午後の陽光が、綺麗に磨かれたガラス越しに差し込み、上等な紅茶の香りと、ロールケーキの甘い匂いが部屋に漂う。
静かな室内には、食器のわずかな触れ合う音と、風で揺れるカーテンの擦れる音だけが満ちていた。
「ブラックマーケット?」
そんな中、僕は小さく眉をひそめ、机の上のロールケーキにフォークを突き立てた。
ふわりと持ち上がったロールケーキの切片を口元に運び、咀嚼をしながらも、舌に溶かすように味わう。
「ええ、ご存じでしたか?」
向かいの席には、黒服が薄い微笑を浮かべながら、同じようにロールケーキの欠片を口へ運びながらそう尋ねた。
「知ってるも何も、むしろ知らない方が不自然だよね。言ってしまえば、闇市場だろう?無秩序で下品、欲望の渦巻くあの場所は、常に平穏を求めるこの僕には野蛮すぎて到底受け入れがたい場所さ」
僕は冷たく笑いながら、ナプキンで口元を軽く拭った。
「クックック……しかし、私たちゲマトリアにとっては宝船のようなものなのですよ。表市場ではまず手に入らない代物が、あそこでは意外なほど容易に手に入りますからね」
それを聞いた僕は苦々しげにため息をつくと、紅茶のカップを手に取って口に運んだ。ロールケーキの甘さで満たされた口内を、熱い紅茶の渋みが静かに洗い流していく。
「君はよくそんな場所に行けるよね。僕はそれが本当に理解できないよ。別に君がどこに行こうが僕には関係ないけどさ、僕にとっては、時間と労力と精神の浪費でしかない。まったくもって非合理的極まりないんだよね。そんな愚にもつかない所に足を運ぶなんて、それこそ自分を大事にしない行為の最たるものじゃないか」
僕がそう言っても、黒服は微笑を保ったまま言葉を紡ぐ。
「……そのように思っているレグルスに言うのは心苦しいですが、私からお願いがあります」
この時の僕は、『また厄介ごとを持ち込んできたか?』と警戒を強めたが、外見上は変わらぬ静寂を保ち、黙って紅茶を口に含んだ。
「──あなたに、ブラックマーケットの銀行に行っていただきたいのです」
その一言に、僕の手が止まる。
カップに口を付けたまま静止し、やがてカップをそっと机に戻すと、深々とため息を吐いた。
「あのさあ、君、僕が何て言ったか聞いてた?僕はあんな野蛮なところに行くのはごめんだよって言ったよね?」
僕は怪訝な目で黒服を見据える。
「クククッ、そこを何とか……」
黒服は咳払いを一つ挟んで話を続ける。
「実はある目的のために、とある方をりよ──コホン、協力関係を築きましてね。その報酬金として、明日にブラックマーケットの銀行に振り込まれることになっているのです」
「だったら、君が直接そこに行って引き出せばいい話だと思うんだけど、どうして常日頃忙しいこの僕に頼むのかなあ?」
僕の疑問を聞きながら、黒服は一口紅茶を飲むと、淡々と告げる。
「それが出来れば良いのですが……明日はどうしても外せない予定がありましてね」
黒服は静かに息を吐き、わずかに視線を落とす。
「それに、ブラックマーケットの銀行は、あまり良い噂を聞きません。定期的に強盗が発生しているとも聞きます……私はこんな身なりですが、キヴォトスの生徒と比べても貧弱な身体でして。万が一の事があれば命に関わる恐れもあります」
言い終えると、黒服は再び僕に視線を戻し、薄く笑った。
「しかし、そんな事態になったとしても──キヴォトス最高峰の神秘を持つあなたなら、蹴散らすくらい造作もないでしょう?」
それを聞いた僕は、重ねてため息を吐いた。
