店の戸を開けた瞬間、ラーメン特有の香ばしい匂いが、ふわりと僕の鼻腔をくすぐった。
まるでこの香りだけで腹が満たされるかのような錯覚すら覚える。
もちろん、それだけで満たされるはずがない。けれど、それくらい食欲を刺激する匂いだった。
「へいらっしゃい!」
入店してすぐ、活気のある声が店内に響き渡った。
声のする方へ目を向けると、厨房で寸胴鍋をかき混ぜる柴犬がいた。僕が先程見た看板と同じ顔だ。
……なるほど、あれがこの店の大将というわけか。
「──いらっしゃいませ!」
続けざまに、今度はまた別の明るい声が響いた。
小走りでこちらに駆け寄ってきたのは、猫耳をぴんと立てた少女だった。年の頃は、十代半ばといったところ……つまり、この付近の生徒だろうか。
魅了される笑顔と、きらきらとした瞳。そのあどけなさに、思わず微笑ましくなる。
「一名様ですか?」
彼女が元気よく問いかける。それに対して僕は、柔らかく頷きながら答えた。
「ああ、そうだよ」
「では、お好きな席にどうぞ!」
朗らかに手を差し伸べる仕草に促されるまま、僕は迷わず店の一番端、壁際の席へと向かった。
理由は単純。できるだけ目立たず、静かに食事を楽しみたかったから。
他の客の視線も遮りやすい端の席ならば、食事中に余計な邪魔が入る可能性も減る──それだけで、僕の精神と身体の安全性もぐっと高まるというものだ。
仮に不良がここに来店してきても、非常にバレにくい一種の聖域と化す。
僕は椅子に腰を下ろし、ふうと息を吐く。するとすぐに、また彼女がやってきた。
「ご注文はいかがなさいますか?」
差し出されたメニューをちらりと眺めると、ひときわ大きく『オススメ!柴関ラーメン』と書かれている。
僕は迷わず、それを指さして言った。
「それじゃあ、この柴関ラーメンというのをお願いするよ」
「柴関ラーメンですね!承りました!」
元気良くそう答えると、彼女はくるりと振り返り、厨房へ向かって叫ぶ。
「大将!柴関ラーメン一丁!」
「はいよー!」
威勢の良い返事が返ってきた。それを聞きながら、僕は小さく頷いた。
──久しぶりのラーメン。ラーメンという食べ物自体、この世界に来てから口にするのは初めてだ。
本来のレグルスなら、『こんな庶民的で野蛮な食べ物を口にするなんて、それで僕の大事な服に油が飛び散ったらどう責任を取ってくれるのかなあ!?』とか言い出しそうだが、そんなものは僕にとってはくだらない。
真に強欲な者は、あらゆるものに手を伸ばす。
どんな小さな喜びも見逃さず、全てを味わい尽くしてこそ、本当の意味で人生を貪ることができるのだ。
──そうでなければ、人生は損の連続だと思う。
僕がそんな風に考えていると……
「お待たせしましたー!柴関ラーメンです!」
という元気な声が、またしても聞こえてきた。ちらりと目を上げると、例の猫耳少女が、両手で大きなトレイを抱えながら、こちらへと向かってきていた。
──だが。
「わ、わわっ!?」
どうやら彼女は、足元がもつれてしまったらしい。
トレイの上に載ったラーメンと水が、宙へと投げ出される。
それを見た僕は、即座に手を伸ばした。
次の瞬間──心臓が跳ねたような錯覚と共に、獅子の心臓を発動させる。
空間に触れた意識の波が広がり、僕と共に、触れたコップとラーメンの器、その周囲一帯が音もなく凍りつく。
水飛沫は宙に留まり、溢れかけたスープも、こぼれ落ちる寸前の麺も、すべてがその動きを失った。
そこに在るものすべてが、『変化』という概念を絶たれ、ただ、あるがままに存在するだけのものと化している。
