異世界で目を覚ましたら、言葉が通じないエルフと2人きりでした。しかもお互い別の世界から来たとか、聞いてない 作:飯テロ大魔神
森の空気は、今朝はいつもより少し柔らかく感じる。
濁っていた空が、わずかに明るさを帯びている様な。木々の間から漏れる光が、緑の輪郭を優しく撫でていた。
朝日が差し込むその中を、彼女は静かに歩いていた。
背筋を伸ばし、まっすぐ前だけを見つめて進む姿。
言葉ひとつ交わさないけれど、何かを考えている気配が背中から伝わってくる。
自分は、少しだけ後ろを歩いていた。
だけど今日は、ただ後ろをついていくだけじゃない。
昨日の夜、そう決めたのだ。
「……木の根が湿ってるな。昨夜は冷えたから、朝露かな?」
ぽつりと呟いた。
誰に向けた言葉でもなく、けれど確かに彼女に向けた音だった。
案の定、彼女は反応を見せなかった。振り返ることも、足を止めることもない。
――それでも、いい。
通じなくたって、言葉にしなければ何も始まらない。
昨日、彼女が“りんご”と返してくれたあの瞬間を、自分はきっと忘れない。
だからこそ、声にする価値がある。
森を進みながら、自分は観察を続けていた。
彼女の歩き方。立ち止まるタイミング。何に目を向け、何に耳を澄ませているのか。
――今日は、少し違う。
小さな起伏を越えるとき、足がほんの少し躓いた。
石を踏み外しかけた足元に、一瞬重心をかけ直す動きがあった。
体調が悪いのか――それとも、人間の自分とは、何か違うことがあるのか。
彼女の体の構造がどうなっているのか、自分にはわからない。
けれど、彼女が人知れず無理をしていることくらい、そろそろ気づけるようになってきた。
「……大丈夫か?」
思わず、口にしていた。
通じるわけもない。けれど、その声に、彼女がわずかにこちらを振り返る。
紅の瞳が、自分を見た。
いつものように無表情だけれど、その視線は――どこか、弱っているように見えた。
少し歩いた先で、自分は立ち止まり、来た道を振り返る。
昨日、ふたりが“言葉”を交わした場所。
言葉にならない音が、初めて意味を持った、あのりんごの丘。
「……戻ろうか。少し、休もう」
彼女の返事はなかった。けれど、次の一歩は、自分と同じ方向だった。
たったそれだけのことで、胸の奥がすっと軽くなった気がした。
◇
丘へ戻ると、昨日の焚き火跡がまだ残っていた。
その中に、かすかにくすぶる火種を見つける。
しゃがみ込んで、指先で細い枝を集める。
火種に空気を送るたび、灰の奥から赤い光がゆらめく。
「……まだ、残っていてくれたんだな」
そう呟いた自分の声に、誰も応えない。
だけど、火は応えるように、ゆっくりとまた揺らぎ始めていた。
彼女は、少し離れた場所に腰を下ろしていた。
焚き火に近寄らないのは、彼女なりの“距離感”なのだろう。
それでも、ちらりとこちらを見て、そして目を伏せた。
――安心、してくれている。そう思った。
自分は彼女に近づかない。触れようともしない。
けれど、できる限りのことはしたいと思っている。
火が安定したのを確認すると、そっと立ち上がった。
「……ちょっと行ってくる」
伝わらなくても、知らせる。
自分がここにいて、あなたのために行動していることを。
◇
森の奥へ入ると、風の音が少し変わった。
空気が湿り気を帯び、草の香りが濃くなる。
木々の隙間を縫うように歩いていると、やがて水音が耳に届いた。
そこには、透明な水が静かに流れる小川があった。
近づいて覗き込むと、小魚が数匹、滑るように泳いでいるのが見える。
手を水に浸すと、心地よい冷たさが広がった。
「……ここなら、いけるかもしれないな」
その近くには、小さな実が群れていた。
赤や紫、緑のような色。手にとって匂いを確かめ、口元に運びかけて――やめた。
毒があるかもしれない。けれど、昨日彼女が見極めていた実と似ている。
これなら、彼女が判別できるかもしれない。持ち帰って見てもらおう。
“言葉”ではなく、“行動”で伝える。
自分にできることは、それだけだ。
両手に抱えきれないほどの収穫を持って、再び丘へ戻る。
見上げた空には、朝より少し青みが混じっていた。
◇
焚き火はまだ、ゆっくりと息をしていた。
彼女は、焚き火の光の中で、静かにこちらを見ていた。
自分は荷物をそっと地面に置いて、彼女に向かって言う。
「……ただいま」
意味なんて、通じない。
でも、その言葉は、自分の中でどうしても“必要”だった。
そのとき、彼女の瞳が、ふと揺れたように見えた。
それだけで、今日のすべてが報われたような気がした。
──言葉がなくても、想いはある。
声にすれば、誰かに届くかもしれない。
たとえ、それがどんなに遠くても――
今日もまた、ふたりの一日が、静かに暮れていくのだろう。