「あのさあ、確かに僕は、自分の在り方に一点の曇りもなく、誰よりも正しく、強く、美しく、完全無欠の存在だと自負している。誰かがその真実に文句をつけようが関係ない。だってそれは事実だからね。けどさ、それを踏まえた上で、君の今の言い草はなんだい?頼み事をするっていうのは、本来相手への敬意と感謝と、それに伴う慎ましさがあって然るべきだと思うんだよね。それをまるで当然のように僕を使役しようだなんて……本当に、そういう無礼で傲慢な態度なのは相変わらずだね君は」
それを聞いた黒服は、口の端を吊り上げるように笑った。
「──では、ここは拒めない提案を一つ」
そう言って、黒服はスーツの内ポケットから小さな袋を取り出した。深い紺色のベルベットに包まれたそれを、そっと机の上に置く。
「……!」
僕の目が、その瞬間に見開かれた。
黒服が取り出したのは、僕が探し回っても手に入れることが出来なかった──トリニティ印のティーバッグだった。
「──たまたまトリニティに立ち寄った折に、偶然手に入れることができましてね。普段は常に売り切れ、生産数も極端に少ないあのティーバッグです。私としても、まさか手に入るとは思っていませんでした」
黒服の言葉など、もはや耳に入っていなかった。僕の意識は、目の前にあるティーバッグに釘付けだった。
……まさか、僕ですら手に入れられなかった、あのトリニティ印のティーバッグを……こいつが?
思考が現実に追いつかぬまま、僕の手が無意識に動き、ティーバッグへと伸びていた。
だが──
「……」
黒服が無言でティーバッグを引き戻した。
その瞬間、空気が張り詰める。
「…………」
「…………」
僕は無言のまま黒服を凝視した。
黒服もまた、穏やかな笑みを浮かべたまま、その視線を真っ向から受け止める。
「……まず最初に言っておくけど、僕が君の頼みに応じるなんて、いつ、どこで、誰が決めたのかな?そんなこと、一言も言ってないよね?自分の始末は自分でつける。自分の責任は自分で果たす。それって、生きてる者として最低限の義務じゃない?他人に甘えて生きることを当然だと思ってるなら、それはもう思想として腐ってると思うんだよね。僕は、そういう依存性が何よりも嫌いなんだ」
何事もなかったかのように、僕は淡々と告げた。
「おや、では私からの依頼は受けてくださらないと?」
黒服が静かに問い返してくる。言葉の端々に、余裕と計算が滲んでいた。
「──ああ、確かにティーバッグを失うのは少しばかり惜しいよ。でもね、失ったって、それが永遠に戻ってこないわけでは無いんだよね。必要ならまた手に入れればいいだけの話だ。僕はね、そういう欠けたものに執着しない完璧な思考をしてるんだよ。トリニティ方面にもたまに行くから、その時にでも買えば済むだけだ──君は、自分の小賢しい計算が通じると思ってたみたいだけど、残念だったね。最初から勝ってたのは、僕の方みたいだ」
僕はソファーにもたれ、余裕の笑みを浮かべた。
しかし黒服は、そんな僕の態度に臆することなく、言葉を重ねる。
「──では、あなたが絶対に拒めない提案を一つ」
『絶対』という断言に、僕は一瞬だけ眉をひそめた。
何故そこまで言い切れるのか、興味は湧いたが、どうせまた同じような方法で釣るつもりなのだろう。僕は、そう簡単には騙されない。
そう思っていた矢先、黒服が一枚の写真を取り出し、無言のままテーブルの上に置いた。
──それを見た瞬間、僕の表情が凍りついた。
写真には、見るも無惨な建物が写っていた。巨大な穴がぽっかりと空き、瓦礫が無造作に積み重なっている。
「こちらは、とある転売事業を展開していた企業の建物になるのですが……」
黒服の説明を耳にしながら、僕の脳裏に、先日に起きた夜間の出来事がよぎる。
そして、背中にひんやりと汗が流れた。
「先日の夜の時間帯に、謎の飛来物がこの建物に直撃したらしく、このように、とても建物とは言えないような状態になってしまいましてね。まあ、元々ロクでもない企業だったらしいので、崩壊して正解だったかもしれませんが……」
