翌朝。
カーテンの隙間から差し込むまぶしい日差しに、目を覚ました。
「……いい天気、だな」
昨日の疲れはまだほんのりと身体に残っているけど、それでも気分は軽い。
ヴァイスはというと――
「……ぐぅ……もう……皿洗い……無理ぃ……」
布団を抱えてうなされていた。夢の中でもまだ働かされているらしい。
身支度を整えてリビングに向かうと、ティアナちゃんが水筒に麦茶を注いでいた。
「おはようございます、ユウトさん。よく眠れましたか?」
「うん、ばっちり。ティアナちゃんは朝早いんだね」
「慣れてますから。朝の家事、だいたい済ませましたよ?」
「……まじで、すごいな」
ティーダさんはソファで新聞片手にコーヒーを啜っていた。
どこまでも、のんびりした空気。
「さて、天気も良いし、そろそろ出かけようか」
ティーダさんの一声で、全員の空気がピシッと締まる。
「で、どこ行くんだっけ……?」
「車で30分ほどのところの川です。水遊びもできますし、奥の林道の方にはちょっとした展望台とベンチも…」
「とりあえず準備が出来たら、みんな車に乗ってね~!」
* * *
到着してすぐ目前に広がったのは、透き通った川。
川辺は、まさに“夏”という言葉がぴったりな景色だった。
青空の下、小川のせせらぎと蝉の声が交差する。
足を踏み入れた瞬間、空気がひんやりしていて、涼しさが肌を撫でるようだった。
「うわ、めっちゃ水冷たっ!」
ヴァイスが靴を脱いで川に足を突っ込んだ瞬間、飛び上がるように声を上げる。
「ヴァイスさん、叫ばないでください。魚がびっくりして逃げてますよ」
ティアナが冷静に釘を刺す。
「……魚いんの!?」
「当たり前です。山奥ですから」
「ま、まじか……」
「何その反応。魚苦手?」
俺が笑いかけると、ヴァイスはむすっと口をとがらせる。
「苦手じゃねーし!ただ昔くったやつの骨がのどに刺さってトラウマが…!てかユウト、は川で遊ぶのも慣れてるのか?……テントの組み立ての手際もよかったし。」
「ん?まぁ、小さい頃はこういうところ探検するの好きだったし…」
(あと一応遺跡調査隊にいたしな……。)
「アウトドア系だなぁ……」
ヴァイスが腰を下ろすと、ティアナが小声で隣からちくり。
「……あなたと違って、ユウトさんはなんでも出来そうですね」
「う゛……またそれか……!」
ティアナちゃんの小さな笑みに、ヴァイスが天を仰いで崩れ落ちる。
その横で、ティーダさんが持ってきた折りたたみチェアに座り、麦茶を口に含んでいた。
「まぁまぁ、ティアはヴァイスに結構なついてるように見えるよ」
「ほんとっすか?……その表情で言われてもなんか納得いかねぇ!」
「ふふ……じゃあ、ここでお昼ご飯にしましょうか」
ティアナがリュックから広げたのは、昨日作っておいたサンドイッチとおにぎり。
青空の下で食べるそれは、想像以上においしくて、思わず笑みがこぼれる。
「うまっ……なんか、ピクニックって感じだな」
「ほんとはバーベキューでもよかったんだけどなぁ。昨日材料買い忘れたのが痛かったかなあ。炭の準備だけはしてあるんだけど。」
ティーダさんがペットボトルの麦茶を飲みながら、ポツリとつぶやく。
それに対してティアナちゃんがジト目で一言。
「兄さん……前に黒焦げにしたの、まだ忘れてませんよ」
「……ぐっ。やっぱまだ覚えてるかぁ……」
「兄さんに任せた一発目で野菜の串焦がしたら、そりゃあ一生言いますよ。」
「そ、そう……あ、じゃあ午後は、もう少し上流の方に行ってみよう。川の流れも落ち着いてるし、釣り竿持っていけば、魚くらいは釣れると思うから…魚でリベンジしよう!」
「釣った魚焼いて食べるってことっすか?それ、楽しそうですね!」
「おー、それっぽい。それっぽいぞ!少年自然の家みたいなやつ!」
ヴァイスが手を叩いてはしゃいでいる横で、ティアナちゃんがふと、視線を兄にだけ向けた。
「……お兄ちゃ…ごほん。兄さん。上流は岩場も多いですから、道に慣れてない人が多いと危ないかもしれません。」
「ん?」
「あ、いえ。ですから……人数は少なめにしたほうが、安全かと」
その言い回しはあくまで自然で、控えめで、いつものしっかり者としての進言だった。
でも――
(……なるほど)
なんとなく、俺とヴァイスは、目を合わせながらティアナの“本音”にピンときた。
