感想は全て目を通していますが、返信が遅れてしまってすみません……
お詫びといっては何ですが、レグルスの顔面を存分に
蹴っていただけたらと思います。
「やっぱりロクな場所じゃないな、ブラックマーケットは……!」
薄暗い路地裏を歩きながら、僕は小さく吐き捨てた。
踏みしめるアスファルトには、割れたガラスの破片と、どこの店から出されたのか分からない廃材の山が散らばっている。鼻を突くわずかな刺激臭が辺りを満たし、足音すら吸い込むような重苦しい空気が流れていた。
「代理で金を引き落とすだけで、何であんな目に遭わなきゃいけないんだよ……」
額に手をやり、深々とため息をついた。
銀行内で二時間も待たされ、壁に背を預けていただけで、銀行強盗の襲撃によって、そのまま僕は爆発で吹き飛ばされる羽目になった。
もうすでに精神は限界寸前であった。
それでもなんとか金を手に入れ、無事に封筒を受け取り、銀行の出口までたどり着いたとき、「ようやく帰れる……!」と、僕はようやく安堵の息を吐いた。
そして、自動ドアを抜け、外の空気を吸い込んだ瞬間──
『今だ!奴を捕らえろ!』
『あいつが持つ封筒を狙え!中には大金が入っている違いない!』
『…………』
そんな怒声が響いた。
数人の不良たちが、鉄パイプや銃を手に僕へ向かって突進してくる。
無秩序と欲望が支配するこの場所では、他人の持ち物など『見せてしまった瞬間に奪われるもの』に過ぎない。たたでさえ目立つ僕は、金が入った封筒を抱えていたこともあり、まさに格好の標的だった。
『うわー!?』
『何だこいつ……!?撤退、てったーい!!』
次の瞬間、地面に転がったりその場から逃げ出していたのは襲撃してきた不良たちの方だった。
全員を容赦なく返り討ちにした僕は、服についた埃を払って立ち上がる。
『……ほんとに、精神的苦痛に続いて、もしものことがあって肉体的苦痛まで味わったらどうするんだよ……』
と、憤然としながら足を進めるが、すぐにまた声が上がった。
『おい! あんなところに金持っていそうなやつが居るぞ!』
『印象に残らなさそうな顔はしてるが、確かに金は持ってそうだな!』
悲しいかな、また別の不良たちが集まってきてしまったのだ。
どうやらここでは、ひとたび獲物と見なされれば、倒しても次が湧いてくるらしい。
──それがブラックマーケットという場所だった。
自衛できない者は搾取され、黙って金を持っているだけでも襲われる。法も秩序もないこの街で、僕は目立たぬよう生き延びることさえ難しい。
僕は泣きそうになりながら頭を抱えたが、すぐに姿勢を正し、再び湧き出てきた不良たちを次々と倒していった。
──そして、どれだけの不良を返り討ちにしたのか分からないまま、細い道を選び、人気のない路地裏ばかりを渡り歩いているうちに、時間はすでに数時間が経過していた。
目的地だったはずの家には、まだ辿り着けていない。
「大通りでさえ歩けないのなら、僕はどこを歩けって言うんだよ……!」
再び漏れ出た僕の愚痴は、通りに響くことなく闇に吸い込まれていく。
ふと、僕は立ち止まって周囲を見回す。すっかり陽は傾き始め、人工灯の届かない路地裏は暗く、冷たい静寂に包まれていた。
「……はぁ」
今みたいに路地裏を選んで帰るしかないという現実に、僕は再びため息を漏らした。
そんな折、ふと視界の端に何かがきらりと光った。
「ん……?」
自然と視線が引き寄せられた。
光の元へと足を向けると、壁の隅に何かが落ちているのが見えた。
「──キーホルダー?」
しゃがみ込み、それを拾い上げる。
金具にぶら下がっているのは、金色の奇妙なマスコットキャラクターだった。
「なんだこの変な鳥……ペンギン?ニワトリ?……いや、どっちでもない、のか?」
小さなそれは、ぬいぐるみのような素材で作られていたが、焦点の合わない目玉と、舌をだらしなく垂らした表情がどうにも不気味だった。どこかのマスコットキャラクターかもしれないが、好みが極端に分かれそうなデザインだ。
「……まあ、ここに置いていくよりは良いだろうし、黒服にでも押し付けておくか」
そう言いながら拾ったキーホルダーをポケットにしまい、さっさと帰ろうとしたその時──
「──す、すみませーん!どいてくださーい!」
