あるところに、河童を名乗る作家がいるらしい。
人間の食の豊かさに触れてしまった因果か、河童の癖にして、やけにエンゲル係数が高く、とにかく食費がかさんで仕方がない。人間を驚かしたり、相撲を取ったりの、安穏に過ごす生活を捨てて、泣く泣く銭を稼ぐために生まれの山川を離れて四方を奔走。
妖怪というものは野に住み山に住み海に住み、つまりは猟師や漁師のごとく野性の珍味に通じた美食家であるため、なるほど、近代化に応じて豊かさを増した人間の食事に興味を持つのもうなずける。
また食欲というものは妥協すべきところを知らない。河童といえども、いや、むしろ獣性が色濃く残る妖怪であるからこそ、苦労は推して知るべし。人に化けて就職まで果たし、社会の荒波にもまれたのだとか。
河童に就活で負けた人間がいることを考えるだけでも気が滅入るが、それはさておき、その苦難と波乱に満ちた道中を書にしたためたところ、どこぞの出版社の目に留まり、書籍化されて大ヒット。
名を春河童という。
本物の河童であるのかはともかくとして、河童ならではの視点から描かれたエッセイや、古風奥ゆかしくも生き生きとした人物描写の時代小説などで定評のある、いまや売れっ子作家となった。情報のリテラシーが盛んに叫ばれる傍ら、妖怪の書物が売れる世相なのだ。
河童を名乗るのも大概だが、河童を名乗る怪人物の散文を売り出そうとする出版社も大概だ。しかし出版業界は海千山千、ただでさえ人間とは思えぬ魑魅魍魎の跋扈する異界であるから、妖怪が書いたものであろうと売れればお構いなしなのだろう。
案外、妖怪たち自身が出版業を営んでいて河童が作家になるかの如く、ろくろ首が編集をやり、鬼が印刷し、天狗が営業をかけているのかもしれない。
このような設定もとい経緯であるから、春河童某は、河童を名乗る作家ではなく、作家を名乗る河童と呼ぶべきなのだろうか。
かくいう私も、某の作品のいくつかを手に取ってみたが、確かに面白い。人間に同化しきっているために、河童ならではの視点という謳い文句には共鳴できなかったが、社会の軋轢や人間関係の機微を克明に、グロテスクなまでに描く手腕は隔絶の、あるいは種族違いの隔種の感がある。
そして驚いたことに、エッセイから判別する限り春河童某は女性なのだ。河童にも性別があるのかと虚を突かれた思いであったが、どうやら私も、彼女の術策にはめられたらしい。実に迫るほど、河童という設定は自然に見え、また巧妙だった。
が、私も三文文士のはしくれとして、気に食わないところがあった。
実際に河童であるかどうかはこの際どうでもよいが、河童であることを売りに、それを一種の属性として売りにするのは、けしからんと思うわけだ。
河童が主人公という設定でエッセイや小説を書くのは、面白いし、良いアイデアだと認めよう。しかし、河童が書いていると喧伝するならば話は別だ。作家と作品を無理に切り離そうとする試みがナンセンスであると断じられる一方で、作家性を付加価値とするのは作品の評価を貶める行為でもある。
筆者が筆者であることに最も大きな価値がある、政治家や芸能人の回顧録や犯罪者の獄中記であれば、作家性を前面に押し出すことは正しいのだろう。だが文学作品、創作物が同じことをすれば、自殺を図った作家がもてはやされ甘く腐り落ちるように、作品も堕落してしまう。
それが私の持論だ。なにも文学の魂の高さ低さなどといった高尚な議論がしたいわけではない。作品をできるだけ、あるがままに受け止める。それが自然な態度ではないだろうか。
春河童某が本当に河童であっても、いや、本当に河童であればこそ余計に、河童である事実を作品の前に立たせるべきではない。立たせるべきではなかった。良い作品が多いだけに、口惜しい。
現に文壇も彼女に対する評価を決めあぐねている。河童に対しても人間と同じ基準で評価すべきであるのかだの、そも河童であるのかをまず明らかにすべきだの、くだらない議論で紛糾している。
未だに文壇などという過去の文豪たちの遺した置き土産にしがみつき、有識者気取りであぐらをかいている連中でさえこうなのだから、河童という色眼鏡を抜きにして世間からの評価を期待する方が無理というものだ。
いっそナントカ賞を受け取った後で、実は河童でしたと暴露した方が、何もかもが痛快だったろうに。
売れない三文文士の僻みだろうか。そうかもしれない。河童にまで嫉妬するとは私もいよいよ始末に負えない。
しかし彼女の、河童という設定の手の込みようにも問題があるのだ。
当たり前のように、きゅうりは好物として頻出する。そのままかじるだけではなく、糠漬けにしたり、自家製の手前味噌をつけたりと、河童らしさと河童らしくなさは相乗効果をもって演出される。
一説には、河童がきゅうりを好むのは人の味に似ているからだそうだが、この人間社会に溶け込んだ河童が人の味を覚えたらと思うと、寒気を禁じ得ない。
また水辺の描写も多い。温泉やプールはもとより、湖畔や渓流などの彼女にとってのふるさとにまでたびたび出没する。作家というものは様々な意味で水辺を好み、水辺と切っては切り離せない間柄であると看破し、彼女は改めて読者に突き付けている。河童は作家になるべくして生まれる妖怪なのだと。
それだけではない。実に巧妙であるのは馬肉好きという設定だ。
河童はきゅうりと相撲に次いで、むしろそれら二者よりもとにかく、馬に目がない。水辺に馬を連れて行くと、河童が飛び出してきて水中に引き込もうとする逸話は『遠野物語』に限らず、日本各地に伝わっている。
なぜ馬を引き込もうとするのかは、はっきりとしない。馬は神の乗り物として古くから神聖視され、雨乞いの供物とされてきたことから、水の精である河童が同様に欲しがるため、等と説明されてきた。
それがここにきて、春河童某は馬肉が好きだからという至極真っ当で直截な理由を提示してきたのだ。なるほど、河童は馬の味を知っていて、水に引き込もうとしていたのだ。これよりもわかりやすい理由があるだろうか。
河童はきゅうり好きというイメージが先行して菜食主義者のような風を装ってきたが、そうではない。肉も食べるのですよと彼女は教えている。
して彼女が河童への新解釈を伝えるたびに私は一読者として驚き、三文文士として嘆息してきたのだ。
私の義憤めいた我慢が限界に到達した時、天啓が降りた。
「河童の正体を明かしてやろう」
そうだ。彼女が本当に河童なのかどうか、それが問題なのだ。彼女が河童でなければ、河童を装って河童らしさを追求する稀代の作家として、私のような小物はわけのわからぬ憤りを捨てて、彼女に道を譲るべきであろう。
いてもたってもいられなくなった私は、河童の本拠地へと向かった。