「ヴァイスさん、そこ、まだ汚れてます」
無慈悲なひと言が飛ぶ。
「……は、はいぃぃ……」
返事をしながら、ヴァイスの肩がズーンと沈んだ。
片手に雑巾を握りしめたまま、まるで戦に敗れた将軍のように、膝をついた姿勢で項垂れている。
屈強な魔導師だったはずなのに、今やそのオーラはどこにもない。
ティアナちゃん、7歳。恐るべき完璧主義者であり、家事の現場監督。
年齢と身長の小ささを感じさせない凛とした指示に、ヴァイスは完全に押し負けていた。
一方――
「よし、玄関まわりと靴箱、終わり。次は……廊下かな」
俺は手際よくタオルを畳み、振り返って軽く伸びをした。
「……ユウト、お前、なんでそんなに余裕そうなんだ……」
廊下の片隅でへたり込むヴァイスが、うらめしそうに見上げる。
「え? 普段から実家でやってるし、寮でも自分のとこは自分で掃除してるから…。むしろ全部やらなくていい分今日の方が楽かも」
「……生活力の差ってやつか……」
ヴァイスの瞳が遠い。
水気を含んだ雑巾を握るその手から、しずくがぽたぽた床に落ちていた。そこさっき拭いた場所なんだけどな。
「ヴァイスさん。拭いたあとに水を落とすと逆効果です。……やり直しです」
「お゛ぉぉぉ……!」
ティアナちゃんの無慈悲な指示が飛ぶ。
その声に、ヴァイスは崩れ落ちそうになりながら再び雑巾を絞った。
「はは……頑張れ、ヴァイス」
ヴァイスが思わず立ち上がりかけて、すぐに足を滑らせて尻もちをついた。
「うぅ……オレ、訓練より雑巾がけの方がきついかも……」
「情けないこと言わないでください」
背後からスパーンと飛んでくる、冷たい声。
「もういい年したおじさんなんですから、家事ぐらいまともにこなしてください」
「じょ、おじ……っ!?」
その言葉が心臓に突き刺さったらしい。ヴァイス(15)、撃沈。
リビングの端でコーヒーをすするティーダさんが、そんな俺たちの姿を見て、楽しげに目を細めていた。
「うん、仲良くなっててうれしいよ」
(絶対おもしろいって意味で言ってるやつだ……)
ため息をひとつ吐いて、俺は廊下の掃除に戻った。
タオルをきゅっと絞って、床に膝をつける。掃除動作はすでに身体に馴染みつつある。
「よし、廊下はあと一列で終わりかな」
そうつぶやいて体を屈めたその時だった――
――プルルルルル…!
電子音が突然、静かな廊下に響き渡った。
「うわっ……!」
びくりと肩が跳ねる。ポケットの中の端末が激しく震えていた。
「……だれだろ、こんなタイミングで」
少し水気を拭った指先で端末を取り出して画面を見る。
瞬間、心臓が一拍止まった。
《八神はやて》
その瞬間、思考がフリーズした。
(……終わった)
目の前がスッと暗くなる。
呼吸が浅くなっていくのが、自分でもわかる。
その名を見た瞬間、背筋を冷たい汗がつうっと伝っていく。
(うそ、なんで……!?いや、ヴィータには口止め頼んだよな!?任務入るからって頼んだよね!?)
震える親指で通話ボタンを押すと、耳に当てる前から、機械越しに伝わるような“圧”が流れ込んできた。
そして――
『……意外と電話には早く出るんやね、ユウトくん』
静かな、でもどこか底が読めない声。
「は、はやて……!?お、お疲れ様?」
『あんたのとこの隊長たちは、さっき無事に帰還されましたけどなぁ……』
『肝心のあんたが、どこにもおらんのは、なんかおかしない?』
『任務って、どんな任務なんやろなぁ……?』
その一言一言が、耳ではなく胃を撃ち抜いてくる。
内臓に直接響いてくるタイプの恐怖だった。
「いや、その……あの、ほら!俺がちょっと仕事遅くて……はい、あの……その、ミスが……それのリカバリで、残業的なやつで…」
『いま電話出れるなら、貯めてるメールの返信もできたよな?』
「すみませんすみませんすみませんっ!!」
あまりの威圧に、反射的に三連謝罪。自分でも何言ってるかよく分かってない。
と、後ろから。
「……ユウトさん?」
ふと、背後から冷静な声がかかる。
「はいっ!?あ、なに!?」
肩越しに振り返ると、モップを構えたティアナが、まっすぐこちらを見ていた。
あの顔は“現場のサボりを見つけた監督”のそれだった。
たった7歳の少女なのに、なんでこんな威圧感あるんだこの子。
「……手が止まってます。廊下、まだ終わってませんよ?」
「……あ、うん、ごめんね。ちょっと今、それどころじゃなくて……」
『ん? 今の、女の子の声か?』
(あっ……やばい)
『そっか、ユウトくん。じゃあ“任務”ってウソついて女の子と遊んでるってことでええんやね?』
「いやいや、えっ、何のことだろ!?気のせいじゃないか!?幻聴とかそういうの!」
『……ユウトくん。』
「はひっ!」
『あんた、休暇もろたのに、地球に帰ってへんとか……ないやんな?』
(詰んだ)
もはや逃げ場はなかった。完全に詰みの状況。
俺はもう何が正解かわからず、反射的にこう言った。
「ご、ごめんっ!ちょっと用事があって、でも、あの、その、また後で連絡するわ!!」
\――ピッ(通話終了)
言い訳も言い切らないうちに、自分で通話を切った。