背後から飛んできた甲高い声に、僕は再び深いため息を吐いた。
「……またか。ほんと、何度同じ目に遭わせれば気が済むんだよ……」
イライラしながらそっと後ろを振り返る。
「あのさあ、君たちはいい加減に、か弱い人間を襲うっていう非情な思考は止めた方が良いと思うんだよばぁッッ!!?」
「きゃっ!?」
──その瞬間、僕の視界が一気に揺れた。
前方から勢いよく何かが突っ込んできて、僕はそのまま尻餅をついてしまった。
「いたたっ……!ご、ごめんなさ──あっ!?」
同時にぶつかってきた人物も、僕と同じように尻餅をついてしまったらしい。
──ぶつかってきた人物を見ると、茶髪のツインテールに、やや幼い顔立ちをしていた。
その声の高さと、制服の袖口から覗く華奢な手首。
それらから察するに、どこかの学園に所属している女子生徒なのだろう。もっとも、キヴォトスで男子生徒など見かけた記憶がないが……何はともあれだ。
──仮に不良生徒だったとしたら、始末しなければならない。
そんな物騒な思考がよぎるほどには、この街の治安には信頼を置いていない。
「君さあ、前方不注意にもほどがあるんじゃないの?とてもじゃないけど信じられないよ。この僕の帰路を邪魔するなんて、どれだけ無神経な──」
そこまで言いかけたときだった。
僕はふと、視界の奥に動く人影を捉えた。
──複数の足音、荒々しい叫び声、それによってざわつく空気。
「お前ら、あのトリニティ生を何としてでも確保しろ!そして身代金をたんまりむしり取ってやろうぜ!」
「……おい、なんかもう一人増えてねぇか? まあいい、あいつも金持ってそうだし、まとめて確保だ!」
──ああ、なるほど。
この子は逃げていたんだな。追手から、ひたすら必死に。
そんな彼女が、逃げた先にたまたま僕がいただけ。そして当然のように、僕も巻き込まれたというわけだ。
……本格的に、今日は厄日かもしれない。
「……っ!こ、ここまで来るなんて……!?」
彼女は震える声でつぶやいた。
その声の色には、恐怖と諦念が入り混じっている気がした。
それを聞いた僕はゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払った。ため息を一つ吐き、未だ尻餅をついている彼女の横を通り過ぎる。
「っ!?ま、前に出たら危ないですよ!」
彼女が慌てて叫んだ。
その瞳は、まっすぐに僕を見ていた。
……こうして心配されるのも久しぶりだ。
これまで、似たような場面では大半が自分の身を守ることで精一杯で、逃げるような生徒が多かった。もちろん、逃げることを責めはしない。逃げるという行為は誰もが持つ当然の権利だ。
けれど、中には僕の背中を押して、自分の盾にしようとした者もいた。それをされた時は、僕は人間不信に陥りそうになった。
──だからこそ、こんなふうに人を気遣うタイプは、ここキヴォトスという箱庭では本当に珍しい。
「気にしなくていい。今の僕はね、とびっきり機嫌がいいんだ。だからこそ、穏便に済ませてあげようっていう慈悲深い気持ちになれるんだよね。むしろ彼女らには今の僕に感謝してほしいくらいだよ」
と、彼女に向かってそう言いながら、僕はゆっくりと前を向いた。
「──よし、大人しく捕まるつもりになったみたいだな!そのまま抵抗するなよ!」
不良の一人が、こちらに銃口を向けながらそう叫ぶ。
それに続くように、その場に居た不良たち全員が銃口をこちらに向けた。
「今の僕はね、機嫌がとても良いんだ。だから、ここは平和的に解決するべきだと思うんだよね。無意味で醜い争いなんて時間の無駄だし、誰も得しないからさ。手を取り合って正しい形で終わらせるのが一番──」
「ごちゃごちゃうるせぇ奴だな!お前ら、もう撃っちまえ!」
悲しいかな。最後まで聞く耳も持たず、引き金が引かれてしまった。
無数の弾丸が、僕の身体を貫かんとばかりに一直線に飛来してきた。
「ええっ!!?」
背後から彼女の悲鳴が響く。
驚きと恐怖、そして明らかな心配。その叫びには、守ろうとする意志が確かにあった。
彼女は尻餅をついたまま、僕の前に出ようとしたのだ。
──だが。
「よし!これで私たちの懐も潤う……って、はあ!?」
不良の一人が叫ぶ。
その視線の先──そこには、あり得ない光景が広がっていた。
