一番の強敵
喫茶店『翠屋』──。
昼の時間帯を過ぎ、客の引いた店内は妙に静かだった。ただの休憩時間の静けさじゃなくて、息をひそめるような緊張の沈黙が支配していた。
リンディさん、クロノ、なのは、そして俺。魔法について説明しようとあつまった4人は、目の前にいる彼女の反応を固唾を呑んで見守っていた。
「……それで、うちの子たちや、そのお友達が……魔法を使って、今までこの街を守っていた、というのは……分かりました。ですが……」
桃子さんがゆっくりと口を開く。その声は穏やかだったけど、手元のカップを握る指に力がこもっているのが目に見えて分かった。
「今後も、それを生業にしていくというのは……」
言葉の余韻が胸に刺さった。誰かが深く息を吐いた気配があったけど、それが誰だったのかは分からなかった。
「お母さん……」
なのはが、不安そうに声を漏らす。顔を伏せるようにしているけれど、その表情には葛藤がにじんでいた。
俺も、口を開いた。
「桃子さん……」
想いを、ちゃんと伝えなきゃいけない。でも、言葉がうまく出てこない。どう言えば、伝わるんだろうか。
空気をほぐそうとしたのか、士郎さんが気まずそうに笑って、話に割って入った。
「まあまあ、桃子……落ち着けって。ほら、恭也や美由希だって武道家として過ごしてるんだし、なのはやユウトだって……」
「あなたは黙っててください」
その瞬間、桃子さんの口から発せられた声が空気を凍らせた。
ピシャリとしたその一言に、士郎さんが小さく肩をすくめたのが見えた。
「……はい」
ただそれだけのやりとりなのに、胸の奥がギュッと締め付けられるようだった。
――やっぱり、簡単にはいかない。
覚悟はしていたつもりだった。でも、優しい桃子さんにこんな顔をさせてしまうのは、正直……きつい。
それでも、向き合わなきゃいけない。ここで背を向けたら、俺たちはもう、前に進めない。
静けさの中、カップの中の紅茶がわずかに揺れる。その震えは、まるで今の自分たちの心のようだった。
桃子さんが席から少し身を乗り出すようにして、リンディさんに向き直る。その眼差しはまっすぐで、穏やかさの中に揺るがない強さが宿っていた。
「リンディさん……私はただの菓子職人です。魔法のことなんて、正直、何一つ分かりません。
それでも、例え、なのはや、ユウトくんたちがどれだけ非凡な才能を持っていたとしても……私にとっては、まだ守るべき子供達なんです」
その言葉は、まるで胸の奥を直接ノックされたような衝撃だった。俺にとっても、なのははずっと隣にいる“家族”みたいな存在だけど、桃子さんにとっては――俺も、大切な子供なんだ。
リンディさんは、そんな桃子さんの言葉を静かに受け止めていた。
「はい……ですが、なのはさんたちはこのまま鍛えていけば、他に類を見ないほどのエースとして活躍できると思います。私たちとしては、本人がやる気であることに、正直、とても助かる気持ちもありまして……」
それは本音なんだろう。局としても、なのはのような才能は喉から手が出るほど欲しい存在だ。俺もそれは分かってる。でも、桃子さんの顔を見ると、それを肯定してしまうことがどれだけ重い意味を持つか、痛いほど分かる。
「なのはが、一生懸命やりたいことを見つけた。それがどれだけ嬉しくても――母親として、素直に認めるわけには、いきません」
その声は、震えているようで、でも決して折れそうには見えなかった。矛盾したその強さが、胸に重くのしかかる。
リンディさんが小さく目を伏せ、それからゆっくりと頷いた。
「……そう、ですよね」
その瞬間、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ気がした。言葉を交わし合う中で、確かにぶつかっている。でも、どこかで理解し合おうとする気持ちがある――それが、この空間を救っていた。
俺は、何も言えなかった。ただ、手の中のカップのぬるくなった紅茶を見つめながら、心の中で何度も自分に問いかけていた。
本当に、これでいいのか、と。
「……そう、ですよね」
リンディさんが穏やかに頷いたその隣で、俺は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。自分でも驚くくらい、手のひらに爪が食い込んでいた。
「桃子さん……俺は……」
言葉がうまく出てこない。喉の奥が締め付けられるみたいに、声が震える。
「もともと、向こうの世界の人間で……記憶をなくす前から魔法と共に生きてきたんだ。それは、俺にとって……産みの両親との……大切な、繋がりでもあるんです」
やっとのことで吐き出した言葉。けれど、それを聞いた桃子さんの表情は変わらなかった。優しいけれど、簡単には揺らがない――そういう大人の、母親の顔だった。
「――それで、私たちの心配は、どうでもいいと?」
