「──とりあえずここで良いよね。ほら、降ろすよ。足元に気を付けるといい。転んでも責任は取れ……さっきも似たようなことを言った気がするね」
似ているどころか、全く同じだった。
「ひぃん……あんなに高いところから飛び降りるなんて初めて……あっ、レグルスさん、ありがとうございます……」
抱えられたまま高層ビルの屋上から飛び下りてきたユメは、ようやく地上へと降り立った。レグルスの腕の中からするりと身を抜き、アスファルトの感触を確かめるように足元を見下ろした後、そのままアスファルトを踏みしめる。
「……さっき墜落したヘリ、本当にカイザーが集まるところに直撃したんですね」
足元を見ていた顔を上げ、悲鳴にも近い声を上げて逃げていくカイザー兵たちの背中を、ユメはぽつりと呟きながら見送る。
「狙ってやったから当然だとも。わざわざ近くの高層ビルに向かったのは、それが理由なんだからさ。きっと地上では、汚くて無様な花火が盛大に打ち上がっていたんだろうね」
その爆発を『汚い花火』と称するレグルスは、口角を上げながら静かに目を閉じた。
「……レグルスさん」
「何かな?」
「……その、カイザーを追いかけたりは、しないんですか?」
意外だった。
あれだけの怒りを抱いており、レグルスは明らかにカイザーに対して敵意を向けていた。トラックを蹴って鉄片を飛ばし、上空からカイザー兵を地面に叩きつける……第三者から見ても、それは少なからず殺意を抱いており、それほどまでに少し暴力的だった。
「僕は最初に言ったはずだよ。『市街地での戦いを、終わらせるためにね』って。僕がここに来たのは、ただの気まぐれなんかじゃない。僕自身と、この市街地に暮らす市民たちが『平穏に過ごす』という当然の権利を、あろうことか踏みにじってきたカイザー……その醜悪な存在を、ここから追い出すためさ。僕は、最初からそれだけが目的だったからね」
「──それは……」
大事な後輩であるホシノを奪った相手に逃げる余地を与えるなどありえない。
そう言いかけて、ユメは言葉を飲み込んだ。
これはアビドスの問題であり、レグルスの問題ではない。ここから先は、自分たちの手で解決しなければならないのだ。
「──ユメせんぱーい、ご無事ですかー!☆」
賑やかな声が背後から響き渡り、ユメは驚きと喜びに満ちた声で振り返った。
「み、みんな……!」
そこには、戦いを終えた仲間たちの姿があった。先生に対策委員会、そして便利屋68……頼れる生徒たちが、こちらに向かっていたのだ。
涙がまた滲んでくる。
今度は、誇らしさと安堵の涙だ。
──さすがは私の可愛い後輩たち!
泣きそうになりながらも、内心でそうドヤ顔を浮かべたその時、再び背後から声がかけられた。
「──君……君たちには、まだやることが残っている。そうだよね?」
「……え?」
その声に振り返れば、レグルスがこちらを見ていた。
先ほどまでカイザー兵を見つめていたその瞳が、今はユメを真っ直ぐに捉えている。
「君はどこか、納得のいかない表情を浮かべている。それはつまり、君自身の目的がまだ果たされていない証拠だ……だけど、あいにく僕は今後君に直接手を貸すことは出来ない。なにせ、僕の目的は既に完遂済みだからね。それに、これでも僕は多忙な身だからさ。無暗に他者の世話を焼いている暇なんてないんだよね」
──それは、もっともな話だった。
むしろ、ここまでカイザーを蹂躙してくれたことの方が異常なのだ。圧倒的な戦力を相手に、ほぼ一人で殲滅させたのだから。
「……はい、それはその通りですね、レグルスさん」
だからこそ、ここからは自分たちの手で。
ホシノを救い出すのは、自分たちの戦いだ。一人の大人として、もう一人の大人と共に、可愛い後輩たちを導いていくために。
「──私、精一杯頑張ります!」
もう、迷うことはない。
どうしようもなかった自分を救ってくれたその人に、恥じないように。どこまでも前に進み続ける。決して、諦めたりはしない。
「そうそうそれで良い。何かを成し遂げようと健気に頑張る姿というのは、僕も嫌いじゃないからね」
優しげな口調でレグルスは言った。その視線は真っ直ぐにユメの顔へと向けられている。
「……ただ、君は相変わらず涙を浮かべている。その顔で、君にとって頼りになる先生や、君が守ってきた後輩たちにどう顔向けするつもりなのかな?その顔で、胸を張って言えるわけがないでしょ、『頑張ります』ってさ?」
