ゲマトリア所属の強欲の権化   作:ぬこぱんち

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風紀と強欲

 

『まさか、あの人は……!?』

 

 その姿を見た瞬間、アヤネは思わず声を上げた。

 

『ゲヘナ学園の風紀委員長の空崎ヒナ……間違いなく本人です。ですが、こんな状況でゲヘナにおいてトップの戦闘力を持つ生徒が来るなんて……!』

 

 ──ゲヘナ学園の風紀委員長、空崎ヒナ。

 

 キヴォトスにおいて最強にふさわしい実力を持つ、空崎ヒナ。その存在がこの混沌とした場に現れたことは、対策委員会にとってまさしく想定外だった。

 

 いくらレグルスの手によって風紀委員会が壊滅状態にあるとはいえ、ヒナの実力は別格。アビドス側が勝機を見出すことは極めて困難になる。

 

 ……ホシノがここにいれば、或いは……そう思う余地はあるが、仮にヒナを倒せたとしても、あの不可解な存在である、レグルス・コルニアスが残っている限り、勝利の確信には至ることは出来ないだろう。

 

 そんな中、シロコが銃を構えながら口を開いた。

 

「……ん、背水の陣で何とかする。やるしかない」

 

「"シロコ、ステイ、ステイだよ"」

 

 先生がいつものように軽やかに言って、シロコの暴走を止めた。

 

 そんな緊張の空気の中、ヒナがレグルスに視線を向け、静かに口を開いた。

 

「……まさか、こんな形で会って、あなたと直接話すことになるなんて思わなかった」

 

『──へ?委員長が……レグルス・コルニアスに話しかけてる……?』

 

 アコの声が震える。ありえない光景に、彼女の思考が追いつかない。

 

 ──どこで知り合った?なぜあの男のことを……どうして、委員長が……私の委員長が……!?

 

 アコの脳内に疑問が渦巻く中、レグルスはどこか楽しげに口を開いた。

 

「僕は君を何度か見かけたことはあるけどね。何せ君は、昔から問題児の生徒を粛清するために日々奔走していた。その献身っぷりには敬意すら覚えたぐらいだよ。ゲヘナにとっても、一般人である僕にとっても、君みたいな生徒は必要不可欠な存在なんだろうね」

 

「……そう。あまりそう言ってくれる人が居ないから、実感が湧かないわ」

 

 ヒナは表情を変えずに言ったが、その内心は静かに波打っていた。

 

 二年前に出会ったころとは比較にならないほどの実力を得た今、治安維持のために自らの力を振るう日々。恐怖の象徴として見られることが常であり、敬意を向けられることなど稀だった。

 

 それでも、その言葉が嬉しくなかったわけじゃない。ヒナは、誰にも悟られないように、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「──ところで、話は変わるけど」

 

 ヒナは表情を引き締め、倒れている生徒たちを見渡した後、再びレグルスに視線を向ける。

 

「ここで皆が倒れているのは……レグルス、あなたがやったの?」

 

 その声には、明確な意図と圧が込められていた。

 

 レグルスは数秒だけ瞼を閉じた。すぐに目を開いて、平然と一言呟く。

 

「──そうだね」

 

 たったそれだけの返答。

 

 しかしヒナは、その中に込められた重みを理解した。

 

 ……彼が、そうするしかなかったということを。

 

「……そうせざるを得ない理由があったってことね」

 

 彼女の推察に、レグルスは軽く肩をすくめる。

 

「……君は鋭いね。まさかそこまで見抜かれるとは思っていなかったよ。いやはや、やっぱり風紀委員長というのは、伊達に名乗れるものじゃないらしい。冷静な観察眼に、的確な推察力、それに加えて容赦のない追及……君がそういう人物になっているとは、うっすら噂で聞いていたけど、ここまでとはね。正直、背筋が少し寒くなったよ」

 

 そして、放心したままのアコをちらりと見やり、ため息混じりに続けた。

 

「仕事中にも関わらず、露出癖に全振りした服を着用、趣味を持つ生徒のおかげで、何の罪もない、か弱く繊細な僕が風紀委員の取り締まり対象にされかけたんだ。笑えない話だよね。僕のどこに取り締まる要素があるっていうのかな。これって風紀を乱さない者が持つ純粋無垢な心の権利の侵害だよね?むしろ、彼女のほうが風紀的にも取り締まるべき対象であることを常識的に考えてもらいたいものだよ」

