「──お願いだから話を聞いてほしい」
僕は部屋の中でそう静かに言った。
雲ひとつない快晴の今日この頃、僕は窓際に飾られている花たちに向かって──見事なまでの綺麗な土下座を披露していた。
きっかけは昨日の出来事だった。
ブラックマーケットで不良どもを蹴散らしながら、帰路をたどっていたところ、偶然にも銀行で出会ったファウスト……いや、ヒフミと再び路地裏で再会を果たした。
そこでなんやかんやあり……本当にいろいろあって、僕は『ゴールデンペロロ』様のキーホルダーをヒフミに渡したのだ。
そして、友好の証として、僕たちは熱い握手を交わした。
銀行での出会いは、最悪に近かったのかもしれない。でも、こうして多少なりとも良い関係を築けたこと、正直に言って嬉しかった。
──結果的に、良い話で終わってくれて良かった。
「疑似心臓の事はどうした……!」
訂正、良い話で終わるわけがなかった。
唸るような声が、部屋の中にこだまする。
あの時、僕は自らの意思でヒフミと握手を交わした。
それが何を意味するのか……真っ先に浮かぶのは『疑似心臓の寄生』だ。僕の疑似心臓が他人に根を張る、僕の中では最もありふれた発端だ。
僕はあの時、わざとヒフミに疑似心臓を寄生できるかを試してしまった。だから、ブラックマーケットから無事に帰れたあと、ベッドの中で僕は悶えた。
罪悪感で、胸が焼けるようだった。
でも、あんなことをしたのにはもちろん理由があった。
覚えているだろうか……実は、ヒフミの手に触れたのはあの握手が初めてではなかったのだ。
『……君、立てるかい?』
『あっ……す、すみません。ありがとうございます……』
あの時、僕はヒフミに手を差し伸べ、ヒフミはおずおずと手を取った。
──そう、既にあの時に触れ合っていたのだ。
そして、その時点で疑似心臓の寄生が起きていなかったこと。
それが僕の中で、決定的な疑問になった。
手が触れ合うことで、ヒナやアツコに寄生してしまった理由。連邦生徒会長が、手に触れずとも寄生を果たした理由……これらの差異の原因が、未だによく分かっていない。
もしかしたら、一つの要因として、身体のどこかに触れ合うことがトリガーなのかもしれない。だから僕は、ヒフミに対して握手をお願いした。僕自身が覚悟を決めながら。
ヒナ以来だった。握手を交わしたのは。
──結果的に疑似心臓の寄生は起こらなかった。
それは、良かったことなのかもしれない。正直なところ、疑似心臓の寄生を僕はあまり好いていない。
三人も寄生してしまっている。それだけでもう、僕は強欲の化身と言われても仕方がない。
でも……その事実が消えることはない。
ヒフミの心臓に疑似心臓を寄生させようとした。それは、僕が選んだ行動だったから。
「あのノミ以下はそういう点では気楽だよな……!」
ノミ以下に対して怒りをこめながらそう言った。
『僕の大事な心臓は妻たちに預けてある。でも、妻たちの誰が心臓の所有者か、僕にも当の妻にも自覚がないのさ』
ふざけないでほしい。寄生させられた彼女たちの自覚があるのか分からないが、僕は……誰が疑似心臓を所有しているのか、はっきりと分かってしまう。
だからこそ、ヒフミの心臓に疑似心臓が寄生しなかったのも、一瞬で分かったのだ。
「あんな腹立つ顔をして、人の心がないような台詞を吐きやがって……!絶対に許さんぞレグルス・コルニアス……!」
残念。今の自分はレグルス・コルニアスそのものだ。
……それはそれとして、ヒフミに疑似心臓を寄生させようと思った。その意図、それ自体が僕の罪だ。
僕はふらふらと立ち上がり、窓際の花たちを見つめる。
「……ペロロのグッズとか買えば、許してもらえるか?」
そう呟いて、僕はスマホを取り出し、ペロロ様のグッズを検索し始めた。
こうしてヒフミは意図せずに、ペロロのグッズを買わせるという偉業を成し遂げるのだった。
◆
アビドス高校の校舎は、強い日差しの下に静かに佇んでいた。青く澄んだ空のもと、白く反射する陽光が、ひび割れたコンクリートの壁面にまばゆく降り注いでいる。風は乾いて軽く、舞い上がった砂埃がちらちらと宙を舞い、校門のフェンスにさらりと当たって消えていく。
「……」
そんな中、小鳥遊ホシノはその場に立ち尽くしていた。
制服の裾を風になびかせながら、無言でアビドス高校をじっと見つめる。どこか懐かしむようで、どこか哀しげでもある瞳。
