「僕が考え事をしていて、君にぶつかってしまったのは悪かった。それは非を認めよう、僕にも責任があったからね。でもさ、僕は尻餅をついた君に対して善意から手を差しのべたんだ。それを通り越して、君が僕の身体ごと掴んでくるってどういうことなのかな?これって僕の温情と身体に対する明確な権利の侵害だよね?」
その言葉に、横に座る一人の大人……梔子ユメは肩をすくめ、小さく身を縮めるようにして謝った。
「ひぃん……ごめんなさい。本当に悪気はなかったんです……」
マエストロが部屋を後にしてから数分後。僕は別件の用事で移動していた最中に、まさかの人物と再会した。
まったく予想していなかった衝突。その拍子にユメが尻餅をつき、僕は慌てて手を差しのべた……が、勢いよく抱きつかれて、僕も一緒に尻餅をついてしまう。
絵に描いたようなドタバタ劇の末に、今こうして、僕らは並んでベンチに座っていた。
「──まさか、このタイミングでこうして会えるなんて……!」
僕の隣で嬉しそうに声を弾ませるユメの表情は、どこか眩しく見えた。
「久しぶりだね、こうして会うのは二年ぶりくらいかな?あの時以来、また砂漠で遭難しそうになったりしてないよね?」
軽い冗談を交えて問いかけると、彼女は「あはは」と照れ笑いを浮かべた。
「あの時のことを後輩に話したら、私が出かける度に『私も一緒に行きます!』って着いて来るようになっちゃって……遭難する暇すらなかった感じなんですよね。私が卒業するまで、ずっと支えてくれたんです」
『遭難する暇すらなかった』ってどんなパワーワードなんだ。
人生でそんな台詞を耳にすることがあるとは、正直思ってもいなかった。
「……どんな方法であれ、同じ過ちを繰り返さないのは大切なことだ。そんな当たり前のことを忘れがちなのがここの生徒たちだけどね。君は、自分を支えてくれた後輩に感謝するといい。そういう存在がいるというのは、本当に幸運なことだから」
僕はそう言いながら、ふと空を見上げる。
自分にはそういう存在がいただろうか、と考えたが……いや、そんな存在はいなかったなと結論付ける。
──僕は自分で自分を支えるほかなかった。
ゲマトリアに助けを求めてみろって?冗談じゃない。身体を実験させろとか、神秘の解析をさせろとか、ろくでもない見返りを求められそうだ。
「……はいっ、そうですね!感謝だけじゃ足りないくらい、私はすっごく恵まれてます!」
ユメはそう言って、軽やかに足をパタパタと動かした。
その動作も、空を見上げる無邪気な笑顔も、どこまでも純粋だった。横顔をそっと見ると、目元も頬も晴れやかで、まるで曇りのない空のようだった。
「でも、私が感謝できて、恵まれて、こうしていられるのは……」
ユメは足の動きを止め、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
「レグルスさん、あなたのおかげなんです」
屈託のない笑顔をこちらに向けながら、唐突にそう言われた。その声は、真っ直ぐに胸の奥へと届いてくるものだった。
「私が遭難してしまったあの日、夢に向かってがむしゃらになっていたあの日、絶望に呑まれそうになっていたあの日……レグルスさんが来てくれて、一瞬で全部を晴らしてくれたんです」
「──」
言葉を失い、彼女の瞳をじっと見つめた。
あの時と変わらない、いや、それ以上に強く、美しくなっていた。曇りのかけらすらない、透き通るような笑顔だった。
「だからこそ、やっと改めて言えるんです。今はもう、絶望に苛まれているわけでもないし、苦しい思いもしていませんから」
彼女はそう言って、胸に手を当てる。そしてまた、優しい笑顔で続けた。
「私を『心の底』から救ってくれて……ありがとうございました!」
その瞬間、記憶にとある一人の少女の面影が浮かぶ。
前髪に隠された片目。隠されていないもう一方の瞳は、澄んだ水色をしている彼女。