 

 そのレグルスの言葉に、放心していたアコがビクッと反応し、即座に叫んだ。

 

『ですから!私のこの服は仕事着ですッ!あなたにこの服の魅力は伝わらないでしょうがね!』

 

「君の生命維持機能が働き始めたのかな?先程と比べて元気いっぱいだね……なるほど、確かにその服はそういう意味で魅力的かもしれないよね。僕には絶対に理解できないけど」

 

『レグルス・コルニアスううううううッッッ!!!』

 

 アコの絶叫が、市街地にこだました。

 

 しかし──その騒がしさも、一言で終わりを告げた。

 

「──アコ」

 

 ヒナの静かな声。たったそれだけで、アコはぴたりと黙り込んだ。

 

「……他の学園自治区で、委員会のメンバーが独断で動くって、どういうことなの?アコ、説明してもらえる?」

 

 静かながらも、怒気を孕んだ声だった。咄嗟に背筋を伸ばし、アコは肩を跳ねさせる。

 

『こ、これは……その……そこの男を捕ら……こほん。素行の悪い生徒たちを捕まえようとしただけで……!』

 

 レグルスに向ける敵意が、一瞬だけ言葉の端ににじみ出たが、アコは慌ててそれを押し殺すように咳払いをする。

 

「……つまり、便利屋68を確保しに来たと?」

 

 ヒナは声色を変えず問いかけた。だがその目は、まるで真実だけを見透かす鏡のように、アコの曖昧な弁明を許さない。

 

『そう……です……けど……』

 

「でも、その便利屋68の姿、ここには見えない。私から見れば、シャーレにアビドス、それと……レグルスと対峙しているだけにしか思えないんだけど?」

 

『えっ……あっ!?いつの間に逃げて……!?』

 

 アコは声を震わせ、目を泳がせる。

 

 そう、気がつけば便利屋68の姿はどこにも見当たらなかった。レグルスとヒナの予想外の会話に意識を持っていかれ放心した結果。呆気なく逃げられてしまったのだ。

 

 ぞわりと、背中を汗が伝う。ヒナの視線が、さらに冷たくなるのを肌で感じたアコは、半ば自棄気味に言葉を吐いた。

 

『……い、委員長。ことの経緯を説明します……!』

 

 だがヒナは、小さく肩をすくめてため息をついた。

 

「いや、だいたい把握したわ。察するに、ゲヘナにとっての危険因子の確認と排除。そういう政治的な活動の一環ね……はあ」

 

 そのため息には、明らかにアコへの呆れが滲んでいた。

 

「アコ。私たちは風紀委員会であって、生徒会じゃないのよ。権限も責任も、同じじゃないわ。それに、これだけ風紀委員を動員させておいて、結局は一人の男性の手によってやられるなんて……ある意味、こちらだけが被害を被っただけじゃない」

 

 それを聞いたアコは、ここぞと言わんばかりに勢いよく声を上げた。

 

『そ、そうなんですよ!この男が風紀委員を滅茶苦茶にしたんです!数百人の意識を奪って……!これ、公務執行妨害ですよ!?確保していいですよね!?』

 

 だが、その訴えを受けてなおレグルスはまったく動じなかった。ゆっくりと瞼を閉じ、むしろ穏やかな声音で返す。

 

「君、僕の言葉聞いてた?僕は『安心しなよ』って言ったよね?怒りに突っ走ると、視野だけじゃなく耳まで閉ざしてしまうのかい?……まあ、感情に任せた行動ってやつは、だいたい判断を鈍らせるものだけどさ──周囲をよく見てみなよ」

 

『はいっ!?周囲を見てどうす……えっ?』

 

「……はっ!?眠ってた!?」

 

「ここはどこ……?私は……私か」

 

 アコが口を半開きにして振り返ると、倒れていたはずの風紀委員たちが、次々と身を起こし始めていた。

 

「……うーん、脳が震える……あれ、私どうなったんだっけ……」

 

 むくりと上体を起こしたイオリが、ぼんやりとした瞳であたりを見回す。

 