「……ふう」
やがて、ホシノは制服のポケットに手を差し入れ、一台のスマートフォンを取り出した。画面を一瞥し、ためらうことなく着信履歴の中の一人を選び、指先でタップする。
「……」
スマホから数コールの音が鳴る。ホシノはその場で無言になりながら待ち続け──
『──もしもし、ホシノちゃーん!』
元気いっぱいの声がスマホ越しに弾けた。
その声に、ホシノの表情がわずかに緩む。
その頬には、微笑みに近い柔らかな感情が浮かんでいた。
──本当に変わらないな。
いつも無邪気で、明るくて、こちらの気持ちを軽くしてくれる、そんな声だった。
「……ユメ先輩、元気でしたか?」
そう、声の主は梔子ユメだ。
二年前、アビドス高校を卒業した先輩。卒業後、キヴォトスの外で進学も就職もせず、アビドスが抱える莫大な借金を返済するため、そして何よりアビドスを離れたくないというわがままで、キヴォトスに残り続けた人物だった。
現在、ユメは新しく稼働した組織『シャーレ』で活動している。先生が顧問を務めるその部活で、ユメは日々仕事に励みながら、アビドスのためにも力を尽くしていた。
『私は元気だよ~!ちょっと仕事が多いけど……先生が居ない今、私が頑張らないとね!』
変わらない調子で明るく話すユメ。
その声に、ホシノは胸の奥が温かくなるのを感じていた。どれだけ離れていても、彼女はやっぱり、ユメ先輩のままだったから。
「まだ、アビドスには来れなさそうですか?」
その問いかけには、少しだけ切なさが混じっていた。
『ひぃん……思った以上にシャーレに来る依頼が多くて多くて……あっ、でもねホシノちゃん! ようやく終わる目処が見えてきたの! もう少しでそっちに行けそうなんだよ~! 早くホシノちゃんや後輩ちゃんたちに会いたいな~!』
ユメの声が弾んでいる。その調子は、まるで昨日もアビドスにいたかのように自然で、懐かしかった。
ホシノは思わず目を細める。そして、ぽつりと心の中でつぶやく。
──二年経っても、ユメ先輩はユメ先輩のままだ。
いつまでも変わらず、私たち後輩のことを思ってくれていて、ほんわかしていて。
そんな彼女に、ホシノはひとつため息をついた。
「そう思うなら、早くこっちに来てくださいよ。多少仕事が残ってても大丈夫でしょう?」
少し拗ねたように、ホシノは言う。
『うぅ……でも、出来れば先生に負担をかけたくなくて……えへへ』
電話の向こうで、ユメが照れたように笑う声が聞こえた。
その反応に、ホシノは思わずもう一度ため息をついてしまう。
──早くユメ先輩に会いたい。
ユメ先輩に、あのふわっとした優しい空気に包まれて、ぎゅっと抱きしめられて、安心したい。
そんな思いが胸の内を支配していく。
……でも、こんなこと、ユメ先輩には言えるはずがない。絶対に。
『もしかしてホシノちゃん、私に会いたかったりする~?』
まるでホシノの心を読んだかのように、ユメが言った。
「ち、違いますよ! 私はただ、後輩たちに会わせてあげたいだけで……!」
思わず顔が熱くなるのを感じる。
ホシノは頬を真っ赤に染め、言い訳のように声を重ねたのだ。
『ふふっ、本当、ホシノちゃんって二年前と比べて変わったよね。ツンツンしてた頃のホシノちゃんも可愛かったけど、今のホシノちゃんはもっと可愛い!』
「べ、別にツンツンしてたわけじゃ……!」
さらに顔が赤くなり、ホシノは俯き加減で小さく否定する。
──言えるはずがない。
ユメ先輩にも、後輩たちにも嫌われたくなかったから。
だから私はユメ先輩を見て、彼女の優しさを真似して、今の私があるんだなんて。
そんなこと、恥ずかしくて絶対に言えない。
『うんうん、分かった分かった……よおし、そんなに私に会いたいホシノちゃんに早く会うためにも、爆速で仕事を終わらせるよ~! ホシノちゃん、電話してくれてありがとうね! またすぐに会おうね~!』
「だから私じゃなくて後輩たちが……!って、切れたし」
ホシノが言い切る前に、電話はぷつりと切れていた。
きっと今頃、ユメ先輩は本当に爆速で仕事を片付けようとしているのだろう。
「……はあ」
ホシノは静かにため息をつき、スマホをポケットにしまう。
そして、小さくつぶやいた。
「……ごめん、ユメ先輩」
胸の奥に湧き上がる重たい感情。それは罪悪感と決意の入り混じった複雑な感情だった。