黒服はこともなげに言う。そして、さらに続けた。
「ですが、この企業に勤めていた従業員が、血眼になってその原因を探しているようで……この私は、この飛来物とやらに心当たりがあります。この破壊力、その規模のデカさ……この建物を崩壊させたのはレグ──」
「ああ分かったよ!行けばいいんだろ、行けば!」
僕は黒服の言葉を遮るように叫んだ。
──逃げ道は、もうなかった。
「話が早くて助かりますよ、レグルス」
黒服が満足げに笑みを浮かべ、さっき引っ込めたティーバッグを差し出してきた。
僕はそれをひったくるように受け取る。
「勘違いするなよ黒服。今回僕はたまたま暇だったから君の理不尽な依頼を受け入れただけで、僕が持つ時間の権利を奪う許されない行為だというのは変わっていないからね」
「ええ、それで結構です」
黒服はそう答えて、何事もなかったかのようにフォークを手に取った。テーブルに残ったロールケーキへと手を伸ばす。
だがその瞬間、権能を使って無理やり黒服の身体を宙に浮かせた。
「……クククッ、どうされましたか?」
僕の瞳が、鋭く細められる。
「──あのさあ、僕はね、君のくだらない依頼をわざわざ受けてあげた。これってすごく寛大なことだと思うんだよね。なのに、なのにだよ、なんで僕が丁寧に淹れた紅茶を当然みたいな顔して飲むばかりか、僕が自分のために買ったロールケーキまで、勝手に手をつけているのか甚だ疑問だよ。君はどこまで図々しくなれば気が済むのかなあ?」
黒服は空中に浮かされながらも、どこ吹く風のように口角を上げる。
「一人で食べるより二人で食べた方が、よりおいしく感じるでしょう?」
そして、黒服はくつくつと笑った。
それを聞いた僕は、以前と同じ要領で黒服を部屋の外に放り出した。
◆
──場所は、とある高層オフィスビル。
手に持つ端末の光が、鋼のように硬質な空間に青白く反射していた。
「……どうやら、データより遥かにアビドス高校の奴らはしぶといようだな」
端末に映る戦闘ログを前に、頬杖をついた姿でぼやくのは、カイザーPMCの理事。巨大な体躯と無機質な外装を持つ、大柄なロボットのような存在。その目には焦燥も怒りもなく、ただ厳然とした分析者の眼差しが光っていた。
彼が動かした駒──カタカタヘルメット団のチンピラたち。さらに便利屋68に依頼し、アビドスの生徒らを襲撃させていたが、その全てが失敗に終わっていた。
「……計算にエラーが生じただけか?」
無機質な声でそう呟いた時だった。
──正面から、足音を立てながら近づく人影があった。
「──データに不備はありません」
その言葉に、理事は声が聞こえた方へと顔を上げ……黒服に目を向けた。
「……何故そう断言できる」
理事の問いに、黒服はわずかに首を傾けながら答える。
「私も全てを理解しているわけではありませんが……」
一拍置いて、視線を端末の画面に送る。
「──データは常に変化するものです。その原因を捉えてみせましょう」
そう言った黒服の頭部、その一部に走る細い亀裂から、淡く白いモヤが立ち昇った。それは不気味なほど静かに、部屋の空気を撫でるように広がっていく。
「では」
黒服はそれだけを告げると、理事に背を向け、歩き出す。
「……待て」
低く、しかし強く理事の声が響く。
「貴様に一つ聞きたいことがある」
それを聞いた黒服は立ち止まり、振り返る。
「……何でしょうか」
視線が交錯する。その瞬間だけ、空気がわずかに緊張を孕んだ。
「私がアビドスの連中を襲撃するよう依頼したカタカタヘルメット団というチンピラ共が、数人行方不明になっていると聞いた」
「……」