(あー、ティアナちゃん、たぶんティーダさんと二人になりたいんだな)
(あからさまじゃないけど、意外とわかりやすいな。)
「ヴァイスさん、登れますか?」
ティアナが、すっと視線をヴァイスに向けた。
「は?」
「岩場多いので。無理は禁物ですよ」
「え、ちょっと待って!?俺今めっちゃなめられてる?え、登れるし…これでも陸戦魔導師なんだが!?」
「ヴァイス、ティアナちゃんになめられすぎじゃないか…。……あとほんとに登れそう?」
「登れるって言ってんだろ! 俺だってな、こう見えて体力には自信――」
「……私は、危ないのでやめといたほうがいいと思いますけど」
「ティア……?」
ティーダさんが訝しげに名前を呼ぶが、ティアナちゃんは口元にほんのり笑みを浮かべるだけ。
誰も明言はしない。でも、なんとなく空気を読んでいた。
「……じゃ、ティアと僕が先に上流の様子見てくるから、ユウトとヴァイスはこの辺で川遊びでもしてて!魚連れたら戻ってくるよ」
「お、おう……了解っす」
「うん、了解です。」
俺とヴァイスは、顔を見合わせてこっそりうなずいた。
――なんだかんだ、兄妹の時間ってのも、大事だよな。
「じゃ、僕たちは上流で釣りしてくるからな。お前らは下で溺れないようにな?」
ティーダさんがクーラーボックスを担ぎながら振り返る。
「釣り針刺さらないように気をつけてくださいね」
「……前に僕が手に刺したときのこと、知ってたのかい?」
「ティーダさんほんとにやったんですか……」
「じょ、冗談だよ……あはは」
そんなやり取りを背に、俺とヴァイスは、ゆるやかに流れる下流の浅瀬に移動した。
透明度の高い水に足をつけると、ひんやりとした冷たさが肌に心地よい。
「ふはっ、やっぱ川って気持ちいいな!」
ヴァイスが思いきり水しぶきを上げながら走り回る。
「はしゃぎすぎるとすべりますよー」
「わかってるって……って、うおわぁぁあっ!?」
その直後、石に足を取られて盛大に転ぶ音がした。
「……ほら言わんこっちゃない」
「いててて……くっそ、訓練エリアよりトラップ多すぎじゃね……!」
ヴァイスはびしょ濡れのまま川の中で起き上がりながら、なんだかんだ楽しそうに笑っていた。
俺もズボンを軽くまくって膝まで浸かり、川の流れに逆らって石を踏みしめながら歩く。
足元には小さな魚が群れになって泳いでいて、それを見てるだけでも飽きなかった。
「……なあ、ユウト」
「ん?」
「お前さ、最近ちょっと変わった?」
「そう?」
「具体的には、最初の任務が終わった後。前はもっと、なんとなくで訓練やってたイメージだったけど、最近はなんかやる気を感じるっていうか…使命感?」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてるに決まってんだろ。」
ヴァイスは軽く水をすくって、俺に向かってパシャリと飛ばしてきた。
「おわっ、冷たっ!」
「ふはは、気を張りすぎんなよ?たまには肩の力抜くのも大事だぜ?」
「ヴァイスは気を緩めすぎだと思うけど……お返しだっ!」
俺も水をすくい、応戦開始。
しばらく川の中で小学生みたいな水かけ合戦が続いたあと、二人して石の上に座り込む。
「……なあ」
「ん?」
「こういう時間、けっこう悪くないよな」
「……俺も。なんか、日常って感じがするよな」
「訓練漬けの日々だったから余計な?」
「それもあと数か月で終わるけど……」
「……そうだな。」
水のせせらぎと蝉の声が、心地よく耳をくすぐる。
その頃、上流――。
木々の合間からこぼれる日差しが、岩の表面をまばゆく照らしていた。
水深がやや深くなったその場所に、ティーダとティアナは並んで腰を下ろしていた。
ごつごつした岩の上にシートを敷き、二人分の釣り竿が静かに水面へと糸を垂れている。
ティアナは釣り竿のグリップを両手でぎゅっと握りながら、真剣な表情で水面を見つめていた。
「……浮きが、ぜんぜん動かないわ。」
「焦らない焦らない。釣りは“待つ”のが一番の醍醐味なんだから」
隣でティーダは帽子を深くかぶり、目を細める。
どこか眠たげな口調に、ティアナは小さくむっとした顔を見せた。
「……退屈じゃない?」
「それも含めて心の余裕さ。静かな時間も悪くないだろ?」
「ふーん……」