私は、これから貴女を悲しませてしまうだろう。
そして、後輩たちや、先生にも迷惑をかけてしまうだろう。
──でも、それでも。
「……私がやらなきゃ」
ホシノは、両手が痛くなるほど拳を握りしめる。その拳には、揺るがぬ覚悟と、譲れない想いが込められていた。
──今から、ホシノはあいつと会わなければならない。
どうせ、また『ご提案』とか言って私に詰め寄るのだろう。
けれど、今回は少し違う。
こちらからも、問いただすべきことがある。
ホシノは制服の裾を払うと、静かに足を踏み出す。
「……」
街を歩く人々の喧騒も、ホシノの耳には届かない。アビドス高校から離れ、彼女は無言のまま、ただ目的地に向かって歩き続ける。
そしてやがて、見覚えのあるビルが視界に入った。
「……着いた」
ホシノはそのままビルを見上げる。
ガラス張りの外壁に空の色が映り込み、どこか薄ら寒いような印象を与える建物。
いつもあいつがいる場所であり、その場所に、また自分は足を運ぶことになるとは。
ガラス扉が音もなく開き、ビルの中に入る。無機質な照明が天井から照らしていて、どこか不気味に感じてしまう。
少し歩いてエレベーターの前に立ち、ホシノはボタンを押した。機械音とともに扉が開くと、静かに乗り込む。
鏡張りの壁に、自身の姿が映る。
制服、二年前と比べて伸びたピンクの髪。
──そして、絶対に後輩たちに見せることは出来ないであろう、自身の冷めた目つき。
そんな中でも、エレベーターは上昇していく。
数字が一つずつ増えていくたびに、心の中の緊張がじわりと強まる。軽く肩に力が入り、拳が自然と握られる。
やがて、目的の階に辿り着くと、チャイムが一つ鳴った。
その瞬間、エレベーターの扉がゆっくりと開かれる。
ホシノは一歩、また一歩と足を踏み出す。床に靴の音がよく響き渡る。
──そして、ホシノが言うあいつは椅子に腰かけていた。
「お待ちしておりましたよ、暁のホル……いえ、小鳥遊ホシノさんでしたね」
低く、よく響く声。
乾いた笑みが滲むその声に、ホシノは一瞬眉をひそめた。
相変わらず不気味なまでに隙のないその男……その名は黒服。
その存在感は誰よりも厄介で、嫌な意味で記憶に残ってしまう。
「……今度はなんの用なのさ、黒服」
ホシノは睨むように問いかけた。
彼のような存在がこの世から消えてしまえば、どれほど楽だろう。だが、それが叶わない以上、今はこの場で言葉を交わすしかない。
黒服は口元に手を添え、例のごとくクックックッと喉を震わせて笑った。
「状況が変わりましてね。この度は再度、アビドス最高の神秘を持つホシノさんに、ご提案をしようと思いましてね」
「……ふん」
またそれか。
こちらの神経を逆撫でするような提案。これまで幾度となく不快な思いをしてきた。
……だが今日は、それだけでは終わらせない。
ホシノは黒服を睨みながら、拳を握りしめた。
「……黒服。おまえの話を聞く前に、私から聞きたいことがある」
その言葉に、黒服の笑みが一瞬薄れたように見えた。彼にしては珍しく、軽く目を見開いた。
「クックックッ……珍しいこともあるものですね。ホシノさんから聞きたいことがあるとは」
肩を揺らして笑いながら、黒服はホシノの表情を窺う。
「それで、私に聞きたい事とは?」
ホシノは一度、深く息を吐いた。
そして静かに、だが鋭い眼差しを黒服に向けながら言った。
「──レグルス・コルニアスとは、どういった関係なのさ?」
部屋に静寂が落ちた。数秒間、黒服は動きを止めていたが──
「クックック……!」
突然、大きく喉を震わせて笑い始めた。今までとは違う、声を上げての笑い。まるで可笑しくて仕方がないとでも言わんばかりに。
「……何がおかしいのさ」
ホシノが眉をひそめながら言うと、黒服はようやく笑いを収めた。
「ああ、失礼。何もおかしくありませんとも……そうですね、その質問に答える前に、せっかくですのでホシノさんにも聞いてもらいましょうか」
そう言いながら、彼は静かに立ち上がる。そして、デスクを離れ、ホシノの方へと歩み寄ってきた。
その動きに、ホシノは無意識のうちに一歩、足を引いた。警戒心が胸を突く。
黒服はホシノの目の前に立ち、右手を胸元に添え、深々と頭を下げるようにして言った。
「──私は、ゲマトリア所属の探求の権化、黒服」
「っ!?」
その名乗り方は……!