僕は慎重に手を伸ばしたまま、止まった水と麺を包み込むように空気ごと操る。
出来るだけ極限まで優しく、そっと静かにテーブルの上へとラーメンと水を置き直した。
そして僕は、権能の力を解く。
止めていた空間が動き始め、水飛沫も音を立てずに空気へと溶け、ラーメンの器は何事もなかったかのようにテーブルに置かれていた。
少女は転びそうになりながらも体勢を立て直し、呆然とこちらを見上げていた。
「ご、ごめんなさ……!って、あれ?」
彼女は困惑したように、僕と、無傷のラーメンを交互に見比べる。
僕はにこりと微笑み、肩をすくめてみせた。
「君、急にどうしたんだい?そんなに困惑した顔をして。この通り、ラーメンも水も、君の手によって無事僕の元に届けられたわけだけど……もしかして、僕の方に何か用でもあるのかな?」
「い、いえっ!な、何でもありませんっ!」
慌てたように手をぶんぶんと振ると、彼女は小さく──聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「……疲れてるのかな」
僕はそれを聞き逃さなかった。微笑みを深め、素直に頭を下げた。
「すまないね。君が疲れているときに、こんな閉店間際の時間に来てしまって。この通り、素直に謝罪するよ」
その言葉に、少女はぱっと顔を赤らめる。
「あっ、こ、こちらこそすみませんっ!?ごゆっくりどうじょっ!」
少女は言葉を噛みながら厨房へと駆け戻っていった。
背中を見送りながら、僕はそっと息を吐く。
──こんな夜遅くまで、一生懸命働いて。
きっとこの子のおかげで、大将もずいぶん助かっているんだろう。
不良に染まることもなく、まっすぐ健気に育つ。そんな子供こそ、守られるべき存在だと思う。
僕は心の底からそう思った。
その後、心の中で小さく頷き、手元の割り箸を割る。
乾いた音が、小さな空間に心地よく響いた。
そして、ラーメンのスープを軽く一口飲み、後に麺も啜る。
──旨すぎる。
熱々のスープが舌を包み、もちもちの麺が喉を滑り落ちていく。
この世界初のラーメンの味は、想像以上に温かく、優しいものだった。
◆
夜の帳が下りた街には、今や灯りもまばらだった。
その中を、黒い髪に水色のリボンを結んだ猫耳の生徒──黒見セリカが、静かに歩いていた。制服の袖をなびかせ、どこか夜の街を警戒するように目を細めながら。
「……人がいなくなったなぁ。前はもうちょっとマシだったのに」
呟く声が夜気に溶ける。
かつて賑わっていたはずのこの街は、今や人影もまばらで、ひどく静かだった。
足を止め、ビルの隙間から漏れるわずかな光を見上げる。
「このままじゃダメだ……私たちが頑張らないと。学校を立て直さないと……とりあえず、バイト代が入ったら利息の返済に──」
そこまで言ったときだった。
静かな夜に複数の小さな足音。
次いで、ガシャガシャと装備の擦れる音が周囲に広がる。
セリカの眉が動いた。
「……何よ、あんたたち」
いつの間にか、彼女の周囲を囲むように、複数のヘルメット姿の人影が現れていた。お揃いの赤や黒のヘルメット、それに合わせられたような制服……アビドスの天敵でもある、カタカタヘルメット団だった。
「黒見セリカ……だな?」
低く無感情な声。その言葉に、セリカは吐き捨てるように言い返す。
「……カタカタヘルメット団?あんたたち、まだこの辺をうろついてんの?──ちょうど良かった、虫の居所が悪かったの。二度とこの辺りに足を踏み入れられないようにしてやるわ……!」
素早く腰から銃を引き抜き、眼前の敵に銃口を向ける。指が引き金に掛かった、その瞬間──
ダダダダダダダダダッ!!