「あのさあ、人がわざわざ穏便に済ませてあげようとしてるっていうのにどうしてそのタイミングで弾丸なんて撃ち込んでくるわけ?君たちは話の通じない獣か何かなのかな?僕は対話の機会を与えたのにそれを踏みにじるなんて、それって僕が持つ対話の権利の侵害だよね?」
──僕の目の前に、無数の弾丸が宙に浮かんで静止していたのだ。まるで時間が止まったかのように。そのあまりの数に、不良たちからは僕の姿さえ見えていないのだろう。
「おまえ、それどうなって……!?」
言葉にならない声が飛ぶ。それを無視して、僕は溜め息を吐いた。
「君たちさあ……弾丸はタダじゃないことを分かっているのかな?それをこんなにも無意味にばら撒いて、何がしたいのか全然理解ができないよ。結局のところ、この弾丸たちは何の役にも立てず、転がるだけの鉛の塊と一緒じゃないか……可哀想に。そんな使われ方をするために存在してるわけじゃないんだからさあ」
そう言いながら僕は右手を前に出し、中指を折り曲げ、親指で押さえた。
──いわゆる、デコピンの構えというやつだ。
「だから、きちんと役に立てないとね」
そして、僕が中指を弾いたその瞬間、宙に浮いていた弾丸が、まるで意思を持ったかのように、一斉に不良たちの元へと音速を超える勢いで逆方向に飛び出した。
「──ぇ?」
「──がッ」
その場にいた不良たち全員が迫り来る弾丸に対応できずにそのまま被弾してしまい、間抜けな声を漏らしながら、地面に崩れ落ちていった。中には、何が起こったのか理解すらできないまま声すらも出せずに、そのまま意識を手放した者もいた。
「たとえ何人でかかってこようとも、それが烏合の衆じゃあね……寄り集まっただけの無秩序に意味なんてないし、崩れる時はいつだって滑稽なほど呆気ないものなんだよね」
僕はため息をひとつ吐き、呆れたようにそう呟いた。
空気に残る余韻を断ち切るように、僕はおもむろに振り向く。そこには、先ほどまで僕の背後にいたであろう少女がいる。
「君、どこか怪我はしてな……うん?」
言いかけた僕の言葉が止まる。
彼女は、なぜかその場に尻餅をついていた。
明らかに腰を抜かしている。さっきまで立っていたというのに、どうしてだろうか?
「……君、立てるかい?」
そう声をかけながら、僕は手を差し出した。
無視して立ち去ることもできたかもしれないが、それではさっき倒した連中と同じ穴の狢になる。それだけは絶対に避けたいところだ。
「あっ……す、すみません。ありがとうございます……」
彼女はおずおずと僕の手を取り、ゆっくりと立ち上がる。その動作はどこか遠慮がちで、かすかに震えていた。
──何故なら、この時の彼女はこう思っていた。
『この人の逆鱗に触れたらヤバいかもしれない』と。
もちろん、そんな心境など露ほども知らない僕は、淡々と疑問を投げかける。
「君、特に怪我はしていないかい?せっかくこの僕が手を貸してあげたんだ、感謝されこそすれ、傷なんて負われてたら気分が悪いからさ」
「あ、あはは……実はこういったことが何回かあるのですが、思いのほか助けてくれる人が少なくて……だから、助けてくれて本当にありがとうございます!」
彼女は深々と頭を下げた。
その姿勢に、僕はほんの少しどころかものすごく感心する。
「君は素直で良い子だね。僕がわざわざ催促したわけでもないのに、自然とお礼を言えるなんてさ。それだけで他の連中とは天と地ほどの差があるということが分かる。いやほんと、全人類が見習ってほしいものだよね」
「あ、あはは……それはちょっとおおげさすぎじゃ……」
彼女は僕の言葉に困ったような笑みを浮かべた。
その反応に、僕はふと、あることに気付く。
──彼女の声、どこかで聞いたことがあるような……
そう気になった僕は、彼女の顔を無言で見つめる。
「ど、どどどどどうしましたか?」
そんな僕に彼女は動揺を隠しきれず、視線を泳がせる。
──そして、僕はようやく気付いた。
「もしかして君、銀行で会った紙袋を被っていた子だよね?」
「ぎくうっ!?」
次の瞬間、彼女の肩が大きく跳ねた。
その反応に僕は思わず笑いそうになった。実際に『ぎくうっ!?』なんて言う人間が存在するとは──そのわかりやすい反応に、内心で苦笑いする。
「あ、あの!銀行の時は本当にすみませんでした!」