『えっ!?お、起き上がって大丈夫なんですか!?あの男にこんな酷い目に遭わされたんですよ!?』

 

「い、いや……何か、寝るように意識を失っていたような……って、はっ!?アコちゃん、あいつは!?……って、なんで委員長がここに!?」

 

 情報量の多さに、イオリの思考が一瞬でパンクする。

 

 次々と他の風紀委員たちも立ち上がり、互いに顔を見合わせながら混乱を深めていく。

 

「──わあ、風紀委員の皆さん、ほぼ同時に起き上がりましたね!」

 

『でも、だとしたら余計に戦況が泥沼化するだけじゃ……!』

 

「ん、大丈夫。むしろ燃えてきた」

 

「シロコ先輩、ステイ、ステイだってば!」

 

「あ、あはは……」

 

 賑やかな対策委員会と先生をよそに、レグルスが再びアコへと視線を向けた。

 

「──この通り、客観的に見れば、君たち風紀委員は傷一つなく静かに眠っていただけに過ぎないんだよ。それなのに、目を覚ました途端、僕に対してあからさまな警戒心を向けて、まるで敵を見るような態度を取るなんて……少々、過敏すぎる反応じゃないかな? それに、そこの彼女はというと、僕が喋っている間にいきなり蹴り飛ばすときた。いやはや、善意で争いを止めようとする側がこうも乱暴に扱われるとは、なかなか世知辛い世の中になったものだね」

 

 唇をゆるく吊り上げながら、レグルスは肩をすくめる。

 

「ぐぬぬぬ……!」

 

 イオリが悔しげに唸る。だが──次に攻撃を加えたところで、彼を倒せるという確信はなかった。

 

「……アコ」

 

 ヒナが目を細め、再びアコを見据える。その瞳に込められた圧は、冷静でありながら、底知れない重みを持っていた。

 

『はひっ!?』

 

 アコは姿勢を正し、だらだらと冷や汗を流しながら反応する。

 

「詳しい話は、帰ってから聞く……通信を切って、校舎で謹慎しておいて。あと、反省文の量は多いことを覚悟しておいて」

 

『そ、そんな……!』

 

 その言葉に、アコの顔から血の気が引いた。

 

「それが良い、反省するというのは成長の第一歩だからね。それが済んだら……そうだね、彼女の趣味に合わせて、首にリードでも繋いでそのまま校内をぐるっとお散歩でもしてくるといい。うん、風紀委員の社会奉仕ってやつだ。通りすがりの生徒たちも、きっと様々な意味で拍手喝采だろう。いやあ、実に健全で風紀的な良い光景になるだろうねえ!」

 

 レグルスが悪い表情を浮かべながら笑った。

 

『このっ……!やっぱりここで仕留めて……!』

 

 アコの声が怒りで震える。だがその一歩を、鋭い一声が止めた。

 

「アコ。早く通信を切って謹慎しないと、反省文の量を増やす」

 

『……………はい』

 

 ぐっとレグルスを睨みつけながらも、アコは泣きそうな顔で通信を切った。

 

「……レグルス。アコがごめんなさい。ちょっと感情的で暴走しがちなところがあるから、度々こういうことがあったりするの」

 

 ヒナが申し訳なさそうに視線を伏せながら言った。

 

 その言葉に、レグルスはふっと鼻で笑い、肩をすくめる。

 

「気にしなくていい。僕は寛大だからね、一度や二度の非礼で目くじらを立てるほど、器の小さい男じゃないからさ。まあ、仕方がないかもしれないよね。僕みたいに完璧で、完成された人間を目の前にしたら、ちょっとくらい嫉妬で感情が暴走してもおかしくない話だ」

 

 堂々とした態度に場の空気が一瞬だけ固まる。

 

 そんな中、イオリがそっとチナツに囁いた。

 

「……なあ、何で委員長とあの男は普通に会話してるんだ?もしかして知り合いだったのか?」

 

「分かりません……ですが、委員長から彼の話を聞いたことはありません。一体どこで、どういう経緯で知り合って……?」

 

 二人の疑問は当然ながら宙に浮いたままだ。この場で答えを知っているのは、ヒナとレグルス、たった二人だけだった。

 

