダンジョン出身者という出自を獲得し、オラリオ南東区への亡命者ないしは移住者としての立場を付与された彼らは、自分たちが神々からは異端児…ゼノス…と呼ばれていることをエルゴに告白した。

 

エルゴは彼らが数年前には既にその存在を確認されていたにも関わらず、神々ないしはギルドの便利な私兵としてダンジョンの環境を保全する名目で利用されていたことに理解を示した。

 

その上で、彼らの後続となる『ダンジョンからの亡命者』が今後も増えていくことを予測し、エルフの森から持ち込まれた希少な素材を用いて製作された、緑色の割符を用意した。

 

亡命者たちの中にはダンジョンに戻りたくない者もいるが、ダンジョンから今後生まれるであろう同胞を救出することを使命としている者も少なくなかった。

 

この緑の割符は、エルゴの手から預けられた者が、その片割れを要救助者や亡命者に持たせることで、ダンジョン内を巡回する老親衛隊や南東区から派遣される治安維持部隊へと接触する際に、双方にとって安全に判別するための用意であった。

 

後日、数十枚の割符が製作され、それぞれを同胞を探索するためにダンジョンへと潜る者に持たせることで、次第に割符のシステムは機能し始めていくこととなる。

 

また、戸籍を登録し、公営の住居をあてがわれた彼らの多くは、元がモンスターであることから戦闘機能に特化した形態をしていた。

 

そのため、人間よりも強力な身体能力や特殊技能を生かして、主に治安維持部隊や、或いはリヴェリアがこの地で新設した青年親衛隊に参加して活躍の場を得ている者も多い。

 

他方、戦闘には向かない愛らしい見た目の者や、美しい歌声を持つ者、手先が器用な者などにも、積極的に仕事と役割を分配していった。

 

元モンスターで、現状はモンスターとの区別が難しい彼らだが、相互理解の為の地道な取り組みが、時間と既成事実という説得力の中で結実する日が必ずや訪れるであろう。

 

モンスターの括りはいずれ、善いモンスターと悪いモンスターの括りへと変わるだろう。

 

いずれ誰もが理解する。

 

言わずもがな、人間にも善い人間と悪い人間がいるように。

 

それが何であれ、人格を持つ以上、社会環境を整備するということは、居場所を提供し、機会を保証し、役割を発見させ、誇りを創出し、現状に愛着を持ってもらうことなのだ。

 

然う、エルゴは言う。

 

 

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