彼女は以前と同じように、全力で頭を下げてきた。
誤魔化せないとでも思ったのだろう。でも、逃げるでもなく再度きちんと謝るとは。
根っから真面目で、純粋な子なんだろう。
「もう過ぎたことだ。銀行のときにも言ったと思うけどね、僕は一つの出来事にいちいち執着するような脳みそはしていないんだ。たかが一度のミスくらい、目を瞑る余裕くらいは持ち合わせているのさ」
「そ、そうですか……うう、なんだか自分が恥ずかしいです……」
彼女はほんのりと頬を染めて、うつむいた。
その姿を見ながら、僕は顎に手を添えてあることを思い出す。
「確か君は……他の覆面を被った彼女たちから『ファウスト』って呼ばれていたよね。君からは想像できないすごい名前でかっこいいと思うよ」
「ち、違います! 私には『阿慈谷ヒフミ』というちゃんとした名前があります!」
ヒフミ──そう名乗った彼女は、頬をぷくっと膨らませて、僕の言葉を全力で否定してきた。
「まさか、この僕が人の名前を間違えるなんてね……いやはや、耳にしたことのある名だと思い込んだばかりに、先入観に囚われてしまっていたようだね。この通り、誠心誠意、謝罪するよ」
僕は右手を胸に添えて、静かに頭を下げた。
「い、いえいえ!あれはホ……覆面の人たちから急に命名されただけなので、お気になさらず……!」
ヒフミは慌てた様子で両手を前に出し、ブンブンと横に振る。
その一つ一つの動作はどこか大袈裟で、それゆえに彼女らしさが滲み出ている。そういうタイプの人間こそが、自然と周囲から慕われるのだろう。
「──さて、君は意図してなかったかもしれないけど、こうして自ら名乗ってくれたね。だから、僕だけが君の名前を知っている。だけど、一方的に知っているのは不公平な話だから、僕からも名乗らせてもらうよ。それが僕の中でのルールとして決めているからね」
「そ、そうなんですか?」
ヒフミがどこか困惑したように首を傾げる。
僕はそんなヒフミに頷き、この世界で幾度となく口にしてきた言葉をまた口にした。
「ゲマトリア所属強欲の権化、レグルス・コルニアス」
この名乗りだけは、どうしても無駄に格好つけてしまう。
そうでもしないと、何となく自分が自分でいられない気がして、落ち着かないのだ。
……何故だろうか。
「ゲ、ゲマトリア……?聞いたことないですね。どこかの企業なのでしょうか?あと、強欲って……?」
ヒフミが小首を傾げて僕に問う。
「……まあ、僕を含めて、自分に欲深い企業だと思っていてくれたら良いかもしれないね」
──実態としては、化け物みたいな集まりで、どいつもこいつも思想がイカレ気味な連中ばかりだが。
「レグルスさん、ですね。覚えました!」
ヒフミは明るくそう言った。
彼女のそういう無邪気なところも、きっと人を惹きつける理由なのだろう。
「僕も君の名前はしっかりと覚えたよ。トリニティ総合学園所属の『阿慈谷ヒフミ』、とね」
その言葉を聞いた瞬間、ヒフミは目を見開いた。
「あ、あれ?私、どこに通ってるか言いましたか?」
不思議そうに首をかしげる彼女に、僕は肩をすくめて答える。
「さっきそこで倒れている不良が口にしていたじゃないか『あのトリニティ生を確保しろ!』ってね」
「あっ……そ、そうでしたね」
僕の言葉に、ヒフミは照れたように笑った。
それを見た僕は軽く頷いて応える。
「……さて、陽も傾き始めているし、こんなところに長居するのは嫌だからね。君も早く帰るといい。僕はもう帰るからさ」
さっさとこのエリアから抜け出して、部屋で横になりたい。
そんなことを考えながら、僕はヒフミの返事を待たずに歩き出す。
──その時だった。
ポケットにしまっていたキーホルダーが、僕の動きに合わせて地面に落ちてしまったのだ。
「……ああ」
ここに放置するには惜しい。これは黒服に押し付ける予定なんだから。
そう思いながら僕はしゃがみ込んで、それを拾おうとした。
──その瞬間。
「あっ!?そ、それは……!?」
ヒフミが僕を──いや、僕の手元を指さし、驚きの声を上げた。
「世界で三個しか生産されていないといわれる、伝説の『ゴールデンペロロ』様のキーホルダーじゃないですか!?それ、どこで手に入れたんですかっ!?」
彼女は迫真の表情で早口にまくし立てる。息を継ぐ間もないその勢いに、僕は思わず一歩下がった。