「……そう、なら良いんだけど」

 

 ヒナがぽつりと呟き、目を伏せる。小さく吐かれた息に、わずかな疲労と迷いが滲んでいた。

 

 その様子を見たレグルスは、どこか考えるように一拍置いてから口を開いた。

 

「君の方こそ、ゲヘナの治安維持のために日々奔走しているんだよね?それじゃあ、肉体も精神も疲れが溜まる一方だ。日々に疲れたのなら、気分転換に天雨アコの首にリードを繋げて散歩してみると良い。きっと良いストレス発散にもなるし、リードに繋がれる彼女も喜んでくれるだろうからね」

 

 冗談とも本気ともつかない調子に、ヒナは少しだけ目を丸くする。

 

「えっと、リードはよく分からないけど……ありがとう」

 

 困ったように笑って、けれどヒナはその気遣いに礼を言った。

 

「でも、私は大丈夫」

 

「それはまたなんでかな?」

 

 レグルスの問いに、ヒナは少し考えるようにしてから言葉を紡いだ。

 

「ここ最近、どういうわけかあまり肉体的な疲れを感じなくて……体調もほぼ崩さなくなったし、どれだけ動いても風紀委員の仕事に支障をきたさないから、ついつい働きすぎてしまうの」

 

 自身の身体のことながら、ヒナはどこか不思議そうな顔をしていた。

 

「……ちなみに、それはいつからそう感じ始めたのかな?」

 

 レグルスの質問に、ヒナは一瞬「なぜそんなことを?」と疑問に思ったが、特に隠す理由もないため、素直に答える。

 

「だいたい二年前ぐらいかしら」

 

「……………………………」

 

 その瞬間、レグルスの視線が逸れた。

 

「……?」

 

 ヒナが小さく首を傾げる。何か引っかかることがあったのだろうか。そう思い、レグルスに問いただそうとした──その時だった。

 

「うへ~、こいつはまた何があったんだか。すごいことになってるじゃ~ん」

 

 どこか間延びした、眠たげな声が場を割った。

 

 一同がそちらを向くと、混沌とした空気の中をのんびりとした足取りで現れたのは──

 

「ホシノ!?」

 

 先生が驚愕の声を上げる。

 

「えっ!?」 

 

『ホ、ホシノ先輩!?』

 

 続くように、セリカとアヤネも声を揃えて驚く。

 

 その視線の先、小鳥遊ホシノは眠たそうな瞼を重く持ち上げながら、ぼんやりと全体を見渡していた。

 

「小鳥遊ホシノ?……相変わらず眠たそうな顔をしてるわね。二年前の頃はもっとしっかりしていると思っていたけど……何が彼女を変えたのかしら……」

 

 ヒナが呟くように言いながら、ホシノの姿をじっと見つめた。

 

「……あれ?そこに居るのはゲヘナの風紀委員長ちゃん?それに、隣に居るのは──っ!?」

 

 その瞬間、ホシノの目が見開かれた。ヒナの隣に立つレグルスを見て、彼女は動きを止めた。

 

 しかし当の本人、レグルスはそれを気にすることなく言った。

 

「だいぶ賑やかになってきたことだし、僕はそろそろ家に帰るとしようかな。人混みはあまり得意じゃないんだよね。これ以上この喧噪の中に身を置いていると、僕の繊細な神経がすり減ってしまいそうだ」

 

 そう言い残し、ヒナに背を向けるレグルス。先ほどの会話を、まるで無かったことにするように。

 

「ああでも、僕としたことが当たり前のことを言い忘れていたよ」

 

 どこか朗らかに、しかし妙に静かな口調でそう言い、レグルスは再びヒナの方へと振り返る。

 

「風紀委員の公務を妨害したこと、市街地の道路をめちゃくちゃにしたこと……ここで、僕なりに誠意を込めて謝罪するよ」

 

 レグルスは右手を胸に添え、背筋を正し、深々と頭を下げた。

 

 その仕草には芝居めいたものは無かった。

 

「っ……!?」

 

 先程までの雰囲気とはどこか一転した態度に、チナツが息を呑む。目の奥に浮かんだのは、驚きと、わずかな困惑。

 

