異世界で目を覚ましたら、言葉が通じないエルフと2人きりでした。しかもお互い別の世界から来たとか、聞いてない 作:飯テロ大魔神
第1話《コミュニケーションの基本は挨拶》
目を覚ましたとき、空は知らない色をしていた。
青とも灰とも言い難い、淡く濁った光が、樹々の合間から差し込んでいる。
風の音はするが、それが森を揺らしているのか、耳鳴りなのか、区別がつかなかった。
地面の感触は柔らかく、湿っていて、苔に近い。仰向けのまま、しばらく動けなかった。
ここはどこなのか。
どうして、自分はここにいるのか。
――という問いすら浮かばないほど、思考が鈍っていた。
数秒か、数分か、あるいはもっと長かったのかもしれない。
ゆっくりと身を起こし、ひとつ、息を吐く。
手足は動く。痛みもない。頭も割れていない。……夢ではない。ような気がする。
そして、気配を感じた。
視線を横に向けると、そこにいた。
銀色の髪が、風にゆれていた。
赤い瞳。長い耳。彫刻のような横顔。
異質で、静かで、美しい――。
エルフだ。
恐らく、彼女はエルフなのだ。
いわゆる“異世界転移”。
漫画や小説で何度も見てきた展開だ。
だが、チートスキルも、冒険の書も、説明してくれる女神もいない。
ポケットを探っても、スマホひとつない。
“ステータス”というものが存在するなら、それを確認する術もない。
きっと自分は、ただ――放り出されたのだ。
それでも、不思議と混乱はなかった。
心のどこかで、こうなる未来を予感していたような。
現実から逃れたいという、どこか諦めにも似た感情が、今の状況をあっさり受け入れさせたのかもしれない。
それにしても、彼女の様子もまた……どこか、異様だった。
この世界の空気に対して、まるで違和感を覚えているように見えたのだ。
樹々のざわめきや、風の流れ。目に映るものすべてに、目を細めて警戒している。
そして、自分に対しても――強く、怯えていた。
いや、怯え、というより、警戒だ。
少しでも不用意な動きをすれば、即座に反応が返ってくる。そう確信させられる空気が、彼女にはあった。
まずは、こちらの意志を伝えなければ。
ゆっくりと、両手を上げてみる。
敵意はない、と。
反応は――なかった。
しかし、それ以上こちらを拒絶する気配もない。
ならば――試す価値はある。
「こんにちは……」
ぽつりと、声を出してみた。
当然ながら、彼女に動きはない。
「聞こえてる? 君……は……」
言葉を選びながら、何度か話しかけてみた。
語尾を伸ばしたり、身振りを添えたりしてみる。
が、彼女の赤い瞳は微動だにせず、ただこちらを静かに観察しているだけだった。
通じない――そう結論づけるには、まだ早い気がしたが。
自分の言葉は、彼女には届いていない。
それだけは確かだった。
やがて、彼女は距離を保ったまま、ゆっくりと森の奥へ歩き出した。
逃げたのではない。
歩きながら、ちらりとこちらを振り返る。
……待っている?
思わず立ち上がり、後をついていく。
今この状況で、唯一“人型”をした存在を見失うのは、さすがに怖かった。
彼女の歩みには、迷いがなかった。
この先に、何かあると知っているかのように。
いや――感じ取っているのか?
彼女の視線の先には、下った谷間のような地形が広がっていた。
岩陰の隙間から、水がちろちろと流れている。
……湧き水、か?
水面には落ち葉すら浮かんでおらず、表面は澄んでいて、冷たそうだった。
彼女は手をかざして、しばらく目を閉じた。
そして、そのまま手を伸ばし、水をひとすくい飲む。
……。
少しの間をおいて、自分もゆっくりと水に手を伸ばす。
喉を潤したい気持ちは山ほどあるが、まずは彼女の反応を見てから。
そう、冷静に判断していた自分がいた。
ひと口だけ、飲んでみる。
鉄臭くもなく、舌に苦味もない。
喉を通る冷たさに、ようやく少しだけ安心する。
彼女は次に、足元の草むらから小さな実を摘んだ。
不思議な形だが、毒々しさはない。
彼女はそれを少し眺めてから、ためらいなく口に運んだ。
反応がないのを確認して、同じような実を拾う。
慎重にひと口だけ齧ってみた。
……苦い。けれど、食べられないほどではない。
歯ごたえはナッツに近く、口の中で少し粘り気を残した。
日が傾き始める頃、彼女は落ちた枝を集め始めた。
その動きを見て、自分も何本か拾っていく。
もしかしたら――
“夜を越える準備”なのかもしれない。
彼女が小さく何かを呟く。
音のような、言葉のような、歌のような声。
次の瞬間、指先に灯った炎が、枝へと移されていった。
それが“魔法”だと気づくのに、さほど時間はかからなかった。
こんな形で、初めて“異世界”を実感することになるとは思わなかったけれど。
夜。火を挟んで座る。
一定の距離を保ちつつ、彼女は上着のような布を肩にかけ、
自分とは反対側に顔を向けたまま、じっとしている。
自分は、焚き火から少し離れた場所に腰を下ろした。
彼女を刺激しないためでもあるが、どこか、礼儀のようなものでもあった。
出会って間もない男女が、無言で焚き火を囲んでいる。
どうあれ、距離感は大切だと思った。
人として――紳士として。
火の音と、虫の音と、葉がこすれる風の音だけが、夜に重なる。
言葉はない。
けれど、その沈黙すら、少しだけ心地よかった。
彼女がなぜここにいるのか。
この世界がどこなのか。
自分に帰る術があるのか――何もわからない。
けれど、たったひとつだけ確かなことがある。
いま、目の前にいる彼女が、
この状況下で、自分以外の“誰か”であるということ。
それだけで、孤独は少しだけ、軽くなった気がした。
──こうして、
言葉のない旅が、始まった。