──どうして今、彼女のことを思い出したんだろうか。
理由は分からない。でも、それを気にするほど繊細な性格でもない。僕はそっとその思考を振り払い、横にいるユメへと視線を戻した。
「……あの時にも言ったと思うけどさ、僕にとってはごく当たり前のことをしただけなんだよね。君から感謝の言葉をもらったけど、あの蛇のなり損ないみたいな鉄屑が暴れて、僕に被害が及ぶのが嫌だっただけさ。だから文字通り、鉄屑にしてあげただけ。それだけなんだ。君を助けたのは、そのついでに過ぎないのさ」
それは僕の正直な意見だった。
確かに、あのときユメを助けたのは事実だ。でも、もっとも大きな理由は自分自身の安全のためだった。
もしもあのままビナーを放置していたら……いずれオアシスに足を運んだ時に邪魔をされる未来しか見えなかった。だからこそ、木っ端微塵にしておいた。
本当に、それだけのことだった。
それを聞いたユメは何も言わず、ただじっと僕の顔を見つめていた。
口を開くでもなく、目をぱちくりさせながら無言で視線を向け続けてくる。
「……君、人の顔をじっと見つめてどうしたのかな。僕の顔になにか付いてるのかい?そうやって無言で凝視されるのは、あまり気分が良いものじゃないんだけど」
どういうわけか、ユメは不思議そうに首をかしげながら、目を細めている。かと思えば、口元に柔らかな笑みを浮かべて、とんでもないことを言い放った。
「レグルスさんって、ツンデレさんですね!」
「僕に向かってツンデレと呼ぶのは禁止だ、金輪際禁止だ。分かったかい?お願いだから『はい』と返事してくれないかなあ!?」
レグルス・コルニアスがツンデレだって?
どこをどう捻ればそんな発想になるんだ。僕の顔で、僕の言動で、僕の気質で……そんなものが似合うと思ったのだろうか。
冗談はノミ以下だけにしてほしい。
「はい、もちろん冗談です。金輪際ツンデレとも言いません!」
そうだよね、冗談だよね。
即答するあたり、彼女なりに気を遣ってくれたのだろう。まあ、冗談だと分かっていても、冗談にしては心臓に悪すぎた。
ユメの口から、「やっぱりツンデレ──」と聞こえたのは気のせいに違いない。そうだ、きっと気のせいだ。
「分かってくれたなら、それでいい。無駄な言い合いは、僕と君の美的感覚を損なうだけだからね。君みたいな物分かりがいい子は、嫌いじゃないよ」
ふぅ、とひと息。そうして隣を見ると、ユメはいつの間にか胸元に手を当て、服の端をそっと握っていた。
「……でも、本当に感謝しているんです」
彼女の声は、先ほどまでの冗談混じりのものとは違い、真っすぐで、深く静かだった。
「レグルスさんが来る前に、ずっと考えていたんです。死にたくないって……もっと生きていたいって。でも……それ以上に、私の後輩たちや、これから入学してくる子たちの姿を見れなくなるのが、一番怖かったんです」
その言葉には、彼女の人間性がにじみ出ていた。表情には、やわらかな優しさが宿っている。後輩を心から大切に思っているのが、嫌でも伝わってくる。
「それに、もし私があの場で死んでしまっていたら……何かがすごく変わってしまいそうな気がして……」
──そりゃあ、死ねば何もかも変わるだろう。
一人が欠けるだけで、周囲の空気が一変するのはよくある話だ。だからこそ、僕も自分の死には慎重だ。死んだら、文字通り全てが終わるのだから。
「私にとっても、人生のターニングポイントだったと思うんです。だから、何度だって言いますし、言いたいんです。ありがとうございます、って」
そう言って、ユメはふふんと鼻を鳴らし、何故か誇らしげに両手を腰に当てて胸を張った。
「言うだけならずっとタダですからね!」
「──ああそうかい。僕はもうお腹いっぱいだけどね」
さすがに、そろそろ感謝の過剰摂取で胸焼けしそうだった。なんとか話題を逸らさなければと思ったが……ダメだ。何も浮かばない。このノミ以下の思考回路が……!
