前話のあらすじ
「未来を知った」と彼は言う。多くの代償を払い、彼は未来を変えたのだと。
信じたかった。彼の苦悩を、絶望を、悲しみを知っているから。それでもなお、生徒のためにゲマトリアと対峙した彼を知っているから。家族を叫び、生徒に刺されて安堵したような顔をするのが、あまりにも悲しかったから。
「──梔子ユメを私は知らない。手帳のことも、分からない」
──信じたい。でも、それなら、私は一生……?
気付いたら、既に外は暗くなっていた。
電気もついていない薄暗い部屋で、ホシノはただ椅子に座り、無言のまま。伏せられた顔からは表情が読み取れない。
──私のせいだ。
迂闊だった。私が、下手に未来を知っていると豪語したからこそ、ホシノの願いを、想いを叩き潰してしまった。
「……ホシ──」
耐えきれずに呼ぼうとした名前は、急に立ち上がったホシノの姿に掻き消されて空中に溶けていく。私は、名前を呼んでどうしようと思ったのか。
そのままドアの向こうに消えていくホシノの背中を、私は無言で見送った。
ドア越しに、トン、トン、という何かを切る音と、味噌の香りが漂ってくる。
一人きりになった部屋で、私は静かに考え込んでいた。
思い返せば、私はいつも失敗ばかりだ。失敗して、後悔して、迷惑をかけて。そしてまた、失敗する。
「……はぁ」
ため息を吐きたいのは私じゃなく、迷惑を掛けられたほうだろうに。それでも私は、自分の出来の悪さに失望せざるをえない。
どうすればいいのだろうか。私は、ホシノにあんな声を出させたいわけじゃなかった。
チラッと視線が机の上にいく。『シッテムの箱』は、ここにはない。私が目覚めた時からここにはなかった。こんな時こそ、アロナの意見が欲しい。
ほどなくして、ホシノが夕飯を持ってきた。生姜焼きだ。そういえば私は昼も食べていない。気を付けなければ。味覚がなくなって以来、食事の頻度が減っている。どうにも食欲が湧いてこないのだ。
無表情で、ホシノがローテーブルに食事を並べる。私はそれを無言で見守っていた。どう、声を掛ければいいのか分からなかった。声を掛けること自体がホシノを不快にさせる気がして、私の口は、上手く開いてはくれなかった。
湯気を立てる美味しそうなご飯が、無言の食卓を際立たせていた。
結局、一言も話さないまま就寝時間になる。
ローテーブルをどかしたホシノは、空いたスペースに寝袋を敷いた。同じ部屋で寝ることに内心驚く。しかし、考えてみれば大学生の私の部屋もワンルームだった。この部屋以外になると廊下しかないのだろう。
ホシノが電気を消し、暗い沈黙が部屋に広がる。
私は、最後まで何も言えなかった。こんな有様で、どの口が先生などと宣うのだろうか。夜の暗さに自己嫌悪だけが積み重なっていきそうで、私は布団を被った。今日はもう寝よう。
その状態で、どれほど経った頃だろうか。
「……先生、起きてる?」
静かな部屋に、消え入るような小さな声が流れた。
「……うん」
少し戸惑って、躊躇いがちに返事をする。薄い沈黙が、私とホシノを包んでいた。
「……」
「……」
「…………ユメ先輩はね、凄い人だったんだ」
長い間を置いたその声は、酷く、哀愁と懐かしさに満ちていた。
「……ユメ先輩は私の先輩で、アビドスの前生徒会長だった。その肩書も、アビドスを見捨てた他の生徒達から押し付けられたものだったけど。……それでもあの人は挫けることなく、本気でアビドスを再興しようとしてた」
尊敬と、どうしようもない諦観が滲む声に、私は無言で耳を傾ける。
「──バカな人だったんだ」
ひどく眩しいものを見たかのような声だった。
「チラシを配ったらチンピラに絡まれて、仕事を探したら詐欺師に騙されて。しょっちゅう失敗しては半べそかいてね。それが見てられなくて、私も生徒会に入ったんだ。……それからは、二人で色んなことをした」
──二人で一緒に買い物に行ったり、昔の資料を漁ってどうにか人を呼び込めないか考えたり。隠された昔の生徒会の遺産を探しに行ったこともあったっけ。
そう話すホシノは今まで見たことがないほど楽しそうで。
だからこそ、見ていられないような痛々しさがあった。……ホシノにとってユメ先輩がどれほどの存在だったのかが、ひしひしと伝わってくる。
「──当時の私は、ユメ先輩に負けず劣らず、いや、それ以上に愚かだったんだ」
優しい夜の闇。一切顔が見えない中で、私はホシノの表情が容易に想像ついた。
「賢しらに、ユメ先輩に何度も反発して。……壁にあるポスター、変だと思わなかった?」