だからお前が原因だと言っているだろレグルス。
「さっきも言ったけどね、君のその顔はあまりにも似合っていない。さっきは君の涙を拭い損ねたから、ここは仕切り直しとして、僕が君の涙を拭ってアゲええええぇぇぇッッ!!?」
「えっ!?」
ギャルもびっくりなテンションでアゲアゲしたかと思えば、唐突にレグルスの頭ががくりと前へ傾く。何の前触れもなく、まるで首の後ろを叩かれたかのように。
『──ふはははッ、これで勝ったと思うなよ、レグルス・コルニアスッ……! このように、貴様の頭に何発でも弾丸を撃ち込み、その腐った脳を引きずり出してやるからな……!』
メガホン越しの甲高い声が、市街地に響き渡る。
ユメが驚きながら前方を見ると、そこにはメガホンを握りしめ、なぜか勝ち誇った顔をしながらこちらを見据えている理事の姿があった。
どうやら理事は、懲りずにまたレグルスの後頭部へと弾丸を撃ち込んだらしい。レグルスが突然前のめりになったのは、その衝撃によるものだった。
「……………………」
「レグルスさん、大丈夫ですか!?」
ユメは慌てて声をかける。直前までの穏やかだったのが嘘のように沈黙するレグルス。
二度目の被弾で、さすがに黙り込んでしまった。
──ややあって、レグルスが静かに顔を上げた。
「……全く、相変わらずどこまでも野蛮な集団だね。頭に撃ち込んだからって、僕を倒せるとでもおもおおおおおおッッ!!?」
怒りと呆れを交えた声音で言いかけた、その矢先にまたしても衝撃が走る。
「──」
レグルスは、再び顔から前のめりになった。
『次会った時は、本格的に貴様の安住の地をキヴォトス中から無くしてやる。覚悟しておくんだな!ふはははははッ!』
『理事、何やってるんですか!?今はとにかく逃げた方が──』
部下の制止も聞かず、理事はまたも指示を飛ばす。執念か、ただの負けず嫌いか、その執拗さは尋常ではない。
「……………………………」
沈黙を貫いたレグルスは、うつむいたまま身動きひとつ取らない。
「──レ、レグルスさん……」
ユメは心配そうに声をかける。いくらレグルスが常人離れした存在とはいえ、ここまで後頭部ばかり撃たれて精神的に無傷でいられるとは思えなかった。
「……このハンカチは君にあげるよ。その涙は、申し訳ないけど自分で拭ってくれないかな?」
「へ?……い、良い、のですか……?」
顔を伏せたまま、レグルスは白いハンカチを片手で差し出す。それをユメは両手で受け取り、そっと見つめた。
「──僕も、たった今二つの目的が出来たんだ。まずその内の一つを、ここで終わらせようと思ってね」
その言葉と共に、レグルスはゆっくりと顔を上げる。
「…………ひぃん」
穏やかな表情を浮かべている……はずだった。
その笑顔の中に、怒気を物語るように浮かぶ無数の血管。白目に走る赤、額に刻まれる不自然な脈動。表情は穏やかなのに、どこかこの世ならざる気配すら感じさせた。
その顔を見たユメは、思わず情けない声を漏らした。
「そのハンカチをあげる代わりに、これからする僕の行動を見なかったことにしてほしいんだけどさ、良いかな?」
突如として、レグルスが意味深なことを言い出した。
「へ?」
ユメは思わず間の抜けた声を漏らす。まだ血管を浮かべたままのレグルスの顔が視界にあるせいか、ただならぬ予感がした。
──その予感は、すぐに現実のものとなる。
レグルスは何も説明しないまま、ユメに背を向けたかと思うと、近くに放置されていた無人の戦車にひらりと飛び乗った。
そして、レグルスの視線の先には──
『……奴は、戦車に飛び乗って何をするつもりだ?』
『おいこれ、とんでもなくまずいんじゃ……』
メガホンを握りしめながら逃げ続けている理事と、それについていくカイザー兵。
その姿を見据え、レグルスは静かに……いや、禍々しいほど静かに息を吐いた。
「──ふう……」
まるで己の怒りを鎮めるかのように、穏やかな吐息を漏らしたその瞬間。
「弾丸を当てれたぐらいで調子に乗るなよッ!ポンコツロボがあッッ!!」
表情は一転した。
それまでの穏やかな笑顔が一瞬で吹き飛び、鬼の形相がそこにあった。
激昂と怒気が交錯する形相を浮かべたレグルスは、声を荒げると同時に戦車の上から跳ねるように飛び出した。市街地の瓦礫を蹴り上げながら、理事たちの方へ向かって一気に駆け出す。