と、僕が苦悶の表情を浮かべそうになるのを押しとどめていたその時、隣のユメがぽつりと呟いた。
「……レグルスさん、私には夢があるんです」
唐突に話題が切り替わった。
それに僕は少し困惑した。けれど、ユメの声にはどこか決意めいた色が含まれていて、自然と僕の耳もそちらに傾いた。
「アビドスの砂漠に列車を走らせたいとか、砂祭りを開催したいとか、後輩たちと世界一周の旅行がしたいとか……アビドスの借金を返済したいとか。とにかく、叶えたい夢がたくさんあるんです!」
空を見上げながら楽しそうに語った。その声には飾り気がなく、ただまっすぐな意志だけが宿っている。
「夢をたくさん持つこと自体は、悪いことじゃないからね。たとえそれが現実離れしていようと、叶うのが大変でも……持っているだけで、それは立派な価値になるものだよ」
僕は淡々と言葉を返す。
だが、その言葉は本心から出たものだった。アビドスの重すぎる借金が彼女たちにのしかかっているのは、誰の目にも明らかだ。それでも彼女は、自分の夢を捨てずにいる。そういう生き方が、僕にはまぶしく映った。
ユメの身体には疲労の色が滲んでいた。絆創膏が貼られた腕、目の下にうっすらと浮かぶ隈……そのひとつひとつが、彼女が夢のために日々努力している証だった。
「レグルスさん、良いこと言いますね!」
「当然だとも。僕は常に良いことしか言わないからね」
調子を合わせるように返すと、ユメは満足そうな表情で足をプラプラさせた。本当に分かりやすい子だ。
「……まあでも、やっぱり一番は──」
「ん?」
僕が少し首を傾げると、ユメは一度口を閉じ、目を閉じた。そして、少し呼吸を整えてから言った。
「皆が元気にしてくれたら、それで良いんです。穏やかに学生生活を満喫してくれたら、それで。私の場合は、あまり満喫できるような状態じゃありませんでしたから……だからこそ、私の分まで楽しんでくれたら良いなって、常日頃から願っています!」
……よほど後輩のことが可愛いのだろう。
いや、それだけじゃない。『誰かのために生きたい』という気持ちが、彼女の芯にあるのだ。とてもじゃないが、僕には真似できない。
それが、彼女らしいと思った。
「まあ、常に後輩が可愛かったから、そういう意味では私も満喫できていましたけどね!」
と、明るく付け加えながらユメはまた頷いた。
「君はとても立派だね……まったく、あのポンコツロボも見習ってほしいものだよ。まあ、無駄だと思うけどね」
「ポンコツロボ……?」
「こっちの話さ」
そういえば、あの時は勢いで片腕を吹っ飛ばしてしまったが……彼は無事に修復できたのだろうか。まあ、あれだけ替えがあると豪語していたのだから、大丈夫だろう、多分。
「──レグルスさんも、何か夢はあるんですか?」
「え?」
考え事をしていた僕の思考が、唐突な問いで中断される。思わずユメの顔を見つめてしまった。
「レグルスさんは、夢が叶うのは大変でも、持っているだけで価値があるって言ってましたよね?そんな良いことを言うレグルスさんだからこそ、何か夢を持っているんじゃないかなって、思ったんです!」
笑顔でなんてことを言ってくるんだこの子は。
確かに、僕はそう言った。だけど、それを根拠に僕が夢を持っているなんて考えるのは、いささか早計だろう。
「……そうだね。君の夢を聞かせてもらったというのに、僕が自分の夢を語らないなんて、それはフェアじゃないよね。僕は筋を通す男だからさ。要求された以上、それに応えるのは当然のことだ」
口ではそう言ってみたものの、僕には夢なんてものは無い。作る余裕がなかったと言った方が正しいのだろうか。だから、何も言うことはできな……いや、一つだけ。
「僕の夢は……」
一つだけ、ずっと心の底にある願いがあった。
「とにかく穏やかに暮らせるようになること。それだけさ」
キヴォトスという世界は常に騒がしく、混沌に満ちている。銃弾は日常的に飛び交い、爆発も珍しくない。だからこそ僕は叫びたい。
どうか、僕の暮らしの中にだけは、その非日常を持ち込まないでほしいと。