「……えっと、現状レグルスが悪い要素って、道路くらいしか思い浮かばないけど……でも、素直に謝れるのは、良いことね」

 

 ヒナは困惑したように、頭を下げるレグルスを見つめながらそう言った。

 

 やがて、レグルスはゆっくりと顔を上げると、かすかに笑う。

 

「こんな当たり前のことすらできない人間が、世の中にはことのほか多い。まったく、困ったものだよね。でも、安心するといい。僕はそういう卑劣な連中とは違うからさ」

 

 その瞳には、確かな自負と、どこか遠くを見つめるような陰りが混ざっていた。

 

「市街地の道路を直すための修繕費は僕の方で出しておこう。寛大な僕に、せいぜい感謝しておくといい」

 

 そう言って、レグルスは踵を返し、無造作に歩き出す。

 

 周囲を囲む風紀委員や対策委員会の視線をものともせず、レグルスは堂々と歩みを進めた。

 

「……あ、そうそう。一つ、言い忘れていたことがあったね」

 

 歩みを止め、顔だけをわずかに後ろへと向ける。

 

 その視線の先にいたのは、風紀委員ではなく、アビドスの生徒たち。そして、その傍らに立つ先生だった。

 

『い、一体なんでしょうか……?』

 

 アヤネが身をすくませるように問いかける。警戒心が声の端々に滲んでいた。

 

 そして、レグルスは静かに、しかし決定的な言葉を落とす。

 

「──悪事はほどほどにしておきなよ、覆面水着団」

 

『──っ!!?』

 

 空気が凍りついた。

 

 その場にいた先生を含む対策委員会全員の目が見開かれる。まるで打ち抜かれたように、全身に衝撃が走った。

 

 とうの昔に、レグルスにはすべてが筒抜けだった。

 

「……覆面水着団?」

 

 ヒナが小さく首をかしげる。

 

 もちろん、風紀委員として表に立つ彼女が、その正体を知るはずもなかった。

 

「それじゃあ、今度こそ僕は失礼するよ……ヒナ。久しぶりに君と顔を合わせられて本当に良かった。実に有意義なひとときだったよ」

 

 レグルスは、振り返ることなく語りかける。その声には、どこか懐かしさと惜別が織り交ぜられていた。

 

「次がいつになるかは分からないけれど、また機会があれば……その時は、他愛のない話でもしよう」

 

「……そんな、落ち着ける機会があるといいわね」

 

「全くだ」

 

 静かに言葉を交わし合うふたり。その声の温度は、周囲の騒然とした空気から切り離されたように、奇妙に穏やかだった。

 

「──それじゃあね」

 

「……うん」

 

 それが、最後のやり取りだった。

 

 レグルスは小さく頷き、誰の視線も意に介さず、静かに裏路地へと歩を進めていく。

 

 イオリはその背に警戒の色を隠さず睨みつけ、チナツの表情は疲労と混乱の色に沈んでいる。アビドスの生徒たちとその先生は未だに理解が追いつかず、ヒナだけが、去りゆくその背中をただじっと見つめていた。

 

 ──そして。

 

「っ、ま、待ってッ!」

 

 突如として、少女の声が場を切り裂いた。

 

「ホ、ホシノ先輩っ!?」

 

 セリカの驚きが響く。さっきまでの眠たげな顔とは別人のように、ホシノは焦燥を滲ませた表情でレグルスの背を追っていた。

 

 ヒナのすぐ横をすり抜ける瞬間、ヒナはその横顔を見やる。

 

「……どうして、そんなに焦っているの?」

 

 呟いたその声は、誰にも届かない。

 

 ホシノの足音が、まるで感情を叩きつけるかのように石畳を打つ。

 

 レグルスの耳に、その声が届いていたのかどうかは分からない。何も振り返ることなく、無言で裏路地へと消えていった。

 

 ──その瞬間、レグルスの姿は、市街地にいた誰の目にも映らなくなった。

 

「まっ──ッ!」

 

 ほんの一秒。いや、それ未満の時間の遅れ。

 

 ホシノが駆け込んだ裏路地には、もう誰もいなかった。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 ただ、ひんやりとした空気と、無機質にそびえるビルの壁。

 

「……はぁ」

 

 額から滑り落ちた汗が、音もなく地面に消えた。

 

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