「ほへ?」
ユメは呆けたような声を上げた。まったく事態についていけていない。
だが、レグルスに追われた理事とカイザー兵たちのほうがよほど大変そうだった。市街地のあちこちから、彼らの悲鳴が木霊のように響いてくる。
あまりの恐怖に、一部のカイザー兵は自分の銃を放り投げてまで逃げ出す始末。まるで白い悪魔に追われるかのように、理事とカイザー兵たちは蜘蛛の子を散らすように市街地から姿を消していった。
「──うん」
ユメはようやく落ち着いたように、白いハンカチを目元に当てる。
涙を一拭き、もう一拭き。
あたたかな布地の感触とともに、自分の中で決意が澄み切っていくのを感じた。
「私は、皆と一緒にホシノちゃんを救ってみせる!」
ユメは、胸を張ってそう言った。
白いハンカチは、ただ涙に染まる物ではなく、ユメの誓いを映す象徴になっていた。
◆
「クックック、これは一本取られてしまいましたねえ」
──深夜のキヴォトス。
市街地の騒動が沈静化してから、数時間が経過していた。
街はすっかり夜の帳に包まれ、太陽の残滓すら見当たらない。月光も届かぬ、闇に染まったとあるビルの一室。窓には黒いカーテンが引かれ、室内には灯りもなく、ただ仄かな機器の光が漂うだけ……そんな空間に、不気味な笑い声が響いていた。
「時に契約というのは、こうも厄介なものになるものですね。いやはや、私としたことが……クックック……」
机の前で片肘をつき深々と嗤っているのは、ゲマトリア所属の探求の権化、黒服。
その目にはぞくりとするほどの静かな狂気と、何かを見透かすような鋭さが宿っていた。
黒服が興奮しているのは、つい先ほどの出来事によるものだった。
ホシノを確保し、神秘の裏側……すなわち『恐怖』をミメシスを通じて観測し、それを適応させるための実験を始めようとしていた。
だが、最後の最後で肝心なものが欠けていた。
ホシノの退部届けを認証するための顧問のサイン……先生によるサインが欠けていた。
普通ならば見落とすはずのない初歩的なこと。
だが、興奮に目を曇らされた黒服はそれに気付けなかった。先生にその点を指摘された時、彼は何も言い返すことが出来なかった。
契約という制度の前では、立ち尽くす他なかったのだ。
「……まあ、先生が持つ『大人のカード』をこの目で見れただけでも良しとしましょうか」
その力は使えば使うほど、確実に本人を削っていくであろう──それでいて、まさに奇跡と呼べる代物。
黒服はその存在に、興味を抑えきれなかった。
解析したい。分解したい。構造を理解し、その理屈を見出して理解したい。
それは黒服にとって当然の欲求だった。探求の権化たる彼が、未知を前にして引き下がるなどあり得ない。
「『大人のカード』と彼が持つ神秘がぶつかり合えば、どちらが勝つのでしょうね?」
あの異常とも呼べる、彼が持つ神秘。
常識も、理屈も、倫理さえも凌駕する理不尽そのもの。
もしそれが『奇跡』と衝突したなら、果たしてどちらが勝るのか──それを想像するだけで、黒服の中の探求心は疼いた。
「クックック……!」
笑いが止まらない。止まるはずがなかった。観測したい現象が多すぎて、思考がどこまでも暴走していく。
「やはり、彼をゲマトリアに招いて正解でした」
そう言いながら、黒服はふと先ほどの対話を思い出す。この部屋で交わされた、先生との会話の一幕。
『"彼は、貴方たちのような大人なんかじゃない。言動や性格が少し変わっている人かもしれないけど、根はとても優しい人だと思う。実際、私たちは彼に何度も助けられたから。それこそ、私の目が届かないところでもね"』
『いいえ、先生。それこそ断言出来ます。貴方は彼を見誤っています。根は優しいのかもしれません、貴方にとっては何度も助けられた存在なのかもしれません。彼のその意思は嘘偽りもないかもしれません……しかし、彼のその根底を何一つ理解していない』
『"──彼は、ゲマトリアに向いていない"』
『──彼こそが、ゲマトリアにふさわしい』
確かに、彼がゲマトリアに所属することとなったのは脅しに近かったのかもしれない。実際、彼の境遇に付け込んで勧誘したのは事実なのだから。
だが、彼は──
「……おや?」
そんなことを考えていると、静まり返っていたビルの一室に足音が響いた。