古びた、アビドス砂祭りのポスター。確かに、ただ古びたという割にはいやに細かく破れた跡がある。
「あれ、私が破いたんだ。ユメ先輩が見つけ出してくれたのを、「夢物語だ」って貶して。その場で、ビリビリに破いちゃった」
「っ……!」
無言で、息を呑む。
破いたことにではない。破れたそれを必死に修復し、部屋に飾っているという事実にだ。……どれほどの執着心だろうか。言葉では言い表せないほどに重いモノが、そこには載っていた。
「本当にバカだよね。中途半端に力だけがあって。それでユメ先輩を守ってあげようなんて、上から目線に。……それでもユメ先輩は、こんな私を受け入れてくれた。生徒会に入ると喜んでくれた。あの人だけが、本気でアビドスを想ってた……!」
ホシノの感情が、決壊する。
「どれだけ騙されてもっ、どれだけ襲われてもっ、ユメ先輩は相手を信じたっ! ……本当に困ってる誰かを助けるために、思い描いたアビドスのためにっ!」
ザッと音を立ててホシノが立ち上がる。
私を見下ろすホシノの顔には、ぼんやりと差し込む優しい月明りが、涙をきらりと反射させていた。
▼▼▼▼▼
『疑念、不信、暴力、嘘……。そういうものを当たり前だと思うようになっちゃったら、私たちもいつか、自分を見失っちゃうよ』
『だからね、ホシノちゃん。困っている人がいたら、手を差し伸べるの。お腹を空かせてたり、寒さに凍えている人がいたら、助けてあげるの』
残っている。その言葉が。
まだ1年生だった私でも、そこに込められた願いは分かったから。忘れることなんて、できないから。
「──ユメ先輩は、砂漠で死んだ。遭難だった」
暗闇の奥で動揺する気配が走る。それは先生のものであり、まだ治っていない傷を抉った私自身のものでもあった。
心の奥底には、まだあの時の私が残っている。どんな時でも、何をしていても消えてはくれない。ユメ先輩の死体を発見したあの時から、心の奥底に
きっと、死ぬまで続くのだろう。
他でもない私自身のことだ。手に取るように分かっていた。
「手帳は、ユメ先輩の最後の遺品。生前に書いていたアビドス生徒会長としての引継ぎの手帳。……私に遺した、大事な物」
今でも、目を閉じれば昨日のことのように思い出す。あの小学生のような手帳に、楽しそうに、自分の体験したことを書き込んでいくユメ先輩の姿を。柔らかい笑顔も、みっともない泣きべそも、優しいのに、芯のある瞳も。全部、ありありと目に浮かぶ。
短い日々だった。もう、ユメ先輩のいないアビドスの方が長い。あの後も、多くの出来事があって、大切な後輩もできた。それでもあの日々を忘れることは決してない。とんでもなく大変で、無茶苦茶で、楽しくて、最高に大切な思い出を。
一息ついて、私は先生と目を合わせた。私の想いが、
「──私は、諦めないよ。なんて言われようとも、私は必ず見つけ出す。そして、ユメ先輩が目指したアビドスを実現させる」
そうだ。私は諦めない。そんな未来は認めない。
だって、目の前に証人がいるんだから。
「先生は未来を変えた。あり得た未来を、納得できないという理由一つで。──だから私も、
きっと、それは並大抵のことではない。先生を見たらわかる。折れた心、傷ついた体。それは、大量の犠牲を払って成しえた奇跡だ。
多くを失うかもしれない。いやきっと、失ってしまうのだろう。あるいは、ユメ先輩の記憶すら。──それでも。
断言して、ニィッと笑ってやった。
笑みは多分、引きつってたけど。胸の奥に、熱い光が灯るのを感じた。
……良かった。先生が居てくれて。
おかげで、ユメ先輩に対する想いをしっかりと確認できた。……私はこんなにも、あの人のことが好きだったのか。
冷静になって、少し恥ずかしくなる。でも、後悔はない。
「……ありがとうね、先生」
それだけ言って、私はバッと寝袋の中に潜り込んだ。若干顔が熱いけど、今日は久しぶりに気分良く寝られそうだ。
▼▼▼▼▼
ホシノが目の前で寝袋に潜り込む。
それを見て、私は──
「──あぁ……!」
心から、感嘆していた。
私とはまるで違う。きっと、これが正しい
──そんな気高い在り方が、美しくないわけがない。
私も、これからを考えなくては。
私は困難を前に、逃げて、諦めて、自分を騙すことしかできなかった。きっともう、それが変わることはない。そんな私が、この先とすら呼べないほどに先のない人生で、何を為すべきか。そう考えるだけの価値を、私はホシノのなかに見た。
……何の問題も解決していないことからは、目を逸らして。
どうやら今日も、眠れそうにはないらしい。