鋭く突き刺さる言葉に、思わず肩が強張る。
「違う! けど……!」
口を開いたはいいものの、伝えたい思いが言葉にならなくて、もどかしさに胸が焦げるようだった。どうしてこんなに、自分の気持ちをうまく話せないんだろう――。
そんな中、隣から静かに声が挟まれた。
「桃子さん……僕からも、一言、いいですか?」
クロノだった。俺の代わりに、落ち着いた声でこの場を支えてくれる。いつもの彼らしい冷静な声に、少しだけ心が和らぐ。
桃子さんが視線を向ける。警戒心が宿った目だったけど、その目には、聞く気がないわけではない誠実さがあった。
「あなたは……リンディさんの息子さんでしたね」
「はい。……あなたが、二人のことを本当に大切に考えていることは、よく分かっています。ですが――」
クロノは、静かに、それでも真っ直ぐに言葉を続ける。
「二人の意思を……子供だからと、決めつけないでください。彼らは……あなたのお子さんたちは、もう立派な“人間”として成長していると、僕は思います」
その言葉は、まるで重石のように空間に落ちた。
俺はちらりと、なのはの横顔を見る。じっと母親の様子をうかがうその顔には、子どもらしさよりも、仲間として戦ってきた強さが滲んでいて――だけど、それでも、母親に認めてもらいたいと願う娘の不安も、同時に見えた。
桃子さんは何も言わなかった。ただ、テーブルに置かれた自分の手を見つめていた。動かず、言葉もなく、ただ、じっと。
「お母さん……」
なのはが、小さく声をかける。その声には、震えるような祈りが込められていた。
しばらくの沈黙の後――桃子さんは顔を上げた。そして、リンディさんとクロノに向き直る。
「リンディさん、クロノくん……少し席を外してもらえるかしら?」
その声は静かだったけれど、はっきりとした意思が込められていた。
リンディさんが頷き、隣のクロノに視線を送る。
「……分かりました。クロノ、行きましょう」
「……はい」
二人が席を立つ音が、やけに大きく聞こえた。
リンディさんとクロノが静かに席を立ち、扉の鈴が控えめに音を立てた。やがて足音が遠ざかっていくと、喫茶店『翠屋』の中は再び深い静寂に包まれた。
残されたのは、俺と、なのは、そして桃子さん、士郎さんだけ。
いつもの店内の温かさが、今は妙に遠く感じる。冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、俺は桃子さんの動きを見つめた。
桃子さんは俺たちに視線を向けると、静かに、だけど確かな声音で問いかけてきた。
「……二人は、魔法使い……いえ、魔導師として、働きたい。そう思っているのよね」
俺との視線が重なる。なのはも、同じように息を飲み込んだような表情をしていた。
「はい」
「……はい」
俺たちは声を揃えるように、重みのある肯定を返した。
桃子さんは一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸ってから、吐き出すように静かに続ける。
「でも、それは――
いつか、怪我をして、大切な人を悲しませるかもしれない。
……分かってる? 特になのは。あなたは……お父さんの時のこと、覚えてるでしょう?」
その名前が出た瞬間、なのはが小さく肩を揺らしたのがわかった。視線を落とし、唇をぎゅっと噛んで、過去を振り返るように小さくうなずく。
「うん……。お父さんが怪我をして、入院しちゃったときのこと、だよね」
「そうよ。あの時は、みんな……悲しくて、泣きそうで、大変だったの。
魔導師になったら、次はあなたがみんなをそんな気持ちにさせるかもしれない。……それでも、いいの?」
言葉の重みが、部屋の空気ごと押しつぶしてくるようだった。
俺は何も言えず、ただなのはの横顔を見守っていた。
怯えているようにも見える。けれど――その目は、ちゃんと前を見ていた。
「違うよ……」
小さく、けれど芯のある声が空気を割った。
「何が、違うのかしら?」
桃子さんが、静かに問う。
その瞬間、なのはの背筋がぴんと伸び、ぎゅっと両手を握りしめた。
「全然違うよ!」
声が震えている。でも、響いている。
俺はその言葉に、ただ耳を傾けていた。
「私は……お父さんみたいに、誰かが怪我をしたり、そのせいで周りの人が泣いたり、そんなふうにならないようにするために…魔導師になりたいんだ!」
目の前の少女が、小さな身体で、大きな決意を叫んでいた。
その言葉に、俺の胸の奥が熱くなっていくのを感じた。
――あぁ、なのはは、本当に強いんだな。
俺なんかよりも、ずっと、真っ直ぐで、誰かのために生きている。
それでも、桃子さんの表情は、変わらなかった。
だが、その声には、さっきまでにはなかった微かな震えが混じっていた。
「それは……あなたじゃなきゃ、ダメなの?