「今日は、他に来客の予定は無かったのですがね」
足音は迷いなく、まっすぐに黒服のデスクへと向かい──目の前でピタリと止まった。わざわざこの時間に、自分のもとを訪ねてくる物好きがいるとは……と思ったが、その正体を視界に捉えた瞬間、黒服の目はほんの少し見開かれた。
「──クックック、こんな時間にわざわざ私のところまで来てどうしたのですか?……レグルス」
この場に現れたのは、レグルス・コルニアスだった。
つい先ほど、先生との会話の中でも話題に上った彼が、今まさに黒服のもとを訪れている。
この二年、彼が自らここを訪ねてきたことなど一度もなかった。黒服が呼び出すか、彼の部屋に足を運ぶか……それが常だったからだ。
「私とお茶でもしに来たのですか?外はすっかり暗くなってしまいましたが……夜空を眺めながらお茶するのも、また一興ですね。すぐにお茶を用意しま──」
「──ずっと、思っていたことがあるんだよね」
黒服のお茶の誘いを、レグルスは無造作に遮った。
「ここ最近、当たり前のように僕の権利が侵害され続けてきたんだ。しかもだよ?これといって贅沢を望んでいるわけでもなく、他人に不幸を押しつけているわけでもない。誰かを蹴落としたいとも思わないし、何かを独占したいとも思わない。むしろ、そういう貪欲な生き方には辟易してる側の人間なんだけどね?それでも、そんな無欲である僕が唯一願っていた、たった一つのちっぽけな願いである『平穏に過ごす』こと。朝は静かに紅茶を飲んで、昼には日差しの中を少しだけ散歩して、夜は読書でもして一日を終える……そういう、ごくごくありふれた静かな日々を求めていただけなのにさ、現実はいつも非情でしかなかった」
レグルスは一度、ため息を吐いてから口を閉じ、ほんの少しだけ視線を落とした。そして、再び黒服を見据えて語り出す。
「戦車に轢かれかけ、銀行強盗に襲われ、懺悔の気持ちでペロログッズを買うはめになり、爆発で空高く吹き飛ばされ、生徒たちに銃口を向けられ、弾丸が頭に何度も直撃し、市街地ではミサイルに直撃し、荒らされ、そこに住む市民たちの権利が侵害された」
「……」
黒服は、手を組んだまま微動だにせず、ただレグルスの語る言葉に耳を傾けていた。
「でもさ、僕がこうして被害に遭ってきたのは……黒服、ほとんど君が関わっていたからなんだよね」
それは事実だった。
銀行強盗に襲われたのは、黒服の代理でお金を引き出しに銀行に来たから。爆発で空高く吹き飛ばされたのは、柴関ラーメンの無料券を渡してきた事がきっかけだったから。生徒たちに銃口を向けられたのは、爆発によって交差点の中心に落とされてしまったから。市街地でミサイルに直撃したのは、黒服に呼び出されたから。
「ここ最近、君と関わるとロクなことが無かったからさ……だから、僕は決めたんだ」
淡々と、だがほんの少し怒気を含んだ口調で、レグルスは告げる。
「……何をです?」
黒服は、静かに問い返した。その言葉に、ただ純粋に興味があった。
──レグルスは、何を言おうとしているのか。
そして、レグルスは口を開いた。
「──君の計画そのものを、邪魔してやろうとね」
その一言は、すなわち宣戦布告だった。
「──」
しばし沈黙。そして──
「クックック……!」
黒服は、腹の底から笑い声を漏らした。その笑いには、軽蔑も侮蔑もない。ただ、純粋な歓喜が宿っていた。あまりの面白さに、心が躍っていたのだ。
「──レグルス、貴方は私に対して、どのような邪魔をなさるつもりですか?」
問いかける黒服の声音は、今までにないほどに真剣だった。その言葉を一言一句逃すまいと、集中を研ぎ澄ませる。
「──黒服」
レグルスは目を閉じ、静かに名を呼ぶ。
そして、そのままゆっくりと目を開き、真正面から黒服を見据えて口を開いた。
「─────────────────」
「──クックックックック……!!」
それを聞いた黒服は思わず、口元を押さえるほどの笑いを漏らした。
ああ、やはり彼は──
「すみません。よく聞こえなかったので、もう一度言って貰えませんか?」
「あのさあ、君は人の話を一回で聞くことも出来ないわけ?……はあ、もう一度だけ言ってあげるよ。寛大で慈悲深い僕に感謝すると良い」
やはり彼は、どこまでも強欲の権化だった。
「──小鳥遊ホシノの居場所を教えなよ」