と乾いた音が連続で響く。その直後、背中に衝撃が走った。
「くっ、ううっ……!?」
セリカは呻き声を上げ、その場に崩れかける。背後から撃たれたのだ。間違いなく、別のカタカタヘルメット団の生徒が回り込んでいた。
「捕えろ」
無機質な声が指令を出す。
その直後──ドォン!と街を揺らす砲音が鳴った。
地面が閃光に包まれ、セリカの足元に砲弾が着弾。爆風と共に、彼女の身体がほんの少し宙に浮く。
「──っ!?ケホッ、ケホッ!」
セリカの息が詰まる。
叫ぶ暇もなく、セリカの意識は闇に沈んだ。
そんな倒れたセリカを見下ろしながら、カタカタヘルメット団の一人が呟く。
「……続けますか?」
もう一人が首を横に振る。
「いや、生かさなければ意味がない。この程度で良いだろう。車に乗せろ、ランデブーポイントに向か──」
「──あのさあ」
突如として、空気を割るような声が響いた。
不意に現れたその声の主は、白い衣服で身を包み、整った容貌をした男だった。白髪に整った輪郭、冷たい光を宿す金の瞳。どこか均整の取れた身体には、歪なまでの自信が纏わりついていた。
「よってたかって一人の生徒を甚振るなんて、悲しくて涙が溢れ出てくる気持ちだよ。もちろん、君たちが仲間と一緒に行動する自由はあるし、僕はその点については理解しているつもりだとも。でも、対等な立場で向き合おうともしないで、数の力で一人を攻撃するなんて、それって人としてどうなのかな? 僕はね、誰もが公平に扱われるべきだと思ってるんだ。それなのに、君たちはその基本的なルールを無視して、自分たちの都合だけで行動してる……それは、いかに寛容な僕でも許せないなぁ」
「──誰だ、お前は」
一人が銃口を向ける。それを皮切りに、他の団員たちも一斉に構えた。
だが、男は眉ひとつ動かさず、口元を歪めた。
「あのさあ、最初に名前を聞くならまずは自分から名乗るのが普通だと思うんだよね。礼儀ってものを知らないのかな?それに初対面の相手に銃を向けるなんて、君たちはそうやって相手を威圧しなきゃ何もできないのかい?その程度のプライドしか持ってないって、自分で言ってるようなものだと思うんだよね。だから君たちは──」
──パンッ!
一発の銃声が鳴り響き、弾丸が男の額に直撃した。
「ごほぉッッ!?」
どこか情けない声を上げ、男はふらつく。だが、倒れる事はない。むしろ、眉をひそめて怒りすら浮かべた。
「──ほんと、君たちみたいなのは本当に人の話を最後まで聞かないね!まるで自分の正しさしか信じてない園児そのものだよ。いや、もしかしたらまだ園児の方がマシかもしれないね。ちゃんと自分が悪いって認められるから。なのに君たちは──」
「……効いた様子が、無い?」
男が長々と喋っている間にも、戸惑う声が漏れる。その直後、別の生徒が男に向かって再び引き金を引こうとした。
「──だから、君たちは僕に一度攻撃した。それは覆しようのない事実だよね。もちろん僕は寛容だからさ、そのこと自体を責めたりはしないよ。でもさ、一方的にやられるのって、それはそれで公平じゃないと思わない?この世界が対等を重んじるなら……一度攻撃された僕にも、一度だけ攻撃する権利があるはずなんだからさあ」
だが、その前に男が右手を軽く払った。
──その瞬間だった。
空間そのものが弾け、空気が砕けた。
銃、砲台、兵器のすべてが、まるで見えない刃で一瞬にして粉々に解体された。砕けた金属が宙を舞い、カタカタヘルメット団たちは悲鳴すら出せず呆然と立ち尽くす。
「なっ……!?」
見えなかった。何が起きたのか理解できなかった。ただ一つ分かったことは、いま目の前に佇む男は、彼女らにとって『理解不能』な存在だったということ。
銃を持たない彼に、銃で挑もうとした彼女らは、皮肉にもその瞬間、『敗北』するかもしれないということを悟る。
「……っ!お、お前ら!全員車に乗り込め!」
一人がそう叫ぶ。
突発的な判断。しかし、今はそれが最も生存率の高い選択だったのかもしれない。
「えっ、何で……!?」
「いいから急げ!」