ホシノの脳裏に、ユメの言葉が甦る。
『ゲマトリア所属強欲の権化、レグルス・コルニアス』
そう。あの時ユメ先輩から聞いた、その存在の名乗り方とまるで同じだった。
驚くホシノをよそに、黒服はわざとらしく肩をすくめる。
「この名乗り方はあの方を参考にしました。どうです?似合っていますか?クックックッ……」
その笑い声が、部屋の静けさの中で嫌に響いた。
◆
「あの黒服にも、珍しいことがあるものだよね」
空になった丼を見つめながら、僕はぽつりとそう呟いた。
──いま僕が居る場所は、柴関ラーメンの店内だ。
数日前に訪れ、この世界で初めてラーメンというものを口にした場所。あのときの衝撃は今も忘れられない。だからこそ、僕はあれ以来、定期的にこの店に通うようになった。
……まあ、今回のきっかけはあの男だったが。
数日前、僕が例の疑似心臓の件で自責の念に囚われていたときのことだ。僕の部屋に、またあの黒服がぬるりと不法侵入してきたのだ。
『だから不法侵入するなって言ってるよね!?』
僕がいつものように怒りながら追い出そうとすると、黒服は何食わぬ顔で一枚の紙切れを差し出してきた。そして、なぜか誇らしげな顔をして言ったのだ。
『レグルス、あなたはここ最近、定期的に柴関ラーメンに通っていますよね。ええ、そのようになるのは分かりますよ。私も定期的にあそこのラーメンを出前で頼むことがありますから。お互い、おいしいものを知っているという点では、共通点がありますね』
……何で僕が通っているのを知ってるんだよ。
と言いかけたその瞬間、黒服はさらに言葉を重ねてきた。
『この紙切れは、柴関ラーメンが一杯無料になる無料券です。残念ながら、出前では使えないようでしてね。せっかくですから、こちらはレグルスが有効活用していただければなと』
そうして渡された無料券を、僕はありがたく受け取った。
十億を超える資金があったとしても、僕は無欲な男だ。無駄遣いなんて好きじゃない。だからこういう券は、使えるときに使う主義だったからありがたかった。
『ちなみにですが、その無料券は今日の夕方までです。早く行った方が良いかもしれませんよ?』
『はあ!?』
その瞬間、僕は黒服を部屋から放り出し、そのまま柴関ラーメンに直行した。そしてこうして、無料券を使ってラーメンを完食したというわけだ。
「何……この店は!お腹……食べれるし!!あったかくて親切……!」
ふと、遠くの席から女性の声が聞こえてきた。ぼんやりとしか聞き取れなかったが……内容からして、この店のラーメンに感激しているのだろう。
僕は自然と笑みを浮かべ、水の入ったコップに手を伸ばす。そして、目を閉じたまま口を開いた。
「──ラーメンというのは、大人だろうと子供だろうと、身分があろうがなかろうが、誰もが平等に虜になる魔性の食べ物だ。熱々のスープに絡む麺、立ち上る湯気と香り……それだけで人は、理屈ではなく本能で惹き寄せられてしまう。こういう普遍的な魅力というのは、世界が違えど時代が移ろえど、決して変わらないものだ。まったく、食の力というのは侮れないものだよね」
そう言って、水が入ったコップを口元に持っていき、喉を潤すために傾けた。
──だが。
「……ん?」
水が、口に入ってこない。というか、そもそも手からコップの感触が消えていた。
それに違和感を覚えた僕は、目を開いた。
──そこにあったのは、店内ではなく、青空と見慣れた街並みが交互に移り変わる不思議な光景。
「──ぇ?」
どういうわけか、僕の身体は空に放り出されていた。