少し唇を尖らせながら、ティアナはうつむいた。
穏やかに流れる川の音、風に揺れる木の葉。静けさは確かにそこにあった。
「ティアは意外と焦りっぽいからね。ヴァイスと同じで」
「……あの人と一緒にしないで」
即答だった。ティーダは肩を揺らして笑う。
「そっか。……じゃあ、ユウトは? 彼も意外と焦りっぽいところあるけど」
「……へー。そうなんだ」
ティアナはそう短くだけ答えたが、その声は少し沈んでいた。
(……また、あの人たちの話)
(久しぶりの、私とお兄ちゃんだけの時間、なのに)
ほんの少し、指に力が入る。
けれど、それ以上の感情を見せることはなかった。
ティアナは再び視線を水面に戻す。
そのとき――
「……動いた!」
浮きがピクリと揺れた。
ティアナの瞳に、ぱっと光が戻る。
「よし、合わせて!」
「うんっ!」
釣り竿をぐっと引き上げる。
水面から飛び跳ねたのは、小ぶりだけれどよく太った一匹の魚。
「……釣れた……!」
「さすがティアナ。何でもできるな」
「当然。ヴァイスさんとは違うんだから!」
誇らしげに言い切ったティアナに、ティーダはくすっと笑った。
「今更だけど、敬語取れてるよ…猫かぶりはおしまいかい、ティア?」
「いいの。やっと二人っきりなんだから!」
はっと気づいて口を押さえる彼女に、ティーダは優しく目を細める。
「……そっか。そうだな」
「……久しぶりに帰ってきたと思ったらほかの人連れてきて…今日くらいしか、落ち着いて話せる時間ないかもしれないんだもの…。」
ティアナはぽつりとそうつぶやいた。
「最近はずっと誰かがいて……私の知らない話ばっかりで……」
「それが寂しかった?」
「……ちょっとだけ。別に、あの人たちが嫌いってわけじゃないけど……」
「そっか」
ティーダは笑いながら、タオルで魚を丁寧に包んだ。
「でも、言ってくれてありがと。ティア」
「……べ、別に、そんなつもりじゃ……」
「いやいや、素直になれるのはいいことだ。猫かぶりも板についてきたけどね、ティアさん」
「……それ、どういう意味?」
「さあ?」
とぼける兄に、ティアナはじとっとした目で睨みつける。
空の色は、いつの間にか夕暮れへと変わり始めていた。
ゆっくりと傾いていく陽の光が、川面を金色に染めていく。
静かな時間は、まだ続いていた――そのときまでは。
「……うん、じゃあ、ちょっとトイレ行ってくるな」
「わかった。私はここで待ってればいい?」
「うん。すぐ戻るよ」
ティアナはしっかりと返事をし、釣り竿を両手で握ったまま、ティーダの背を見送った。
兄の姿が斜面の向こうへ消えていくと、辺りは一気に静けさを取り戻す。
風が木々の葉を揺らし、川のせせらぎだけが淡々と耳に届いてくる。
ほんの少し、寂しさが胸に刺さった。
(……せっかくのお兄ちゃんとの、ふたりっきりの時間のはずなのに)
ティアナはぎゅっと唇を噛んだ。
(ユウトさんもヴァイスさんも一緒で、別に嫌じゃないけど……でも、今日は少しだけ、昔みたいにお兄ちゃんを独り占めできると思ってたのに)
釣り竿を握る指に、自然と力が入る。
(だったら、せめて――)
(ひとりで魚をいっぱい釣って、お兄ちゃんに褒めてもらうっ!)
顔を上げたティアナの瞳には、年相応のキラリとした意気込みが宿っていた。
そう思って、呼吸を落ち着け、浮きの動きに集中する。
その時だった。
「……っ!」
ピクリ。
わずかに揺れた浮き。
一度。二度。
「……来た!」
ティアナはぐっと竿を握り直す。
でも、それはさっきまで釣った小魚とはまったく違う力だった。
竿が強く引かれ、腕が引っ張られる。
「わ、わっ……っ、ちょっと……!」
姿勢を崩し、前のめりになる。
(だめ……踏ん張れ――)
その思いもむなしく、
ガクンッ!
「きゃ――っ!」
足を取られた身体が、ぐらりと傾く。
バシャァアッ!!
体ごと、水の中に引きずり込まれた。
「――っ!!」
冷たい水の感触が、肌に、胸に、背中に叩きつけられる。
浮かび上がろうとしても、流れに身体が押されていく。
「だ、誰か――きゃ!」
服が水を吸って重たくなる。足が思うように動かない。
(お兄ちゃん…………!)
必死に伸ばした指先が、空を切る。
そのまま、ティアナの小さな身体は、川の流れに呑まれて――下流へと消えていった。