「いや、これはたまたまそこで拾っただけなんだけど……って、僕の話聞いてる?」
返答はなかった。
ヒフミは僕が持つキーホルダーに視線を釘付けにしたまま、なにかを早口でブツブツと呟き続けている。目はキラキラと輝いているのに、どこか正気を感じさせないその様子に、僕は少しぞっとしてしまう。
まるで別人のようだ。正直、少し怖い。
僕は無言で手元のキーホルダーに目を落とした。
──こんなもので、ここまで夢中になれるなんて。よほど好きなものなのだろう。
「ほら」
僕は手に持つキーホルダーをひょいと放り投げた。
「わ、わっ!?」
ヒフミは突然の動きに慌てながらも、反射的に両手でそれをキャッチする。両目をぱちくりとさせたまま、自分の掌にあるキーホルダーを見つめた。
「それ、あげるよ」
「えっ!?い、いいんですかっ!?」
声が一段と高くなる。
彼女の顔はぱあっと明るくなり、目はさらに輝きを増した。
「どうせ拾い物だからね。僕自身、別にそれに興味があるわけでもないからさ」
僕は呆れ気味に言いながら肩をすくめる。
だがヒフミは僕の言葉を聞いているのかいないのか、「ありがとうございますっ!」と言ってから、自分の背負っていたリュックサックを急いで下ろし、キーホルダーを取り付け始めた。
そのリュックサックを見ると、それすらもヒフミが言っていたペロロ様だった。
どうやら彼女の推しであることは疑いようもないようだ……まあ、人の趣味に口を出すつもりはない。うん。
そして、ヒフミが取り付けた金色のキーホルダーが、彼女のリュックサックのチャック部分に誇らしげに揺れた。小さいながらも存在感があり、まるでその場所に属していたかのように自然に馴染んでいる。
「……本当にありがとうございます!なにか、お礼をさせてください!」
彼女は両手を合わせて、感極まったように言った。
「お礼なんて必要ないよ。僕はただ、持つべき者に、それを渡しただけ──」
そこまで言いかけて、僕はふと口をつぐんだ。
「……?あの、どうかしましたか?」
その様子にヒフミが首をかしげ、不安そうに僕の顔を見上げる。
僕は少しだけ目を細め、彼女の顔をじっと見つめた。そして、口角をほんのわずかに上げる。
「──それじゃあ、友好の証としてさ、僕と握手してくれないかな?」
「……えっと、本当にそれだけでいいんですか?」
彼女は困惑しながらも、ゆっくりと右手を差し出した。
「何の縁かは分からないけど、こうしてまた巡り会えたわけだし。なら、友好の証を交わすぐらい自然なことだと思わないかな?」
僕は優しく微笑みながら、右手を彼女の手に重ねた。
「……分かりました!」
少しだけ照れたように笑って、ヒフミは僕の手をしっかりと握る。
「……」
「……」
「──」
「……?」
──そのまま数秒間、沈黙が続いた。
「あ、あの……?」
彼女が戸惑い気味に声を上げる。その瞬間まで、僕は無言で彼女の手を握っていた。
──そして、しばらくしてから静かに言った。
「……ああ、もう充分だよ」
握っていた手をそっとほどきながら、僕は口を開いた。
「これで、互いが欲したものは無事に叶った。君も、僕も、お互いに満足しているということになる。なら、今日という日はそれだけで良い日になったってことさ」
「満足してくれたなら、良いんですけど……とにかく、今日は本当にありがとうございました!レグルスさんがくれたゴールデンペロロ様、大切にします!」
ヒフミは満面の笑みで僕に頭を下げる。その笑顔は、純粋すぎて直視するのが少し恥ずかしいほどだった。
「次はどこで会うのかは分からないけど、紅茶のティーバッグとロールケーキを買いに、たまにトリニティの方面に足を運ぶからね。もしかしたら、また会うことになるかもしれないよ」
「……なるほど、紅茶とロールケーキが好きなんですね……分かりました!それじゃあ、またどこかで!」
「……何が分かったのかは分からないけど。ああ、またどこかで」
そうして、ヒフミは小走りで路地裏の出口へと向かっていった。
彼女の足取りは軽やかで、背中には金色のペロロ様が誇らしげに揺れていた。
「……」
僕はその背中を見送ったあと、ふと、自分の右手を見つめた。
そして、誰も居ない路地裏で小さく呟いた。
「──疑似心臓が、寄生しなかった?」