黒服は無言で続きを促す。
「行方不明になる直前の場所の近くにいた別のチンピラ共に問いただしたところ──ある男が、私が支給した車両に乗り込んだチンピラごと、遠くに投げ飛ばしていたと証言していた」
その言葉を発しながら、理事はゆっくりと端末から目を外し、黒服をまっすぐに見据える。
「貴様、その人物について何か知っていることはあるか?」
黒服は一拍の間を置き──
「クックック……」
と、喉の奥で含み笑いを漏らす。
「ええ、知っていますよ」
その返答に、理事がさらに詰め寄ろうとしたその瞬間、黒服が制するように言った。
「──その人物を相手にするのは、オススメしません」
無機質な声でありながら、確かな警告の響きを含んでいた。
「……何故だ?」
問いかける理事。黒服は肩を揺らし、笑う。
「例え、あなたたちが持つ兵器の全てを、彼にぶつけようとしたところで──」
言葉を区切ると、黒服はゆっくりと理事に背を向ける。
そして顔だけが振り向き、冷たい笑みを浮かべて言い放った。
「──全てが無に還るだけでしょうから」
◆
「お待たせいたしました、お客様」
丁寧な口調で告げたのは、カウンターの奥に立つ銀行員のロボットだった。だが、それに続いた声は怒りに満ちていた。
「なにが『お待たせいたしました』よ!本当に待ったわよ!六時間も、ここで!!融資の審査に、何で半日もかかるの!?私の連れは待ちくたびれて──」
銀行内に、少女の怒声が響き渡った。その騒がしさに眉をひそめつつ、僕は無言で壁に背を預けたまま、怪訝な顔をしていた。
──ことの始まりは、昨日のことだ。
黒服に『私の代わりに金を引き出してきてくれ』と頼まれた。そこから何だかんだ色々あって、僕はしぶしぶブラックマーケットにあるこの銀行まで足を運ぶ羽目になった。
到着早々、黒服の口座から代理で金を引き出そうとしたのだが……
『代理で引き出す場合は、必ず銀行員に話を通していただく必要があります』
と、機械からそんな文字が表示された。
前世の銀行じゃ、委任状さえあれば機械でも引き出せたのに、なんでここの銀行はそんな無駄に面倒な仕様になっているんだよ。
仕方がないので、銀行員に『代理で引き出したいんだけど』と言ってみた。
『すみません、少々お時間をいただけますか?』
との返答があり、それから……もう二時間が経過していた。
「僕がわざわざ代理で、しかも気分が最悪な中、仕方なく来てあげてるっていうのにさ、なんで僕がこんなふざけた時間の無駄に付き合わされてるわけ?待つって行為そのものが僕には意味不明だし、耐え難いんだよね。僕は他人に振り回される器じゃないし、されていいような存在でもないんだからさあ」
……さらに言えば、治安の悪いブラックマーケットにあるせいか、銀行全体に漂う空気がどこか淀んでいる。入った瞬間に思った。ああ、ロクでもない銀行だって。
「さっさと帰って、平穏な一日を暮らしたいものだよね」
僕がそう呟いた瞬間だった。
「うわあ!?」
「な、なに!?」
またしても、銀行内に甲高い声が響く。
ほぼ同時に、僕の視界が一瞬で真っ暗になった。
──どうやら停電したようだ。
「……はぁ」
僕は冷静に、大きくため息を吐きながら毒づいた。
「──全く本当に呆れるよ。電気の管理すらもまともにできないなんて何の冗談なのかな?それで銀行なんて大層な看板を掲げてるんだから、もう滑稽を通り越して哀れってレベルだよね。こんな体たらくで、人様の財産を預かってます、なんて胸を張れる神経、僕には到底理解できなあああああああああああああいッッッッ!!?」
僕の背中を預けていた壁が、突如として爆発した。
轟音と共に粉塵が舞い、僕の身体は衝撃とともに盛大に吹っ飛ばされた。