戸惑いながらも、カタカタヘルメット団の生徒たちは一斉に車両へ走った。破壊されなかった唯一の車両に、次々と乗り込む。
男は、それをただ見つめていた。
干渉せず、追いもせず、表情すらも変えずに。
──そして、車のドアが勢いよく閉まり、カタカタヘルメット団全員が車に乗り込んだ。エンジンが唸りを上げ、黒塗りの車体がギュンと地を蹴る。逃げるかと思われたその進行方向は、男のいる場所とは正反対だった。
だが次の瞬間、車は急激にハンドルを切り、甲高い音を上げながらUターンした。
──なんと、そのまま男に向かって一直線に突っ込んでいったのだ。
「あいつに突撃するぞッ!衝撃が来るから、しっかり掴まっておけ!」
一人の生徒が、車内で叫んだ。その言葉が風に乗り、車外の男の耳に届く。
男は、それを聞きながら、小さくため息を吐いた。
「武器を失ったかと思えば、今度は車で轢こうとするなんて……まあ、それはそれで仕方がないのかもしれないね。人間っていうのは、どんなものにでも勝てる気配を見つけた瞬間、それが朽ち果てた希望だとしても、しがみついてしまうものだから」
男は、皮肉とも哀れみとも取れる微笑を浮かべながら、再び右手を前へと差し出した。先ほど、カタカタヘルメット団の武器を無力化したときと同じように。
「だけどさ、君たち……一度ならず、二度までも僕に攻撃を仕掛けてきたよね。だから──」
男がそう呟いた瞬間、車内から最後の叫びが上がる。
「これで──ッ!!」
ドン、と地面を鳴らして、車両は男に突進した。
だが、その刹那──
「な、なんだ……!?」
ゴウンと何かが引っかかるような音がして、車体はふわりと浮いた。
──地面の感触が消えた。アスファルトの黒が視界から消え、重力の感覚すらおかしくなる。
車内のカタカタヘルメット団は混乱し、驚愕する。
──なんと、車が空中に浮かんでいた。
男が、右手一本で浮かすように持ち上げていたのだ。
「──僕にも、二度目の攻撃をする権利があるということだよね?」
その声とともに、男はおもむろに車体を掲げたまま、身体ごと後ろに振り返る。
「うわッ!?」
夜の街に、カタカタヘルメット団の悲鳴が響く。
「さあて、君たちは……」
男は一息置くと、右腕をゆっくりと引き──
「──自らが砲弾になる気分を、味わったことはあるかなぁッ!!」
そのまま夜空に向かって勢いよく振りかぶった。
叫び声とともに、男はその巨大な車体を砲丸のごとく空へ投げた。勢いよく放たれた車両は、まるで彗星のように夜空を裂き、光の尾を引きながら闇の彼方へ消えていく。
直前でわずかに響いた悲鳴も、すぐに掻き消えた。
そうして、街に再び静寂が戻った。
◆
「……さて、と」
そう呟いて、僕は右手を下ろし、強欲ムーブをやめる。
これによって、獅子の心臓の力が解除され、気配が霧散し、重たかった空気が静かに和らいでいく。
これであいつらも、そろそろどこかの地上に盛大に着陸しているはずだ。普通の人間なら即死間違いなしの勢いだったが──まあ、相手はキヴォトス人だ。多少吹き飛ばされたぐらいではどうということはない……はず。
──まさか、満腹になった腹を落ち着かせるために、少し夜風に当たろうと思ってふらふら歩いていたら、集団で一人の生徒を囲んで襲おうとしている場面に出くわすなんて。
「……咄嗟に強欲ムーブに切り替えられて良かった」
あの時の僕が呑気に腹をさすっているだけの男だったのなら、今頃どうなっていたか分からなかった。
思考が少し冷え、冷静さが戻ってくると、もう一つの問題が視界に入る。
地面に、ぐったりと横たわる少女。
──柴関ラーメンで出会った、あの子だ。
「さっきので全部解決……だったら良いんだけどさあ」
僕は小さくため息を吐きながら、少女に近づいた。うっすらと呼吸はしているが、襲われた際の外傷が少しある。
完全に意識を失っているようだった。
「この子、どうすればいいんだよ……」
誰に言うでもなく、僕はそう呟く。
気絶した少女を前に、権能による武力では片付けられない問題に直面している。
──結局、僕は頭を悩ませることになるのだった。