背中には冷や汗、額にもじっとりと汗が滲んでいた。
「…………ふぅ」
何とか逃げ切ったというより、爆心地から緊急脱出したって気分だった。
「で、“用事”ってなんですか?」
ティアナちゃんの声が、するどく突き刺さる。
「……床掃除です(真顔)」
「だったらすぐに、再開してください。夕飯の時間までには終わらせてくださいね。」
「……はい」
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日が傾き始めた頃、ようやく一通りの家事が終わった。
バケツの水は三度目の交換を終え、掃除機もモップもきれいに収納済み。
リビングには、どこか達成感のような空気が流れていた。
「ふぅ~……これで本当に全部終わりか……?」
ヴァイスがへたりと座り込み、天井を仰ぐ。
「お疲れさま。だいぶ動いたな」
俺も横に腰を下ろして、軽く腕を伸ばす。
その時――
「じゃ、ご飯作るか」
ソファに座っていたティーダさんが、さらっと立ち上がった。
「僕がちゃちゃっと作るから、二人はちょっと休んでていいよ。手間かけさせたし。」
「いえ、俺も手伝いますよ」
気づけば自然にそう言っていた。
身体はそこそこ疲れていたはずなのに、台所に立つときの感覚はむしろ心地よかった。
「お?ユウトくん、料理できるのか?」
「一応。実家が飲食やってて手伝いしてたんで。メインはお菓子なんですけど。」
そう答えて立ち上がると、ティーダさんがにやりと笑った。
「じゃあ遠慮なく。そこのエプロン使って」
渡されたエプロンを無言で受け取り、腰に巻く。
キッチンに入ってすぐに、俺は野菜の場所、調味料の並び、まな板と包丁の取り出し位置をざっと確認して――
「……こっちの包丁、ちょっと研いだ方がよさそうですね。あとその肉の部位に使うなら、この方が切れ味いいです」
さっと別の包丁を取り渡す。
「へぇ……」
ティーダさんが少し感心したようにうなずいた。
「じゃ、僕がメインの煮込みやってる間に、サラダと汁物頼める?」
「了解です。野菜、冷水にさらしますね。切ってからじゃなくて先にさらした方がパリッとしますし」
トントンッ、とリズミカルに刻まれていく野菜たち。
イメージするのは、恭哉さんとの早打ち稽古。
包丁に入れる力に無駄なく、断面も均一に整える。
その様子を見ていたティアナちゃんが、リビングから声を上げた。
「……なんだか、見たことないぐらい手際いいです。ヴァイスさんも得意料理とか何かできないんですか?」
「んっ……!」
ヴァイスが振り返り、うっすら汗をにじませながら言い返す。
「いやいや、俺だって目玉焼きくらいなら――」
「あなたと違って、ユウトさんはなんでも出来そうですね」
「ぐふっ……!」
まるで見えないダメージを食らったかのように、ヴァイスがうずくまる。
「ヴァイス、料理は上手さじゃなくて習慣だって昔誰かが言ってたよ……」
「言ってないだろそんなこと!!」
「ふふっ」
ティアナちゃんは珍しく口元に笑みを浮かべて、ティーダさんは肩をすくめながら「まあまあ」と苦笑いしていた。
夕食は思った以上に豪華になった。
メインはティーダさん特製のトマト煮込みハンバーグ。
それに、俺が作った日本式ワカメと豆腐の味噌汁、彩り野菜のサラダ。
「いただきますっ」
みんなで手を合わせて、箸を動かし始める。
「うん、味しっかりしてておいしい!」
「ほんとだ。ハンバーグ、ふわっとしてる」
「この汁物、ユウトさんの故郷の味なんですか?」
「そうだよ~、ティアナちゃんおいしい?」
「……うちの寮の飯、毎日これにしてくれないかな…味が染みる」
ヴァイスの嘆きが、ちょっとだけ本気っぽくて笑えた。
「ヴァイス…おじさんっぽいぞ」
「おじさんやめろ!!…なあ、明日はどっか出かけようぜ。せっかくの休暇で遊びに来たわけだし。」
「ティーダさん的にはどうですか?」
「このへん、山も川も近いからな。自然多いし、ちょっとした遊び場ならいろいろあるよ……」
「川って、泳げるやつですか?」
「時期的にはそんなに微妙だけど、僕らは膝ぐらいなら浸かれるかな。あとは釣りとかバーベキュー場もあるよ」
「バーベキュー!それいいですね!」
「お兄ちゃん、炭火で焦がす率が高いから、ちゃんと見張らなきゃですよユウトさん。」
「ティア、そろそろ兄も成長してるって信じてくれても……」
くすくす笑うティアナちゃんの隣で、ティーダさんが苦笑い。
兄妹で仲が良さそうで何より。
「じゃあ、明日晴れたら川に下見ついでに行ってみようか。天気悪ければ、町の方まで出てもいいし」
「了解!……その前に、筋肉痛が残ってなければだけどな……」
ヴァイスが肩をぐるぐる回しながら苦笑する。
「大丈夫ですよ、ヴァイスさんはまだ片付いてない部屋ありますから。明日もちゃんと動いてもらいます」
「えっ、冗談だよね!?ティアナちゃん!?」
「冗談じゃないですよ」
「鬼ぃぃ!!」
そんな風に、食卓は笑いと冗談に包まれていた。
――心地いい、この空気が、少しだけ高町家に似ているような気がした。