「穏やかに暮らせること……それだけ、なんですか?」
その返答に、ユメが驚いた顔を向けてきた。
……いや、驚くほどのことじゃないだろうに。
「僕は無欲な人間だからね。過度に何かを求めたりはしないのさ」
とりあえず、それっぽいことを言っておいた。
「いや、それは……ううん、確かにそうですね。ここは何かと争いが多いですから、それを求めるのは当然ですよね。私も争いは苦手ですので!」
──ああ、気が合うなと素直に思った。
争いを好まないという点では、僕たちは似ている。そんな共通点が嬉しくて、つい口元が緩んでしまった。
「まったくだよ。争いなんて、無意味の極みだよね。皆が僕や君のように理知的で穏やかであれば、世界はもっと平和で、美しく整っていたはずなのにさ。どうして皆それができないのかな、不思議でしょうがないよね」
「分かります!みんな仲良くできれば良いな~って、私もよく思ったりします!」
その後、ほんのわずかな間だけ、僕たちは静かに会話を交わしていた。
──正確には、ユメが喋って、僕がそれに返すだけの形だったけれど。
「──えっ、もうこんな時間!?」
突然、隣から焦りを帯びた声が飛んできた。ユメが腕時計を見つめて目を見開いている。
「すみませんレグルスさん、こんなところで引き留めてしまって……どうしよう、ホシノちゃんにも怒られてしまうかも……!」
そう言って肩をすくめる彼女の姿は、先ほどまでのゆったりした空気から一転、慌ただしさを纏っていた。
……なるほど、どうやら彼女にも何かしらの予定があったらしい。僕にも予定があったから、そろそろ行く頃合いだと考えていたところだ。実に良いタイミングである。
「気にしなくて良いさ。僕にとっても、これは実に有意義なひとときだったからね。こうして君のような人と再び言葉を交わせたこと、それ自体が稀有な機会だったよ」
僕の言葉に、ユメは「私も楽しめました!」とぱっと笑みを浮かべて、勢いよくベンチから立ち上がる。その勢いに釣られるように、僕も自然と立ち上がった。
──そして、次の瞬間だった。
「──レグルスさん!」
「ん? まだ何か……って!?」
言葉をかける間もなく、ユメが僕の左手を掴んだ。そして、そのまま両手で包み込むように強く握る。
……両手で、僕の手を、だ。
「ちょ、君……!?」
驚愕して言葉がつっかえた僕をよそに、ユメは真っ直ぐな瞳で僕を見つめる。
「──本当にありがとうございました!こんな私を救ってくれて、夢を追いかけ続けられるようにしてくれて……私、これからもずっとずっと頑張れそうです!」
その姿は、感情を全開にしてぶつけてくる純粋さそのものだった。僕としては予想外というか、物理的に近すぎるというか……とにかく、心臓に悪すぎる。
「わ、分かったから……君にも予定はあるんだろう? 僕だって、何かと忙しい身なんだ。だから今日はここまでとさせてもらうよ。また会う機会があるなら、その時に話そう。だから手を……!」
なんとか平静を装いながら言葉を並べる。するとユメはさらに嬉しそうに表情を綻ばせ──ようやく、僕の手をそっと放してくれた。
「はい!また会ったら、その時はよろしくお願いします!」
「分かった、分かったよ……それじゃあね、ユメ」
普段なら「君」と呼ぶところを、この時は名前を呼んでしまった。無意識に。きっと彼女の気迫に圧倒されたせいだ。そうに違いない。
「~~~っ!!では私はこれで!待っててね、みんなー!」
顔を真っ赤にしながら、でも嬉しそうにそう叫ぶと、ユメは踵を返して走り出した。その背中は勢いよく遠ざかっていくが──途中で何度もこちらを振り返って、満面の笑みで手を振ってきたが。
「……」
僕はその小さくなっていく背を、しばらく静かに見つめていた。そして、ようやく胸の奥にたまった空気を、長く吐き出す。
抱きつかれてワンアウト、手を包まれてツーアウト、そして、スリーアウトは……
「──疑似心臓が寄生しなくて良かったよ、本当にね」
どうにか、逃れることができたらしい。