あなた自身は……どうなってもいいの?」
静かだけれど、鋭く突き刺さる問いだった。
なのはは、はっとしたように目を見開き、それでも言葉に詰まったまま、小さく口を開けたまま動けなくなっていた。
その様子を見て、俺は思わず一歩、前に出ていた。
「――大丈夫ですよ。桃子さん……いえ、母さん」
口にしてから、俺は自分でも驚いていた。
でも、それは素直な気持ちだった。俺にとって“母さん”と呼べる存在は、プレシアさんも含めて、数えるほどしかいない。
なのはと過ごしたこの家の温かさは、きっと、どこかで俺を育て直してくれた。だからこそ、そう呼びたくなった。
桃子さんが驚いたように俺を見る。
その視線に、俺はまっすぐ応えた。
「あなたがお腹を痛めて産んだ、実の娘が戦うなんて……きっと、信じたくないでしょう。受け入れたくない気持ちも、痛いほど分かります。
でも……なのはは、戦える人です。優しいけど、折れない強さを持ってる。だから、俺がそばで支えます……絶対に、怪我なんてさせません。
俺が、必ず守ってみせます。
それが……あなたに育ててもらった俺からの恩返しです」
そう言いながら、俺は心のどこかが熱くなるのを感じていた。
戦いの場で培った強さなんて、こんな場面では頼りないのかもしれない。
でも――今だけは、俺の言葉が桃子さんに届いてほしいと願った。
桃子さんの瞳が、かすかに潤んでいた。
それを見た瞬間、少しだけ緊張の糸が緩んだ気がした。
「恩返しなんて……要らないわ。
私たちは、ただ――」
その言葉の続きを遮ったのは、店の奥から聞こえてきた士郎さんの低い声だった。
「――その辺にしてやったらどうだ、桃子」
店の片隅でコーヒーを拭いていた手を止め、静かに顔を上げた士郎さん。
桃子さんが驚いたように振り返る。
「あなた……」
士郎さんは落ち着いた声で、けれどはっきりと続けた。
「この子たちの覚悟は、十分に伝わっただろう。
もう、ただ守られるだけの子供じゃない。自分の意思で前に進もうとしてる。
それに……お前だって、最初から完全に反対だったわけじゃなかったろ?」
士郎さんの声には、温かさがあった。
士郎さんの言葉に、俺は思わずその顔を見つめた。
「……どういうことですか?」
その問いに応えるように、桃子さんがふうっと小さくため息をつき、ゆっくりと語り始めた。
「……この前、フェイトちゃんが、うちに来てくれたの」
その一言に、隣のなのはが小さく目を見開いた。
「フェイトちゃんが……?」
「そうよ。魔法のことには触れなかったけど、なのはやユウトくんと出会ったときの話を、静かにしてくれたの」
俺は思わず息を飲んだ。
フェイトが──俺たちのことを、わざわざ桃子さんに話していたなんて。
桃子さんの声は少しだけ震えていた。
「なのはが一生懸命、頑張って友達になろうとしてくれたこと。
ユウトくんが、辛いときにそばにいてくれたこと。
――2人が頑張ってくれたから、今の私がいるって、そう言ってたわ」
そう言いながら、桃子さんは胸に手を当てた。
「そして……そんなあなたたちを育ててくれてありがとうって、私に……」
「フェイト……」
「フェイトちゃん……」
桃子さんは、ふっと優しく微笑んだ。
「……あなたたちが、危ないことをしようとしているのは、正直、今でも心からは認めたくないわ。
でも……誰かを助けたいと思う気持ちを、私は否定したくない。
それだけは、フェイトちゃんの言葉で……少しだけ、わかった気がしたの」
そう言って、桃子さんは俺たちの目をまっすぐ見据える。
「だから、約束して。
――絶対、私より先に死なないこと。
恩返しなんて、そんなものは必要ない。
でも……親より先に死ぬことだけは、絶対に許しませんよ」
その言葉に、俺と、隣のなのはは、思わず姿勢を正し、大きくうなずいた。
「「はい!」」
その瞬間、ようやく――この空間を満たしていた重たい緊張が、静かに解けていくのを感じた。
翠屋の柔らかな照明の下、温かな湯気の立ち上るコーヒーカップのように、心に静かな安堵が広がっていった。
次回からユウトの任務編です